三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島からの朝鮮人帰還について 20

2007年05月16日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 12
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 4
 海南海軍特務部の通訳だった林吉蘇氏(1925年生)は、2002年3月、海南島臨高県新盈の自宅で、日本敗戦後の朝鮮人に関して、次のように語った。
   「日本政府がつくった慶安中学に15歳の時に入学した。海南島の各地から若い人たちが
  入った。卒業して、特務部に配属された。1944年だった。海口や那大や新盈で、日本軍の
  通訳をした。日本軍が降伏したあと、三亜に逃げた。
   三亜は、国民党の金で生活した。日本軍が帰国したあと、国民党は、朝鮮人と台湾人を
  すぐに帰国させないで、技術的な仕事をさせた。
   楡林の工場で朝鮮人を見た。機械の修理や管理をしていた。100人以上いた」。

 前述した趙向盈氏は、日本敗戦後のことを、次のように話している。
   「わたしは治安維持会副会長だったので、日本の投降後、国民党の裁判を受け、海口の
  刑務所に入れられた。日本海軍特務部の政務局長溝口征大佐を射殺した朝鮮人金元植とそ
  こで会った。かれは、朝鮮同郷会会長で、年は35歳くらいだった。わたしに、判決文を見
  せてくれた。上訴するのに、いっしょに相談もした。金元植は監獄から脱走した。わたし
  はその1週間後、出された。
   海口の刑務所には、1000人が入れられていた。徐龍燮、金龍成という朝鮮人もいっしょ
  だった。その後、偶然、海口で飲み屋をしていた友人の店で、ふたり会った。ふたりは歌
  が上手で手品もうまく、演技団に入って、日本占領時代に海南島に来たといっていた。
   海口に“大韓民国同郷会”があった。そこで、残っている朝鮮人の数を調べたり、帰国
  の仕事、整理、記録などを少し手伝ったことがある」。
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海南島からの朝鮮人帰還について 19

2007年05月15日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 11
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 3
 日本窒素の経営する興南肥料工場から、同じ日本窒素の経営する海南島の石碌鉱山に働きにいった金栄鳳氏(1919年生)は、2001年4月に、ソウル市の自宅で、次のように語った。
   「1942年ころ海南島に行った。それまで故郷の咸興にあった興南肥料工場で30円の月給
  で働いていたが、海南島では150円くれるというので行った。海南島では、石碌に行って
  すぐにマラリアにかかり、治ってから八所の王子製紙で鍛治屋の仕事をずっとやった。
  八所で、朝鮮人囚人が働いているのを見たことがある。警備員が監視しているので囚人だ
  と思った。
   解放後、楡林に朝鮮人が作った朝鮮人民会があると聞かされ、八所から楡林にいった。
  朝鮮人民会には、数百人集まっていた。朝鮮人民会には食べ物、米もなかった。楡林から
  船に乗った。船の中でも、食べ物がなかった。船中で、看守たちが囚人にひどく殴られて
  いた。ホンコンに寄って、朝鮮人義勇軍を乗せた。日本人もホンコンから乗ってきた。
  帰りは早かった。釜山に来たら、コレラが発生して上陸できず、15日くらい待って上陸し
  た。朝鮮に帰ってきた。1946年5月か6月だった」。

 石碌で西松組の従業員として働いていた張達雄氏(USAカルフォルニア在住)は、1998年8月に、ソウル市内で、日本敗戦時のことについて、こう語っている。
   「解放を知って、石碌から北黎(いまの八所)に行って、朝鮮人会をつくった。受刑者
  たちもいっしょだった。西松組本部がそのまま朝鮮人会の事務所になった。朝鮮人会には
  1000人以上いたと思う。苦力だった金チョンシクが初代会長。彼から愛国歌を習った。
  ソウル出身で、日本で大学を出たといっていた。そのほかに、朝鮮の北のほうから来た申
  (平山)、ソウル出身の五十嵐という人もいた。朝鮮人会は、北黎の日本海軍陸戦隊司令
  官と、生計維持、安全帰国、日本軍の武装解除などについて交渉した。
   1946年に釜山に着いた。麦が青々としていて、春のおわりころだったと思う。船は貨物
  船で、八所にいた人間は、朝鮮人も日本人もいっしょに乗ってきた。釜山では、米軍が銃
  をもって監視していた。日本人は船倉で、釜山に寄って日本に帰った」。

