■3、海南島からの朝鮮人帰還 11
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 3
日本窒素の経営する興南肥料工場から、同じ日本窒素の経営する海南島の石碌鉱山に働きにいった金栄鳳氏(1919年生)は、2001年4月に、ソウル市の自宅で、次のように語った。
「1942年ころ海南島に行った。それまで故郷の咸興にあった興南肥料工場で30円の月給
で働いていたが、海南島では150円くれるというので行った。海南島では、石碌に行って
すぐにマラリアにかかり、治ってから八所の王子製紙で鍛治屋の仕事をずっとやった。
八所で、朝鮮人囚人が働いているのを見たことがある。警備員が監視しているので囚人だ
と思った。
解放後、楡林に朝鮮人が作った朝鮮人民会があると聞かされ、八所から楡林にいった。
朝鮮人民会には、数百人集まっていた。朝鮮人民会には食べ物、米もなかった。楡林から
船に乗った。船の中でも、食べ物がなかった。船中で、看守たちが囚人にひどく殴られて
いた。ホンコンに寄って、朝鮮人義勇軍を乗せた。日本人もホンコンから乗ってきた。
帰りは早かった。釜山に来たら、コレラが発生して上陸できず、15日くらい待って上陸し
た。朝鮮に帰ってきた。1946年5月か6月だった」。
石碌で西松組の従業員として働いていた張達雄氏(USAカルフォルニア在住)は、1998年8月に、ソウル市内で、日本敗戦時のことについて、こう語っている。
「解放を知って、石碌から北黎(いまの八所)に行って、朝鮮人会をつくった。受刑者
たちもいっしょだった。西松組本部がそのまま朝鮮人会の事務所になった。朝鮮人会には
1000人以上いたと思う。苦力だった金チョンシクが初代会長。彼から愛国歌を習った。
ソウル出身で、日本で大学を出たといっていた。そのほかに、朝鮮の北のほうから来た申
(平山)、ソウル出身の五十嵐という人もいた。朝鮮人会は、北黎の日本海軍陸戦隊司令
官と、生計維持、安全帰国、日本軍の武装解除などについて交渉した。
1946年に釜山に着いた。麦が青々としていて、春のおわりころだったと思う。船は貨物
船で、八所にいた人間は、朝鮮人も日本人もいっしょに乗ってきた。釜山では、米軍が銃
をもって監視していた。日本人は船倉で、釜山に寄って日本に帰った」。
前述した崔成烈氏は、日本敗戦前に帰国したが、当時のことを、次のように語っている。
「わたしは、八所に3年いた。海南島で月給は270円だったが、国民学校を出ただけの日
本人の月給が470円で、待遇に差別があり、いやになって帰国することにした。
1か月に1回づつ、帰国船が出ていた。八所から、帰国する30人が軍用トラックで楡林に
いった。そのうちの13人が朝鮮人で、家族づれの人もいた。楡林から台湾人、日本人、
朝鮮人合わせて400人が船に乗って台湾の高雄に行った。高雄で台南丸という5500トンの
船に乗り換えた。台南丸は南方からきた33隻の船と船団を組んで、全部で3万3千人が長崎
に向かって出発した。長崎に着く前の日、1944年6月24日の夜中に潜水艦にやられて沈ん
だ(47)。生き残ったのは246人だった。わたしは助かって長崎に行き、憲兵隊から200円も
らって咸興にもどった。
咸興からいっしょに八所に行った石光玉と金昇泰は、解放後に帰国した。1949年ころ偶
然ソウルで二人に再会したが、そのとき彼らは、‘朝鮮報国隊’がみんな銃殺されたとい
っていた。そのことを彼らは、三亜の‘土人'から聞いたといっていた。1200人~1300
人くらい殺されたという」。
註47 崔成烈氏が証言しているように、台南丸(大阪商船。自営。定員、2等39人、3等88人。
1897年進水)は、1944年6月24日午後11時54分に九州南西沖で魚雷をうけ、1分後に沈没し
ている。このとき同じ地点で那須山丸(三井汽船。自営)、玉鉾丸(会陽汽船。陸軍徴用)、
建日丸(大同海運。海軍徴用)なども魚雷をうけて沈没している(『世界の艦船 日本の客
船Ⅰ』海人社、1991年、167頁。駒宮真七郎『太平洋戦争被雷艦船史』自費出版、1997
年、100頁。戦歿船を記録する会編『知られざる戦歿船の記録』下、柘植書房、1996年、
177頁、参照)。駒宮真七郎『戦時船舶史』(自費出版、1991年)によれば、沈没時の台
南丸の船客は454人で、船員39人が死んだという(船客の死亡者数は不明)。
