■中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(二)■
小林節子
■花岡裁判開始
事件から40年後の1985年8月、中国・河北省の新聞に花岡事件に関する記事が載った。王敏さんはその記事の中に大隊長耿諄さんの名前を発見した。王敏さんは耿諄さんは死刑になったとばかり思っていた。日本を離れるとき憲兵から「耿諄は死刑になった」と聞いていた。信じられなかったが記事をたよりに耿諄さんを訪ねた。この再会をきっかけに花岡事件の幸存者はお互いの消息を訪ねはじめた。それは過去に受けた暴戻の数々を追及する動きに発展していった。後に「花岡事件受難者連誼会」の発足に際して、耿諄さんが名誉会長、王敏さんは会長に就任している。
耿諄さんたちは1989年から鹿島建設とのあいだで自分たちが受けた被害に対する謝罪と賠償を求める話し合いを続けていた。1990年7月5日、生存者と遺族を代表して耿諄さんは交渉代理人5人を交えて、鹿島建設副社長とのあいだで「共同声明」を取り交わしていた。その中で鹿島建設は「(前略)中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制連行に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する。(後略)」と責任の所在を認めた。「共同声明」は初めて日本企業が強制連行の責任を認めた唯一の重要文書である。その後、鹿島建設は態度を覆し「自分たち企業に責任はない」と誠意ある応対を避けつづけた。
1995年6月、花岡事件の生存者と遺族合わせて11人が鹿島建設(当時の鹿島花岡出張所)に対し損害賠償請求訴訟に踏み切った。訴状は「華人労務者内地移住ニ関スル件」の閣議決定がなされた経過と自分たちが花岡で受けた被害は国際法違反ではないか、また安全保護義務違反ではないか、及び一人550万円の賠償金を要求するものだった。この時点まで交渉代理人だった5人は以降原告弁護団として裁判に関わることになった。私はこの裁判の成り行きを知りたいと、時間の許す限り傍聴に通った。証人または参考人として多くの人が法廷に立った。被告・鹿島建設の発言、研究者の意見陳述、中国から来た原告の証言、全てが日本の過去の罪業を浮きぼりにするものだった。法廷での審議を終え、弁護士会館で開かれる報告会ではさらに鹿島建設の不誠実な対応が弁護人によって明らかにされた。鹿島建設の不誠実な態度は単に鹿島建設のみならず強制連行に関わった企業全体、もっと言えば日本政府の戦争責任に対する姿勢と軌を一にするものであり、花岡裁判は日本の戦争責任を明確にする闘いとなっていった。
1997年12月10日の一審判決は「原告の一切の請求を棄却する」という冷酷なものだった。即刻控訴が申し立てられた。提訴からすでに5年が過ぎようとしていた。
2000年4月21日、東京地方裁判所から双方に「和解勧告書」が出された。もし和解が成立すれば同じように強制連行、強制労働の問題解決を迫られていた企業にとっても準拠となる方策だった。関係企業だけでなく関心を持って運動に参加している市民も固唾を呑んで和解案の成り行きを注視していた。
■和解勧告書
和解勧告書の要点は、当事者双方が承認すべき事項として、「被控訴人である鹿島建設が利害関係人中国紅十字会に対し金5億円(「花岡平和友好基金」)を信託し、控訴人はこれを了承する。信託金は受難者と遺族の生活支援と日中の歴史研究その他の活動資金に充てるものとする」、「本件和解が花岡事件について全ての懸案の解決を図るものであること及びそのことを担保する具体的方策を和解条項に明記する(具体的な条項は更に検討する。)」というものだった。
2000年4月28日、弁護団は北京で耿諄さんはじめ被害者と会い、訴訟情報報告会が開かれ、裁判所から出された和解勧告書の説明がなされた。和解同意書が提出された。裁判は大詰めを迎えていた。原告全員の委任状を得て弁護団は2000年11月29日、鹿島建設との歴史的な和解を成立させた。
大新聞各社は大見出しで画期的な成果だとこのニュ-スを報道した。しかし、和解当日、鹿島建設が自社のホ-ム・ペ-ジに発表した「花岡事案和解に関するコメント」は原告団だけでなく、中国人強制連行問題の抜本的解決の礎となることを期待していた人びとにも衝撃を与えた。そこには「今回の和解協議は東京高等裁判所からの勧告に沿ったものであり、訴訟内容については従来より主張してきたとおり鹿島建設に法的責任はない、本基金の拠出は補償や賠償の性格を含むものではない、この和解事項は原告11人だけでなく花岡出張所で労働に従事した986名全員を含めることは裁判所も控訴人も理解した」というものだった。(要約)
和解に際して鹿島建設が公表したのは、この和解は法律的な責任を負うものではなく、賠償補償を言わない、そして986人全員の問題を全て解決すること、それは裁判所も弁護団側も承知しているというものだった。そこには原告団が決して譲歩できない条件として要求してきた謝罪と補償、花岡事件記念館の設立についての文言は一切なかった。