 前述した崔成烈氏は、日本敗戦前に帰国したが、当時のことを、次のように語っている。
   「わたしは、八所に3年いた。海南島で月給は270円だったが、国民学校を出ただけの日
  本人の月給が470円で、待遇に差別があり、いやになって帰国することにした。
   1か月に1回づつ、帰国船が出ていた。八所から、帰国する30人が軍用トラックで楡林に
  いった。そのうちの13人が朝鮮人で、家族づれの人もいた。楡林から台湾人、日本人、
  朝鮮人合わせて400人が船に乗って台湾の高雄に行った。高雄で台南丸という5500トンの
  船に乗り換えた。台南丸は南方からきた33隻の船と船団を組んで、全部で3万3千人が長崎
  に向かって出発した。長崎に着く前の日、1944年6月24日の夜中に潜水艦にやられて沈ん
  だ(47)。生き残ったのは246人だった。わたしは助かって長崎に行き、憲兵隊から200円も
  らって咸興にもどった。
   咸興からいっしょに八所に行った石光玉と金昇泰は、解放後に帰国した。1949年ころ偶
  然ソウルで二人に再会したが、そのとき彼らは、‘朝鮮報国隊’がみんな銃殺されたとい
  っていた。そのことを彼らは、三亜の‘土人'から聞いたといっていた。1200人~1300
  人くらい殺されたという」。

註47 崔成烈氏が証言しているように、台南丸(大阪商船。自営。定員、2等39人、3等88人。
  1897年進水)は、1944年6月24日午後11時54分に九州南西沖で魚雷をうけ、1分後に沈没し
  ている。このとき同じ地点で那須山丸(三井汽船。自営)、玉鉾丸(会陽汽船。陸軍徴用)、
  建日丸(大同海運。海軍徴用)なども魚雷をうけて沈没している(『世界の艦船 日本の客
  船Ⅰ』海人社、1991年、167頁。駒宮真七郎『太平洋戦争被雷艦船史』自費出版、1997
  年、100頁。戦歿船を記録する会編『知られざる戦歿船の記録』下、柘植書房、1996年、
  177頁、参照)。駒宮真七郎『戦時船舶史』(自費出版、1991年)によれば、沈没時の台
  南丸の船客は454人で、船員39人が死んだという(船客の死亡者数は不明)。
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海南島からの朝鮮人帰還について 18

2007年05月14日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 10
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 2
 海南海軍軍需部と楡林海軍運輸部が共同で作製した謄写刷り「接収経過報告」には、三亜軍需部に所属していた朝鮮人12人と「女子勤務員女子工員」28人が1945年11月25日に田独に「集駐」し、その後、12月16日までに総数336人が同所に「集駐」したと書かれている(45)。
 佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の名で日本海軍の用紙に手書きで書かれた「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」には、日本敗戦時、同特別陸戦隊に所属していた「台湾籍軍人軍属」約1500人は1945年11月7日に中国陸軍に「正式ニ移管」し、「朝鮮籍軍人軍属」23人のうち、10人は海口の「朝鮮人民連合会」に加入し、13人が約1600人の日本人とともに「集結地」(田独の「石原鉱山宿舎」)に行き、1946年2月下旬に「正式ニ中国側ニ移管」したと書かれている(46)。

