三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島からの朝鮮人帰還について 11

2007年05月07日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 3
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 3
 「南方派遣朝鮮報国隊」とともに海南島に行った朝鮮総督府の法務官僚や刑務官(看守)は二百人以上であり(38)、そのなかには「朝鮮村」虐殺に直接かかわった者もいると思われるが、日本の敗戦後、かれらは、海南海軍第16警備隊や施設部の関係者と同様に、「南方派遣朝鮮報国隊」に関しても「朝鮮村」虐殺に関しても沈黙し続けた。「南方派遣朝鮮報国隊」に朝鮮総督府の法務官僚として深くかかわった藤間忠顯は、日本に戻って広島高等裁判所の裁判官になったが、「南方派遣朝鮮報国隊」に関してなにも語ることなく、20年ほど前に死んだ(39)。

 南丁村に住んでいる蘇亜呑氏(当時30歳。虐殺現場近くの山のふもとに住んでいた)は、2001年1月13日に、
   「朝鮮人にご飯をたべさせたこともあった。朝鮮人が木にぶらさげられて殴られたり、
  殺されたりするのを隠れてそっと見た。なんども見た。朝鮮人はほとんどが、からだが弱
  々しく、空色の服を着ていた」
と、かつて朝鮮人の「宿所」があったという空き地のすぐ前にある自宅で語った。
 2001年1月12日から、朝鮮人が埋められていると村人が証言する場所の発掘が始められた。この日午後、10数体の遺骨が発掘され、翌1月13日午後には、あらたに発掘された遺骨のそばからボタンが出てきた。これは、「朝鮮報国隊」の人たちが着せられていた「制服」のものと思われる。また「制服」の断片と思われる青色の布の断片もみつかった。
 1月14日午前10時ころ、頭蓋骨に穴があいている遺骨が発掘された。また、べつの場所からは、遺骨といっしょに薬莢が出てきた。さらにこの日午後4時ころ、遺骨頭部の右側から日本軍の「軍隊手帳」が出てきた。
 遺骨は、地表から、30~80センチのところに、①一体づつ横たえられて、あるいは、②穴にまとめて放りこまれるようにして、あるいは、③手足と胴体だけがつみかさねられた状態で、発見された(40)。

註38 前掲「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件ヲ定ム」に添付さ
  れている内務省文書「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ要スル人員」には、「朝鮮総督府受
  刑者中役二千名ヲ同島ニ出役セシムル要アル為之ガ戒護ノ事務ニ当ルベキ職員」として、
  看守長10人、看守223人など計247人が必要だと書かれている。
註39 『刑務職員録』1944年版(1943年11月1日現在。刑務協会、1944年)には、朝鮮総督府
  法務局行刑課の項に藤間忠顯の名があり、京城刑務所南方作業所の項に典獄小泉知朔、
  看守長阿部敬夫ら47人の名が記されている。阿部敬夫は、「南方通信」と題して、『治刑』
  1943年10月号に海南島でのことを報告している。
註40 韓国MBC『하이난섬의 大虐殺』(2001年3月1日放映。3・1独立運動記念特別ドキュ
  メンタリー)、および紀州鉱山の真実を明らかにする会(キム チョンミ、佐藤正人)「海
  南島 2001年1月――海南島駐屯日本海軍第16警備隊に虐殺された朝鮮人の遺骨が「発
  掘」された――」、『パトローネ』45号、2001年4月、参照。
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