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 3
日本窒素の経営する興南肥料工場から、同じ日本窒素の経営する海南島の石碌鉱山に働きにいった金栄鳳氏(1919年生)は、2001年4月に、ソウル市の自宅で、次のように語った。
「1942年ころ海南島に行った。それまで故郷の咸興にあった興南肥料工場で30円の月給
で働いていたが、海南島では150円くれるというので行った。海南島では、石碌に行って
すぐにマラリアにかかり、治ってから八所の王子製紙で鍛治屋の仕事をずっとやった。
八所で、朝鮮人囚人が働いているのを見たことがある。警備員が監視しているので囚人だ
と思った。
解放後、楡林に朝鮮人が作った朝鮮人民会があると聞かされ、八所から楡林にいった。
朝鮮人民会には、数百人集まっていた。朝鮮人民会には食べ物、米もなかった。楡林から
船に乗った。船の中でも、食べ物がなかった。船中で、看守たちが囚人にひどく殴られて
いた。ホンコンに寄って、朝鮮人義勇軍を乗せた。日本人もホンコンから乗ってきた。
帰りは早かった。釜山に来たら、コレラが発生して上陸できず、15日くらい待って上陸し
た。朝鮮に帰ってきた。1946年5月か6月だった」。
石碌で西松組の従業員として働いていた張達雄氏(USAカルフォルニア在住)は、1998年8月に、ソウル市内で、日本敗戦時のことについて、こう語っている。
「解放を知って、石碌から北黎(いまの八所)に行って、朝鮮人会をつくった。受刑者
たちもいっしょだった。西松組本部がそのまま朝鮮人会の事務所になった。朝鮮人会には
1000人以上いたと思う。苦力だった金チョンシクが初代会長。彼から愛国歌を習った。
ソウル出身で、日本で大学を出たといっていた。そのほかに、朝鮮の北のほうから来た申
(平山)、ソウル出身の五十嵐という人もいた。朝鮮人会は、北黎の日本海軍陸戦隊司令
官と、生計維持、安全帰国、日本軍の武装解除などについて交渉した。
1946年に釜山に着いた。麦が青々としていて、春のおわりころだったと思う。船は貨物
船で、八所にいた人間は、朝鮮人も日本人もいっしょに乗ってきた。釜山では、米軍が銃
をもって監視していた。日本人は船倉で、釜山に寄って日本に帰った」。
前述した崔成烈氏は、日本敗戦前に帰国したが、当時のことを、次のように語っている。
「わたしは、八所に3年いた。海南島で月給は270円だったが、国民学校を出ただけの日
本人の月給が470円で、待遇に差別があり、いやになって帰国することにした。
1か月に1回づつ、帰国船が出ていた。八所から、帰国する30人が軍用トラックで楡林に
いった。そのうちの13人が朝鮮人で、家族づれの人もいた。楡林から台湾人、日本人、
朝鮮人合わせて400人が船に乗って台湾の高雄に行った。高雄で台南丸という5500トンの
船に乗り換えた。台南丸は南方からきた33隻の船と船団を組んで、全部で3万3千人が長崎
に向かって出発した。長崎に着く前の日、1944年6月24日の夜中に潜水艦にやられて沈ん
だ(47)。生き残ったのは246人だった。わたしは助かって長崎に行き、憲兵隊から200円も
らって咸興にもどった。
咸興からいっしょに八所に行った石光玉と金昇泰は、解放後に帰国した。1949年ころ偶
然ソウルで二人に再会したが、そのとき彼らは、‘朝鮮報国隊’がみんな銃殺されたとい
っていた。そのことを彼らは、三亜の‘土人'から聞いたといっていた。1200人~1300
人くらい殺されたという」。
註47 崔成烈氏が証言しているように、台南丸(大阪商船。自営。定員、2等39人、3等88人。
1897年進水)は、1944年6月24日午後11時54分に九州南西沖で魚雷をうけ、1分後に沈没し
ている。このとき同じ地点で那須山丸(三井汽船。自営)、玉鉾丸(会陽汽船。陸軍徴用)、
建日丸(大同海運。海軍徴用)なども魚雷をうけて沈没している(『世界の艦船 日本の客
船Ⅰ』海人社、1991年、167頁。駒宮真七郎『太平洋戦争被雷艦船史』自費出版、1997
年、100頁。戦歿船を記録する会編『知られざる戦歿船の記録』下、柘植書房、1996年、
177頁、参照)。駒宮真七郎『戦時船舶史』(自費出版、1991年)によれば、沈没時の台
南丸の船客は454人で、船員39人が死んだという(船客の死亡者数は不明)。