 前述した朴泰愚氏は、帰還時のことについて、つぎのように語っている。
   「8月14日に日本が負けたと知った。飛行機からビラが撒かれた。朝鮮語のもので、
  上海臨時政府が撒いたものだ。
   そのあとまもなく、朝鮮人自衛隊をつくった。自衛隊は50人くらいで、うち軍人は具と
  わたしのふたりだけ。ほかには、軍属の一部、民間人、囚人の一部、慰安婦。米、しょう
  ゆなど生活物資や、輸送トラックを要求して、第16警備隊司令官能美実に談判に行った。
  その時はじめて能美に会った。
   そのころ、朝鮮人は、‘慰安婦'、民間人もいた。‘慰安婦’は、30人くらいだった。
   日本人に間違えられないように、小さな大極旗を胸につけて歩いた。朝鮮人だと、地元
  の人たちは襲撃しなかった。日本の敗戦後も、日本人は地元民に襲撃されて大勢死んだ。
   連合軍は、朝鮮人には、帰国船の割り当てを、日本人より後回しにした。‘囚人'た
  ちもいっしょに帰国した。そのときに、大虐殺の話を聞いた。朝鮮報国隊は、刑務所をそ
  っくり海南島に移動させたようなものだ。
   釜山港に着いたとき、コレラが流行していてすぐには上陸できず、しばらくたってから
  上陸した」。

註45 海南海軍軍需部・楡林海軍運輸部「接収経過報告」、前掲『海南地区終戦処理概要及現
  状報告』。
註46 佐世保鎮守府第八特別陸戦隊「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」、前掲『海南地区終
  戦処理概要及現状報告』。
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海南島からの朝鮮人帰還について 17

2007年05月13日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 9
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 1
 朝鮮人「居留民」は、ほとんどが日本人集団を離脱して朝鮮人組織を結成し、さらに朝鮮人「軍人」・「軍属」に離脱を呼びかけた。このことにかんして伍賀啓次郎は前掲「帰還報告書」の「朝鮮籍民ノ移管」と題する節に、
   「集中セザル居留民ヲ中心トシ朝鮮人民聯合会ヲ結成シ韓国独立光復軍ノ編成等ヲ標榜
  活溌ナル運動ヲ開始シ特ニ集中セル軍人軍属ニ働キカケタル為軍人軍属中一部ノ者ハ日本
  軍人軍属ト共ニ集結スルコトヲ潔シトセズ事毎ニ反抗的態度ヲ執リアリタル処一九四五年
  十月中旬第十五警備隊ノ特別志願兵十九名ハ朝鮮人民聯合会ノ策動ニ呼応遂ニ聯合会ヘ逃
  亡スルニ至レリ」(原文「元号」使用)
と書いている。
 海南島南部の収容所は、田独、茘枝溝、楡林安由、向華村(元、六郷村)、楽安にあった(43)。
 海南海軍軍需部長兼楡林海軍運輸部長柄崎基夫の「内地帰還報告」には、軍需部と運輸部の関係者は田独の収容所に、鉄道関係者は茘枝溝の収容所に入れられたと書かれている。茘枝溝は、「朝鮮村」から2キロほどしか離れていない。 
 この報告書によれば、日本敗戦時の軍需部及び運輸部の部員数は、つぎの表のようであった
  (44)。

表4; 日本敗戦時の軍需部および運輸部の部員数
             日本人 朝鮮人 台湾人  計
軍需部  三亜本部  268   17     9   294
     海口供給所   96          2   98
運輸部  三亜本部  242   14      24   280
     海口支部     28               28
     鉄道       116    2      789  907
計              750   33     824  1607

註43 荒井義一郎(海南警備府参謀)「海南部隊現状報告」、前掲『海南地区終戦処理概要及
  現状報告』。
註44 海南海軍軍需部長・楡林海軍運輸部長「内地帰還報告」、前掲『海南地区終戦処理概要
  及現状報告』。
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海南島からの朝鮮人帰還について 16

2007年05月12日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 8
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 8
 大邱刑務所の看守をしていて海南島に行った李文錫氏(1911年生)の息子、李承雄氏は、2001年4月に、ソウル市内で、次のように語った。
   「刑務官だった父は、給料が倍になるというので自願して、1943年初夏に第5次‘南
  方派遣報国隊’の囚人をつれて海南島に行った。第5次‘南方派遣報国隊’の刑務官や関
  係者といっしょにとった父の写真が残っている。
   父は3年まえに亡くなったが、海南島にかんしては、3000人という数字をよく聞いた。
  3000人の囚人が石碌鉱山で働いていたという。看守の3分の2が朝鮮人で、3分の1が日本
  人。解放後は日本人看守は捕虜収容所に入れられ、朝鮮人刑務官は多数が人民裁判で死
  んだという。
   父が海南島から送ってきた手紙に、海南島にむかった囚人の輸送船が米軍の爆撃で沈没
  したと書いてあった、と母から聞いたことがある」。

