■はじめに 民衆運動と歴史認識・歴史意識 1
1868年の「明治維新」以後、日本は、「周辺」のアイヌモシリの一部と琉球を領土としつつ、戸籍制度と徴兵制度を確立し、国民国家を形成した【註1】。
「日清戦争」以後、国民国家日本は、継続的な侵略戦争によって、その北方「周辺」と南方「周辺」を領土(植民地)とし、領土・支配地域を拡大していった。日本の領土・支配地域は、第2次アジア太平洋戦争初期、1942年に最大となった【註2】。
1945年8月、日本はアジア民衆の抗日反日戦争と第2次アジア太平洋戦争に敗北した。日本の領土・支配地域は縮小した。だが、その5年後、日本は、1950年6月に開始された朝鮮戦争時に兵站基地として軍需物資を大量生産し、軍事特需によって、南北朝鮮民衆の大きな犠牲を土台として、経済を復興させた。朝鮮戦争の最中、1951年9月に、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国を排除して、サンフランシスコで、日本はアメリカ合州国など48か国と「講和条約」を締結した(1952年4月、発効)。その後、日本は、アジア太平洋・アラブ・アフリカ・中央アメリカ・南アメリカの各地を経済侵略してきた。
日本は、朝鮮戦争に直接・間接的に参戦したが(日本各地をアメリカ合州国軍の軍事基地としただけでなく、日本海上保安庁が特別掃海艇を編成し、1950年10月10日から12月6日まで、朝鮮半島沿岸地域で掃海作戦をおこなった)、さらに1961~1975年のベトナム戦争にも、アメリカ合州国軍の出撃基地・兵站基地・休養基地となって参戦し、ベトナム民衆を犠牲にして経済を成長させた。
1991年1月~2月の「湾岸戦争」のとき、日本はアメリカ合州国に100億ドル余の軍事費を提供して、間接的に参戦した。さらに、この年4月24日に、日本政府は臨時閣議で、日本海軍のペルシャ湾出兵を決定し、その2日後に、日本海軍艦隊が、第2次アジア太平洋戦争敗北後はじめての海外出兵のため、「ヒノマル」と海軍旗(旧日本海軍の旗と同一)を掲げて、日本の軍港を出発した。この艦隊は、途中、フィリピンのアメリカ合州国海軍基地に寄ったあと、6月から10月まで、ペルシャ湾の奥で、アメリカ合州国・イギリス・イタリア・ドイツ・フランスら8か国の軍艦と合同で「掃海」作戦をおこなった。このとき日本海軍は、自軍の作戦を「湾岸の夜明け作戦(Operation Gulf Dawn)」と名付けた【註3】。
その翌年、1992年秋、日本陸軍正規軍が、第2次アジア太平洋戦争敗北後はじめて公然と外国に出兵し、その後、しばしば出兵している【註4】。
佐藤正人
【註1】佐藤正人「国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化」、『アジア問題研
究所報』12号、アジア問題研究所報、1997年、参照。
【註2】本稿の付表、参照。
日本の領土・支配地域は「大東亜共栄圏」の時代に最大規模になった。付表では、大
東亜共栄圏」内の地域・国家を個別に示したが、概略的なものである。さらに、「南洋群
島」や「蘭領印度」やフィリピンの島々一つ一つを個別に書くとともに、100を越える太平
洋の島々を加えなければならない。マーシャル群島ミリ環礁ルクノール島で、日本軍は
子供を含むマーシャル人十数人を惨殺している(島田興生『還らざる楽園』小学館、1994
年、139頁)。ルクノール島の隣のチェルボン島では、1945年3月1日に日本軍に反撃した
朝鮮人とマーシャル人が数十人殺されている(『朝日新聞』1991年10月3日夕刊)。
日本が傀儡政権・傀儡国家をつくった地域のうち、中国東北部・モンゴル東部(「満洲
国」)、モンゴル南部を付表1に、中国華北・華中・華南、ビルマ、フィリピン、アンダマン
諸島・ニコバル諸島、ベトナム、カンボジア、ラオスを付表2に分類したが、この区分は
厳密なものではない。それは、筆者の分析が厳密でないためではなく、国民国家日本の
領土・植民地支配の「論理」が欺瞞的であるためである。他地域・他国侵略に合理的な
論理はないのだから、総じて国民国家は、他地域・他国支配の形態と内実を一元化する
ことはできない。
付表2に、「傀儡・安南帝国・建国(45年3月11日)」と書いたが、「安南帝国」のチャン・チョ
ン・キム政権と、1943年10月14日につくられた「フィリピン共和国」のラウレル政権の傀儡
性は同質ではない。
【註3】朝雲新聞社編集局編『写真集[湾岸の夜明け]作戦全記録 ペルシャ湾掃海派遣隊の
188日』朝雲新聞社、1991年。
【註4】1992年6月に成立させたPKO法(「国連平和協力法」)に基づいて日本政府は、「平和」
のためと称して日本正規軍を同年9月・10月と翌年3月にカンボジアに、同年5月にモザン
ビークに送りこんだ。
1998年5月にインドネシアで民衆運動が高揚したとき、日本政府は、インドネシア在留
日本人の保護のためと称して、日本軍輸送機をフィリピンのマニラ経由でシンガポール
まで送りこみ、日本軍国外出兵の既成事実をまたひとつ積み重ねた。1997年7月にも、日
本政府は、カンボジア在留日本人救出のためだとしてタイに日本軍輸送機を送りこんで
いる。1945年以前においても、「平和」と「邦人居留民の生命財産の保護」は、日本軍
がアジアの各地に侵入するさいに常用された口実だった。
