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海南島からの朝鮮人帰還について 13

2007年05月09日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 5
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 5

 2001年1月16日、朴奎秉氏ら3兄弟とその妻が、「朝鮮村」を訪れた。それは、遺骸の「発掘」が行なわれている最中であった。兄弟の父朴聖南氏(1914年生)は、1943年はじめ治安維持法違反容疑で逮捕され、刑務所から海南島に送られ、その後連絡がとだえたという。
 夫の帰りを待ちながら10年まえに亡くなった兄弟の母は、夫のことを、
   「風のように出ていき、風のように帰ってくる人だ。かならず、また風のように帰ってくる」
と、言っていたという。

 2001年4月に、朴聖南氏の弟、朴承執氏(1922年生)は、江原道束草市の自宅で、次のように話した。
   「兄は、文字を知らない人たちのために夜学を開いたこともあった。しばしば満州にい
  っていたようだ。平安北道の定州警察署に留置されたこともあった。
   あるとき麻浦刑務所に入れられている兄から手紙がきて、面会に行った。刑期は2年か
  3年ほどだった。それから2、3回面会に行った。
   1943年秋ころ、手紙がきて、それに、“いま、南方にいくところだ”と書いてあった。手
  紙はそれきりだった。
   解放後も戻らないので、1946年の秋ごろ刑務所に行った。看守から、兄は海南島につれ
  ていかれたので、生き残っている見込はないだろうと言われた」。
 
 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」がソウルを出発したのは1943年3月30日であり、第7次「南方派遣朝鮮報国隊」が出発したのは1943年10月であった。これが1943年内のさいごの「南方派遣朝鮮報国隊」である(42)。朴聖南氏は、第7次までのいずれかの「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられて海南島に強制連行されたと思われる。

 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられて海南島に強制連行され、幸運にも帰国できたA氏(1920年生)は、2001年4月に、ソウル市の自宅でつぎのように語った。
   「海南島に行ったときは23歳だった。麻浦刑務所から歩いてソウル駅にいった。ソウル
  から釜山に行き船にのった。船の名は‘日本丸’。大きいな船で大砲がついていた。軍人
  がたくさん乗っていた。長崎、台湾に寄って、8日目に海南島の楡林についた。それから
  石碌につれていかれた。10か月いた。満期の4か月まえだった。病気でたくさん死んだ。
   日本人の歩哨がいて、逃げたら銃殺するといっていた。宿所の入口に‘朝鮮報国隊’と
  書いた木の板がかけられてあった。
   1944年に帰国して、麻浦刑務所にもどり、翌日釈放された」。

註42 治刑』1943年10月号、編輯後記、および『治刑』1944年3月号、21頁。
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