 「南方派遣朝鮮報国隊」は、1943年3月以降1年ほどの間に、すくなくとも8回組織され、2000人以上の獄中者が、海南島に連行されたと思われる。
 だが、そのうち、故郷に帰還できた人は、多くはなかった。筆者がこれまで確認できたのは、第1次および第2次「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとの一部だけである。日本の敗戦時、海南島に「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとが何人残っていたかは、はっきりしないが、2000人以上のうち、1000人以上の人が、生きて故郷に帰還することができなかったと思われる。
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海南島からの朝鮮人帰還について 15

2007年05月11日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 7
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 7
 第2次「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられて海南島に送られたC氏は、2003年10月に、仁川市の自宅で、こう語った。
   「2次で、800人が行った。2年の刑で平壌刑務所にいたが、6か月間行ってくれば、
  刑を停止するというから志願したのだ。ソウルの刑務所で、南総督の演説を聞かされた。
  銃を撃つ練習など、訓練を受けた。銃は持たないで、まねだけした。
   洋服のような青い服に、‘南方派遣報国隊’と書かれた白い腕章をつけた。リュックを
  背負い、戦闘帽、脚半、地下足袋。
   行き先が海南島だということは知っていた。釜山にから下関に行って、一晩、小倉刑務
  所で寝た。魚雷を避けて、台湾の高雄、ホンコン、広州に寄った。船は輸送船で、3層く
  らいの船底にいた。救命袋をひとつづつ着けた。釜山から1か月くらいかって海南島の海
  口に着いた。
   船を降りて、トラックで2、3時間のところに、連れていかれ、解放されるまでずっと同
  じところにいた。
   800人が同じ宿所にいた。はじめ、飛行機を入れる掩体壕をつくる仕事をさせられた。
   土を車に入れて運んだ。仕事に行くのは、50~60人の部隊で、他の人たちがどこでどん
  な仕事をするのかは分からなかった。
   食べるものも少しずつ減って、かゆになり、つらいから逃げるものが多かった。米軍飛
  行機の爆撃で死んだ人もいる。逃げてつかまって殴られて死んだ人もいる。
   わたしは、7人で逃げたことがあったが、つかまって、足をくくられ木にぶらさげられ
  た。入院して、そのあと、看護夫として仕事をした。死んだ人を運んで埋めた。1日に4
  ~5人死んで、砂浜に埋めた。3か月くらい、この仕事をした。山口という日本人看守がい
  た。
  日本語も中国語も上手だったコバヤシが逃げていたが、解放後、中国遊撃隊の小隊長に
  なって戻ってきて、われわれを助けてくれた。
   帰るとき、海口で船に乗った。われわれだけで、220~230人。‘挺身隊’の女性たちも
  いっしょに乗った。広東に寄り、そこで100人くらいの光復軍が乗った。‘挺身隊’の女
  性たちが、甲板でスヂェビやマンドゥを作ってくれた。
   釜山まで来たが、コレラで、1か月間船を降りられなかった。ピョンヤンに戻ったら、
  アボヂは亡くなっていた。すぐに一人で南に来た。オモニは後から南に来た」。
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海南島からの朝鮮人帰還について 14

2007年05月10日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 6
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 6
 A氏とともに第1次「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられ海南島につれていかれたB氏(1922年生)は、2001年4月に、忠清南道瑞山市の自宅でつぎのように語った。
   「看守の元村が朝鮮人だとは、はじめ知らなかった。ある日、元村が、自分も朝鮮人だ
  といい、おまえは初犯だから‘報国隊’に入ればすぐに出られるといった。元村もいっし
  ょに海南島に行った。三亜の荒れ地に飛行場をつくった。最初は建物も何もなくて、自分
  たちで仮小屋をつくった。米軍の空襲がたびたびあった。防空壕にいた朝鮮人3人、中国
  人1人、日本人2人がいっぺんに死んだこともあった。
   わたしは食事班だった。食事班は9人いて、飯をつくって運んだ。半年くらいたって帰
  国した。元村もいっしょだった」。
 
