三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島からの朝鮮人帰還について 22

2007年05月18日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 14
Ⅲ、日本軍隊性奴隷とされた朝鮮人女性の帰還
 日本軍は、台湾拓殖株式会社などをつかって、日本人女性だけでなく、海南島の漢族の女性や朝鮮・台湾などから連行した女性を日本軍隊性奴隷とした(49)。
 海南島では、「慰安所」に監禁する性奴隷制度とは別個に、村落に侵入した日本軍の将兵による黎族、苗族の少女にたいする性的暴行、自由剥奪、継続的性的犯罪がおこなわれた(50)。
 海南島に連行され、軍隊性奴隷とされた朝鮮人女性の数は、はっきりしない。これまでのわたしたちの調査と『文史史料』などの記述を総合すれば、海口、三亜、北黎、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人である。
三亜の病院で看護婦をしていた中里チヨ氏は、「慰安所」に入れられていた朝鮮人女性の治療を行ったと、1998年8月に、日本神奈川県の自宅で証言している。
 1945年に「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次氏によれば、飛行場近くの「つばき荘」という名の「慰安所」には、朝鮮人女性15人が「収容」されていたという(51)。
 海南島の「慰安所」にいれられた朝鮮女性のうち、わたしたちが名前を知ることができているのは、朴来順氏と김옥주씨である。
 朴来順氏からは、保亭に住む張応勇氏がくわしく話しを聞かせてもらっている。張応勇氏の聞きとりによれば、朴来順氏は、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海口につれてこられ、「慰安所」にいれられた。1943年1月に、三亜の「紅沙慰安所」に移された。そこには、田独鉱山の近くで、日本軍人だけでなく石原産業の関係者もきたという日本敗戦後、朴来順氏は故郷に戻ろうとせず、三亜北方の保亭で道路工事などに従事した(52)。朴来順氏は、韓国と中国が国交を樹立してから3年後の1995年に、保亭の病院で亡くなった。79歳だった。
 金玉珠氏(1923年生まれ)は、日本の敗戦後、船がいっぱいになるまで働かされていた慰安所「えびす」で待って、1946年陰暦9月に、日本を経てプサンに戻ったという(53)。

註49 符祝慧『ひとつの史実 海南島「慰安婦」の証言』1998年制作ビデオ。江川きく(中
  里チヨ)「撃沈」、医療文芸集団『白の墓碑銘』東邦出版社、1968年6月。高日蕃・符名風・
  王家俊「南呂“慰安所”」、海南省屯昌県政協文史資料委員会編『屯昌文史』第3輯、
  1993年2月。鍾強「我所知道的日軍黄流機場的“慰安所”」、『鉄蹄下的腥風血雨』下。
  牛泊「北黎日軍“慰安所”簡況」、政協海南省東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』
  第8輯、1993年3月。朱永沢口述「金江、石浮“慰安所”見聞録」、澄邁県政協文史資料委
  員会編『澄邁文史』第10輯(日軍侵澄暴行実録)、1995年。戴沢運「日軍的慰安所」、政治
  協商会議海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』第6輯、1997年1月。何十
  里「石碌鉄礦“慰安所”実録」、『昌江文史』第6輯。羊杰臣「日軍侵崖期間残害婦女的
  罪行」、『三亜文史』第5輯。西野瑠美子「私が看た海南島海軍病院の「慰安婦」たち 元海
  軍従軍看護婦の体験」、『週刊 金曜日』1997年5月23日号、金曜日社。蘇智良『慰安婦研
  究』上海書店出版社、1999年3月。朱徳蘭編『台湾慰安婦調査と研究資料集』中央研究院
  中山人文社会科学研究所(台湾)、1999年7月。西野瑠美子「置き去りにされてきた日本人「慰
  安婦」 誰が誰によりどう移送されたか――海南島の場合」、『世界』2000年12月号、
  岩波書店。など参照。
註50 キム チョンミ・佐藤正人「海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働 
  2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰
  安婦’’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
註51 楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年。
註52 朴来順口述、張応雄整理「不堪回首的往事 一個“慰安婦”的自述」、政協海南省保亭
  黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編『保亭文史』第9輯(紀念抗日戦争勝利50周
  年)、1995年8月。朴来順口述、張応雄整理「我被騙逼当日軍“慰安婦”的経歴」、『鉄
  蹄下的腥風血雨』下。など参照。
註53 韓国挺身隊研究所・韓国挺身隊対策協議会編『強制的につれていかれた朝鮮人軍慰安
  婦』3、図書出版ハヌル、1999年10月、91~118頁。
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