三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島からの朝鮮人帰還について 15

2007年05月11日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 7
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 7
 第2次「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられて海南島に送られたC氏は、2003年10月に、仁川市の自宅で、こう語った。
   「2次で、800人が行った。2年の刑で平壌刑務所にいたが、6か月間行ってくれば、
  刑を停止するというから志願したのだ。ソウルの刑務所で、南総督の演説を聞かされた。
  銃を撃つ練習など、訓練を受けた。銃は持たないで、まねだけした。
   洋服のような青い服に、‘南方派遣報国隊’と書かれた白い腕章をつけた。リュックを
  背負い、戦闘帽、脚半、地下足袋。
   行き先が海南島だということは知っていた。釜山にから下関に行って、一晩、小倉刑務
  所で寝た。魚雷を避けて、台湾の高雄、ホンコン、広州に寄った。船は輸送船で、3層く
  らいの船底にいた。救命袋をひとつづつ着けた。釜山から1か月くらいかって海南島の海
  口に着いた。
   船を降りて、トラックで2、3時間のところに、連れていかれ、解放されるまでずっと同
  じところにいた。
   800人が同じ宿所にいた。はじめ、飛行機を入れる掩体壕をつくる仕事をさせられた。
   土を車に入れて運んだ。仕事に行くのは、50~60人の部隊で、他の人たちがどこでどん
  な仕事をするのかは分からなかった。
   食べるものも少しずつ減って、かゆになり、つらいから逃げるものが多かった。米軍飛
  行機の爆撃で死んだ人もいる。逃げてつかまって殴られて死んだ人もいる。
   わたしは、7人で逃げたことがあったが、つかまって、足をくくられ木にぶらさげられ
  た。入院して、そのあと、看護夫として仕事をした。死んだ人を運んで埋めた。1日に4
  ~5人死んで、砂浜に埋めた。3か月くらい、この仕事をした。山口という日本人看守がい
  た。
  日本語も中国語も上手だったコバヤシが逃げていたが、解放後、中国遊撃隊の小隊長に
  なって戻ってきて、われわれを助けてくれた。
   帰るとき、海口で船に乗った。われわれだけで、220~230人。‘挺身隊’の女性たちも
  いっしょに乗った。広東に寄り、そこで100人くらいの光復軍が乗った。‘挺身隊’の女
  性たちが、甲板でスヂェビやマンドゥを作ってくれた。
   釜山まで来たが、コレラで、1か月間船を降りられなかった。ピョンヤンに戻ったら、
  アボヂは亡くなっていた。すぐに一人で南に来た。オモニは後から南に来た」。
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