 A氏、B氏とともに第1次「南方派遣朝鮮報国隊」の隊員として海南島に送られた柳濟敬氏(1917年生)は、大田市の自宅で、2003年11月にこう証言した。
   「1941年に、大田の裁判所で、治安維持法違反で3年の実刑判決を受け、西大門刑務所
  に入れられた。1年半ほどたったある日、薬剤課長から、もどったら釈放するから海南島
  にいかないか、といわれた。第1次南方派遣朝鮮報国隊だった。
   200人で、みんな青色の囚人服を着ていた。1943年春だったと思う。釜山から九州に行
  き、そこから昌慶丸に乗せられて海南の楡林に着いた。看守は10人ほどで、そのうち3人
  が朝鮮人看守だった。
   上陸してから40分ほど歩いた。そこに宿所があった。宿所はひとつで、そこに200人全
  員がいれられた。まわりは鉄条網で囲まれていた。
   わたしは、ひとりだけ、医務のしごとをさせられた。宿所のなかで。マラリヤ患者や風
  土病の患者の面倒をみた。風土病にかかると顔が大きくはれる。薬は不足がちだった。
   同胞が殺されたのを見たことがある。見たというより見せられたのだ。金老麻という40
  代の人で、何回も逃亡してそのたびにつかまり、ついに、みせしめのために宿所のなかで
  両手をしばられ吊るされて殺された。宿所のなかの者は全員がそれを見ないわけにはいか
  なかった。看守長がしばって死刑にしたのだ。おおぜい見ているところで。看守長の名前
  は、貴島だった。海南島にいって1年くらいたったころだった。あの日は、「祝日」だ
  ったと思う。朝、みんなが食事をしている時だった。吊るされてからすぐに死んだ。
   許されないことだ。遺体はどこに埋められたかわからない。だれが運んだかは覚えてい
  ない。
   病死した同胞がどこに埋められたかも知らない。マラリアにかかっても薬がなくて死ん
  だ同胞もいた。
   200人のうち多くが三亜の飛行場建設で、田独鉱山で働かされたのはあまり多くなかっ
  た。逃亡した人は多かった。わたしは、飛行場にも鉱山にもいったことがない。わたしだ
  けは特別だった。故郷の父母に手紙をだすことはできた。
   1944年春、わたしだけ、3人の日本人看守といっしょに帰国した。西大門刑務所で薬剤
  課長と約束していたのだ。残された200人の同胞のことは分からない。治安維持法違反の
  者は、わたし一人だった。
   海南島からもどってから仮釈放になったが、完全に自由ではなかった」。 
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海南島からの朝鮮人帰還について 13

2007年05月09日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 5
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 5

 2001年1月16日、朴奎秉氏ら3兄弟とその妻が、「朝鮮村」を訪れた。それは、遺骸の「発掘」が行なわれている最中であった。兄弟の父朴聖南氏(1914年生)は、1943年はじめ治安維持法違反容疑で逮捕され、刑務所から海南島に送られ、その後連絡がとだえたという。
 夫の帰りを待ちながら10年まえに亡くなった兄弟の母は、夫のことを、
   「風のように出ていき、風のように帰ってくる人だ。かならず、また風のように帰ってくる」
と、言っていたという。

 2001年4月に、朴聖南氏の弟、朴承執氏(1922年生)は、江原道束草市の自宅で、次のように話した。
   「兄は、文字を知らない人たちのために夜学を開いたこともあった。しばしば満州にい
  っていたようだ。平安北道の定州警察署に留置されたこともあった。
   あるとき麻浦刑務所に入れられている兄から手紙がきて、面会に行った。刑期は2年か
  3年ほどだった。それから2、3回面会に行った。
   1943年秋ころ、手紙がきて、それに、“いま、南方にいくところだ”と書いてあった。手
  紙はそれきりだった。
   解放後も戻らないので、1946年の秋ごろ刑務所に行った。看守から、兄は海南島につれ
  ていかれたので、生き残っている見込はないだろうと言われた」。
 