1868年の「明治維新」以後、日本は、「周辺」のアイヌモシリの一部と琉球を領土としつつ、戸籍制度と徴兵制度を確立し、国民国家を形成した【註1】。
「日清戦争」以後、国民国家日本は、継続的な侵略戦争によって、その北方「周辺」と南方「周辺」を領土(植民地)とし、領土・支配地域を拡大していった。日本の領土・支配地域は、第2次アジア太平洋戦争初期、1942年に最大となった【註2】。
1945年8月、日本はアジア民衆の抗日反日戦争と第2次アジア太平洋戦争に敗北した。日本の領土・支配地域は縮小した。だが、その5年後、日本は、1950年6月に開始された朝鮮戦争時に兵站基地として軍需物資を大量生産し、軍事特需によって、南北朝鮮民衆の大きな犠牲を土台として、経済を復興させた。朝鮮戦争の最中、1951年9月に、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国を排除して、サンフランシスコで、日本はアメリカ合州国など48か国と「講和条約」を締結した(1952年4月、発効)。その後、日本は、アジア太平洋・アラブ・アフリカ・中央アメリカ・南アメリカの各地を経済侵略してきた。
日本は、朝鮮戦争に直接・間接的に参戦したが(日本各地をアメリカ合州国軍の軍事基地としただけでなく、日本海上保安庁が特別掃海艇を編成し、1950年10月10日から12月6日まで、朝鮮半島沿岸地域で掃海作戦をおこなった)、さらに1961~1975年のベトナム戦争にも、アメリカ合州国軍の出撃基地・兵站基地・休養基地となって参戦し、ベトナム民衆を犠牲にして経済を成長させた。
1991年1月~2月の「湾岸戦争」のとき、日本はアメリカ合州国に100億ドル余の軍事費を提供して、間接的に参戦した。さらに、この年4月24日に、日本政府は臨時閣議で、日本海軍のペルシャ湾出兵を決定し、その2日後に、日本海軍艦隊が、第2次アジア太平洋戦争敗北後はじめての海外出兵のため、「ヒノマル」と海軍旗(旧日本海軍の旗と同一)を掲げて、日本の軍港を出発した。この艦隊は、途中、フィリピンのアメリカ合州国海軍基地に寄ったあと、6月から10月まで、ペルシャ湾の奥で、アメリカ合州国・イギリス・イタリア・ドイツ・フランスら8か国の軍艦と合同で「掃海」作戦をおこなった。このとき日本海軍は、自軍の作戦を「湾岸の夜明け作戦(Operation Gulf Dawn)」と名付けた【註3】。
その翌年、1992年秋、日本陸軍正規軍が、第2次アジア太平洋戦争敗北後はじめて公然と外国に出兵し、その後、しばしば出兵している【註4】。
佐藤正人
【註1】佐藤正人「国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化」、『アジア問題研
究所報』12号、アジア問題研究所報、1997年、参照。
【註2】本稿の付表、参照。
日本の領土・支配地域は「大東亜共栄圏」の時代に最大規模になった。付表では、大
東亜共栄圏」内の地域・国家を個別に示したが、概略的なものである。さらに、「南洋群
島」や「蘭領印度」やフィリピンの島々一つ一つを個別に書くとともに、100を越える太平
洋の島々を加えなければならない。マーシャル群島ミリ環礁ルクノール島で、日本軍は
子供を含むマーシャル人十数人を惨殺している(島田興生『還らざる楽園』小学館、1994
年、139頁)。ルクノール島の隣のチェルボン島では、1945年3月1日に日本軍に反撃した
朝鮮人とマーシャル人が数十人殺されている(『朝日新聞』1991年10月3日夕刊)。
日本が傀儡政権・傀儡国家をつくった地域のうち、中国東北部・モンゴル東部(「満洲
国」)、モンゴル南部を付表1に、中国華北・華中・華南、ビルマ、フィリピン、アンダマン
諸島・ニコバル諸島、ベトナム、カンボジア、ラオスを付表2に分類したが、この区分は
厳密なものではない。それは、筆者の分析が厳密でないためではなく、国民国家日本の
領土・植民地支配の「論理」が欺瞞的であるためである。他地域・他国侵略に合理的な
論理はないのだから、総じて国民国家は、他地域・他国支配の形態と内実を一元化する
ことはできない。
付表2に、「傀儡・安南帝国・建国(45年3月11日)」と書いたが、「安南帝国」のチャン・チョ
ン・キム政権と、1943年10月14日につくられた「フィリピン共和国」のラウレル政権の傀儡
性は同質ではない。
【註3】朝雲新聞社編集局編『写真集[湾岸の夜明け]作戦全記録 ペルシャ湾掃海派遣隊の
188日』朝雲新聞社、1991年。
【註4】1992年6月に成立させたPKO法(「国連平和協力法」)に基づいて日本政府は、「平和」
のためと称して日本正規軍を同年9月・10月と翌年3月にカンボジアに、同年5月にモザン
ビークに送りこんだ。
1998年5月にインドネシアで民衆運動が高揚したとき、日本政府は、インドネシア在留
日本人の保護のためと称して、日本軍輸送機をフィリピンのマニラ経由でシンガポール
まで送りこみ、日本軍国外出兵の既成事実をまたひとつ積み重ねた。1997年7月にも、日
本政府は、カンボジア在留日本人救出のためだとしてタイに日本軍輸送機を送りこんで
いる。1945年以前においても、「平和」と「邦人居留民の生命財産の保護」は、日本軍
がアジアの各地に侵入するさいに常用された口実だった。
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