報告会で耿諄さんは和解案の内容を知らされ、「ここには連誼会が要求してきた謝罪と賠償という文言が入っていない、歴史記念館を建設する件も入っていない、金額が問題なのではない、我々の民族の尊厳を回復するものでなければならなkい。」と発言している。
この「和解勧告書」をめぐっては和解成立後、中国内の受難者連誼会と弁護団のあいだに内容の解釈に齟齬を生み、連誼会内部に亀裂と分裂をもたらしたことは残念なことと言わなければならない。
周知の花岡事件にこだわったのは、花岡事件が中国北支、中支(主に河北、山東省)から「満州国」の炭鉱、土木工事、軍事要塞などの建設現場に移送され、強制労働を強いられ非業の死を遂げた人びとが葬られた万人坑の頻出と同根であることが明白な以上、日本国内にも万人坑が現出していたのではないか。花岡鹿島事業所だけでなく、全国135の事業所で差はあれ同じ状況が繰り広げられていたと考えた。1943年4月から45年5月までの2年間に38,939人の中国人が日本の事業所に移送され、そのうちの7千人が犠牲になっている。できるならば417人の花岡事件の犠牲者の遺骨が無事に祖国に還り着いているのか確かめたい気持ちが強まった。
■強制連行が戦後の日本経済発展の基礎を作った
抗日戦争歴史記念館で王敏さんの証言を聞いた翌日天津を訪れ、遺骨が安置されていると聞いていた天津水上公園を訪ねた。だがその日は休日であったのか、管理者が不在で遺骨に会うことはできなかった。残念な思いはあったが代わりに塘沽の港を見せてもらった。どれほど多くの中国人がこの港から運び去られたか、還りつけなかった人びとの無念な気持ちが海の青さを濃くしていると思った。塘沽の港は深い緑色の波が静かに岸壁を洗っていた。
1958年2月、北海道の山中で中国人・劉連仁さんが発見されたというニュ-スは私たちを驚かせた。敗戦後13年が経ち、朝鮮戦争の特需を契機に日本経済が回復の度合いを強めていた時代に、劉連仁さんの発見のニュ-スは日本中に冷水を浴びせた。
1944年9月、31歳のとき強制連行され、北海道明治鉱業昭和鉱業所に配属された。あまりの暴虐に耐えきれず仲間4人と逃亡を決行した。途中仲間とはなれ離れになりながら13年間山中をさまよい続けたという。劉連仁さんの帰国に際して日本政府が見せた対応は中国人強制連行とは如何なるものだったのか、またこの問題が何も解決されていないことを周知せしめた。
劉連仁事件をきっかけに花岡事件を含んだ中国人、朝鮮人強制連行に関するニュ-スが新聞雑誌に取り上げられるようになった。敗戦時、6歳だった私は花岡事件について知る由もなかったが、劉連仁さんが現れた頃には研究書、物語など手近に参考となる書籍が多くあった。1964年、「中国人強制連行事件の記録」と副題にうたれた『草の墓標』が出版された。「本書は中国人強制連行の記録である。中国人強制連行事件とは戦争末期東條内閣の閣議決定によって中国より約4万人の中国人を日本に強制連行し、全国の鉱山、港湾、土建などで労役し、そのうち約7千人を死にいたらしめた事件である。」編者・中国人強制連行事件資料編纂委員会とある。
『草の墓標』は 劉連仁さんが降り立った北海道深川駅の駅員の証言から始まり、日本の帝国主義と植民地主義が犯した罪業の実態が余すところなく描き出されていた。国内の、人里離れた場所で悲劇は繰りかえされていた。たとえ巧妙に仕組まれた組織や時代背景が人びとに沈黙を強いたとしても、言葉も理解できない人たちが酷使されている事実は多くの人の眼に触れていたのではないだろうか。なぜかくも長く隠蔽が守られ続けられたのか。国策であったことは免罪符にはならない。せめて『草の墓標』が日本人の手で編まれてほしかった。花岡事件、劉連仁事件の歴史的背景と責任の所在を追及し、蜂起、逃亡に至る事由ばかりでなく、強制連行が戦後の日本経済発展の基礎を作ったこともこの書に教えられた。『草の墓標』に出会ったことを契機に、私は日本の近現代史を学ばなければならないと考えはじめた。自分の無知を歯噛みする思いはさらに中国への旅を重ねさせた。
天津に安置される強制連行殉難者の遺骨を見たい、私の思いは時と共に強くなっていった。殉難者の遺骨返還に協力した「中国帰還者連絡会(*)」が天津を訪れると聞いた。1995年4月、私は即刻参加を申し込んだ。変わりなく天津水上公園にコンクリ-ト造りの建物はあった。中は冷気に包まれていた。壁一面に作られた木の棚に白い布に包まれた遺骨箱が整然と並べられ、四方の壁を埋め尽くしていた。一つ一つに墨で名前が記されていた。祖国に還ったが、故郷までたどり着けない遺骨だと説明された。故郷への後難を恐れ、偽名を使っていた人が多く、出身地を探し当てることが難しく、目前の故郷にたどり着けない遺骨が残されていた。7千人の積怨がどれほどのものか、黙祷を捧げる以外何もできなかった。
*「中国帰還者連絡会」(通称中帰連)とは日・中戦争中、中国国内であらゆる犯残虐行為を犯した
日本軍人約千人が、ソ連・シベリヤ抑留から新しく建国して一年の中国に引き渡され、戦犯として
裁かれた。「鬼から人間に」変えられ許されて帰国したのち「日中友好・不戦、平和」を旗幟とし
て1956年平和団体を結成した。(現撫順の奇跡を受け継ぐ会)
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