 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」がソウルを出発したのは1943年3月30日であり、第7次「南方派遣朝鮮報国隊」が出発したのは1943年10月であった。これが1943年内のさいごの「南方派遣朝鮮報国隊」である(42)。朴聖南氏は、第7次までのいずれかの「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられて海南島に強制連行されたと思われる。

 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられて海南島に強制連行され、幸運にも帰国できたA氏(1920年生)は、2001年4月に、ソウル市の自宅でつぎのように語った。
   「海南島に行ったときは23歳だった。麻浦刑務所から歩いてソウル駅にいった。ソウル
  から釜山に行き船にのった。船の名は‘日本丸’。大きいな船で大砲がついていた。軍人
  がたくさん乗っていた。長崎、台湾に寄って、8日目に海南島の楡林についた。それから
  石碌につれていかれた。10か月いた。満期の4か月まえだった。病気でたくさん死んだ。
   日本人の歩哨がいて、逃げたら銃殺するといっていた。宿所の入口に‘朝鮮報国隊’と
  書いた木の板がかけられてあった。
   1944年に帰国して、麻浦刑務所にもどり、翌日釈放された」。

註42 治刑』1943年10月号、編輯後記、および『治刑』1944年3月号、21頁。
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海南島からの朝鮮人帰還について 12

2007年05月08日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 4
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 4
海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎の前掲「帰還報告書」には、日本敗戦時およびその後の海南島の朝鮮人数が書かれている。
 それによると、日本の敗戦時の朝鮮人数は、次表のとおりで、「朝鮮報国隊」に「所属」する朝鮮人は658人とされている(41)。

表Ⅰ  日本敗戦時の海南島の朝鮮人数と「所属 」
所属            軍人  軍属  其の他  計
第十五警備隊       36    2         38
第十六警備隊       21    4         25
横須賀第四特別陸戦隊 52    5         57
佐世保第八特別陸戦隊 22    1         23
舞鶴第一特別陸戦隊   44    0         44
軍需部 運輸部           31         31
施設部                  5          5
特務部                  9          9
気象部                  1          1
朝鮮報国隊              52   606   658
居留民                     729   729
合計            175   110  1335   1620

 また同報告書では、海南島南部の朝鮮人は1946年1月下旬に日本人から分離されて中国国民党軍に「移管」されたが、そのときの朝鮮人数は、次表のとおりだったとされている。

表Ⅱ  1946年1月下旬に国民党軍に「移管」された海南島南部の朝鮮人数
所属             軍人   軍属  計
第十六警備隊        21     4   25
佐世保第八特別陸戦隊  13         13
軍需部 運輸部             31   31
施設部                   1    1
陸軍                     1    1
合計              34     37    71

 この表の数字を前表の数字とくらべると、第16警備隊および軍需部・運輸部に所属していた朝鮮人は全員が解放後から「移管」時まで日本人と共同行動していたが、佐世保第八特別陸戦隊に所属していた朝鮮人23人のうち10人(「軍人」9人、「軍属」1人)が日本人集団から離脱している。
 さらに同報告書では、1946年3月13日に海南島北部の朝鮮人が日本人から分離されて中国国民党軍に「移管」されたが、そのときの朝鮮人数は、次表のとおりだったとされている。

表Ⅲ  1946年3月13日に国民党軍に「移管」された海南島北部の朝鮮人数
所属           軍人  軍属  其の他  計
第十五警備隊      36    3         39
舞鶴第一特別陸戦隊  44               44
軍需部                5          5
施設部                2          2 
特務部                8          8
居留民                     16   16
合計            80    18    16   114

 この表と前々表の数字をくらべると、第15警備隊および舞鶴第1特別陸戦隊に所属していた朝鮮人は全員が解放後から「移管」時まで日本人と共同行動していたが、横須賀第4特別陸戦隊に所属していた57人の朝鮮人「軍人」・「軍属」全員と「居留民」729人のほとんどが日本人集団から離脱している。この表からも前表からも、前々表にあった「朝鮮報国隊 658」という数字が消えているが、この658人が海南島から故郷にもどることができたかどうかは明らかでない。

