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海南島からの朝鮮人帰還について 20

2007年05月16日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 12
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 4
 海南海軍特務部の通訳だった林吉蘇氏(1925年生)は、2002年3月、海南島臨高県新盈の自宅で、日本敗戦後の朝鮮人に関して、次のように語った。
   「日本政府がつくった慶安中学に15歳の時に入学した。海南島の各地から若い人たちが
  入った。卒業して、特務部に配属された。1944年だった。海口や那大や新盈で、日本軍の
  通訳をした。日本軍が降伏したあと、三亜に逃げた。
   三亜は、国民党の金で生活した。日本軍が帰国したあと、国民党は、朝鮮人と台湾人を
  すぐに帰国させないで、技術的な仕事をさせた。
   楡林の工場で朝鮮人を見た。機械の修理や管理をしていた。100人以上いた」。

 前述した趙向盈氏は、日本敗戦後のことを、次のように話している。
   「わたしは治安維持会副会長だったので、日本の投降後、国民党の裁判を受け、海口の
  刑務所に入れられた。日本海軍特務部の政務局長溝口征大佐を射殺した朝鮮人金元植とそ
  こで会った。かれは、朝鮮同郷会会長で、年は35歳くらいだった。わたしに、判決文を見
  せてくれた。上訴するのに、いっしょに相談もした。金元植は監獄から脱走した。わたし
  はその1週間後、出された。
   海口の刑務所には、1000人が入れられていた。徐龍燮、金龍成という朝鮮人もいっしょ
  だった。その後、偶然、海口で飲み屋をしていた友人の店で、ふたり会った。ふたりは歌
  が上手で手品もうまく、演技団に入って、日本占領時代に海南島に来たといっていた。
   海口に“大韓民国同郷会”があった。そこで、残っている朝鮮人の数を調べたり、帰国
  の仕事、整理、記録などを少し手伝ったことがある」。
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