註41 「朝鮮報国隊」ということばが明記されている日本軍関係文書は、極めて少ない。これ
  まで筆者をふくむ紀州鉱山の真実を明らかにする会が発見した「朝鮮報国隊」に触れてい
  る日本軍関係文書は、数点である。そのうち「朝鮮報国隊」の人員数を示しているのはこ
  の伍賀啓次郎の「帰還報告書」のみである。
   海南島陵水黎族自治県三才鎭后石村に住む龍起義氏(1926年生)は、「朝鮮報国隊」
  とともに「台湾報国隊」が后石村で飛行場建設をさせられていたと、2000年3月に証言し
  ている。

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海南島からの朝鮮人帰還について 11

2007年05月07日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 3
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 3
 「南方派遣朝鮮報国隊」とともに海南島に行った朝鮮総督府の法務官僚や刑務官(看守)は二百人以上であり(38)、そのなかには「朝鮮村」虐殺に直接かかわった者もいると思われるが、日本の敗戦後、かれらは、海南海軍第16警備隊や施設部の関係者と同様に、「南方派遣朝鮮報国隊」に関しても「朝鮮村」虐殺に関しても沈黙し続けた。「南方派遣朝鮮報国隊」に朝鮮総督府の法務官僚として深くかかわった藤間忠顯は、日本に戻って広島高等裁判所の裁判官になったが、「南方派遣朝鮮報国隊」に関してなにも語ることなく、20年ほど前に死んだ(39)。

 南丁村に住んでいる蘇亜呑氏(当時30歳。虐殺現場近くの山のふもとに住んでいた)は、2001年1月13日に、
   「朝鮮人にご飯をたべさせたこともあった。朝鮮人が木にぶらさげられて殴られたり、
  殺されたりするのを隠れてそっと見た。なんども見た。朝鮮人はほとんどが、からだが弱
  々しく、空色の服を着ていた」
と、かつて朝鮮人の「宿所」があったという空き地のすぐ前にある自宅で語った。
 2001年1月12日から、朝鮮人が埋められていると村人が証言する場所の発掘が始められた。この日午後、10数体の遺骨が発掘され、翌1月13日午後には、あらたに発掘された遺骨のそばからボタンが出てきた。これは、「朝鮮報国隊」の人たちが着せられていた「制服」のものと思われる。また「制服」の断片と思われる青色の布の断片もみつかった。
 1月14日午前10時ころ、頭蓋骨に穴があいている遺骨が発掘された。また、べつの場所からは、遺骨といっしょに薬莢が出てきた。さらにこの日午後4時ころ、遺骨頭部の右側から日本軍の「軍隊手帳」が出てきた。
 遺骨は、地表から、30~80センチのところに、①一体づつ横たえられて、あるいは、②穴にまとめて放りこまれるようにして、あるいは、③手足と胴体だけがつみかさねられた状態で、発見された(40)。

註38 前掲「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件ヲ定ム」に添付さ
  れている内務省文書「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ要スル人員」には、「朝鮮総督府受
  刑者中役二千名ヲ同島ニ出役セシムル要アル為之ガ戒護ノ事務ニ当ルベキ職員」として、
  看守長10人、看守223人など計247人が必要だと書かれている。
註39 『刑務職員録』1944年版(1943年11月1日現在。刑務協会、1944年)には、朝鮮総督府
  法務局行刑課の項に藤間忠顯の名があり、京城刑務所南方作業所の項に典獄小泉知朔、
  看守長阿部敬夫ら47人の名が記されている。阿部敬夫は、「南方通信」と題して、『治刑』
  1943年10月号に海南島でのことを報告している。
註40 韓国MBC『하이난섬의 大虐殺』(2001年3月1日放映。3・1独立運動記念特別ドキュ
  メンタリー)、および紀州鉱山の真実を明らかにする会(キム チョンミ、佐藤正人)「海
  南島 2001年1月――海南島駐屯日本海軍第16警備隊に虐殺された朝鮮人の遺骨が「発
  掘」された――」、『パトローネ』45号、2001年4月、参照。
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