三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の領土と「周辺」 9

2012年09月27日 | 個人史・地域史・世界史
■(一)国民国家日本の領土と日本国民
Ⅳ、ベトナム北部侵略以後 2
 ②、「共栄圏」・「資源圏」
 1941年12月1日に、ヒロヒトと日本政府・日本軍の「指導者」らは、11月5日の「帝国国策遂行要領」に基づいて、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定した【註1】。
 第2次アジア太平洋戦争は、1941年12月8日、日本陸軍がイギリスの植民地マラヤのコタバルに上陸した時に開始された。その1時間後、日本海軍が、アメリカ合州国の植民地ハワイのオアフ島パールハーバを爆撃した。コタバルに上陸した日本軍は、海南島から出発していた【註2】。
 第2次アジア太平洋戦争は、日本軍が海南島に奇襲上陸した1939年2月10日に開始されたともいえる。1939年2月12日に、蒋介石は重慶で、
   「海南島攻略は1931年9月18日の奉天攻略と対をなすものと考へられる、換言すれば日本
   は海南島を攻撃することによつて太平洋に第二の奉天をつくり出したのだ。奉天は満洲
   事変の発端であつた、海南島は太平洋事変の発端であらう」
と発言していた【註3】。この蒋介石の分析は正しかった。
 日本軍は、1941年12月10日に、グアム島、タラワ島、マキン島の軍事占領を開始した。グアム島、ビスマルク諸島(ニューアイルランド島など)の占領は11月6日に決定されていた【註4】。
 1942年1月18日に、日本・ドイツ・イタリアの軍統帥部が、東経70度線を日本とドイツ・イタリアの作戦地域を分ける線とする協定を結んだ。このとき日本軍は、西はインド西部からウラル山脈にいたる地域から、東は南北アメリカ大陸西海岸にいたる地域を戦場とすることを想定していた【註5】。
 1942年2月28日に、大本営政府連絡会議は、「帝国領導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」を、「日満支及東経九十度より東経百八十度迄の間に於ける南緯十度以北の南方諸地域」と設定した【註6】。この「大東亜の地域」には、アイヌモシリ、朝鮮、中国、ビルマ、タイ、「蘭領印度」、フィリピン、パプア島、「南洋群島」、ソロモン諸島(ガダルカナル島など)、ギルバート諸島(タラワ島など)……が含まれていた。このとき同時に、大本営政府連絡会議は、日本の「資源圏」と「補給圏」を、次のように設定した。
   「帝国資源圏は日満支及西太平洋地域とし自給生産力の拡大を期し豪洲、印度等は之が
   補給圏たらしむるものとす」【註7】。
 国民国家日本は、その「共栄圏」・「資源圏」を維持するためには、軍事占領後、政治・経済的支配体制を確立しなければならない。
 日本は、台湾や朝鮮には総督府を設置して支配したが、「南方」各地を軍政によって支配した。軍政の基本的事項は、大本営政府連絡会議で決定された。占領地において軍政を実行するためには、多数の行政官が必要であった【註8】。
 占領地の歴史的・政治的・社会的諸条件によって、軍政の内実は異なった。シンガポールでも香港でも、軍政の初期に多くの中国人が虐殺された。インドネシアでは、スカルノらが親日派となって協力したが、日本政府・日本軍は軍政を続けた。マラヤやシンガポールや香港や海南島でも、日本政府・日本軍は、軍政支配を続けた。ビルマでは、1943年8月に傀儡国家がつくられた。同年10月に、フィリピンでも、傀儡国家がつくられた。
 軍政地域で日本軍は軍票を大量に使用して、資源・農産物・労働力を奪った【註9】。日本軍の敗北後、軍票は、紙くずとなった。
 チモール島東部(ポルトガルの植民地)では、日本軍は中立国ポルトガルの「主権」を形式的に維持した。日本軍は軍票は使用したが、住民に日本語強制はできなかった【註10】。
 1943年5月31日に、ヒロヒト、日本政府・日本軍中枢は合同会議で「大東亜政略指導大綱」を決定した【註11】。このときヒロヒトらは、ビルマとフィリピンを「独立」させ、「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」を、「帝国の領土と決定」し、軍政を継続し、「重要資源ノ供給地」とすることを夢想していた。この「大綱」では、海南島に触れられていないが、日本政府・日本軍は、海南島を実質的に日本の領土としていた。
 国民国家日本の第2次アジア太平洋戦争の戦争目的は、領土・植民地拡大と資源収奪であったが、日本政府・軍は、アメリカ合州国・イギリス・オランダの植民地支配からの「解放」が目的であると宣伝した。
 日本政府・軍は、占領した地域の「敵国」の資産を没収したが、地域の民衆には渡さず、アメリカ合州国人・イギリス人・オランダ人らが経営していた鉱山、工場、農園などのすべてを日本企業に渡した【註12】。日本政府・軍は、占領地で日本時間をつかい、「ヒノマル」を掲げ、「元号」や「皇紀」を使い、「キミガヨ」を強制し、行政機関や教育現場に日本語をもちこんだ。日本のマスメディア(朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、同盟通信社など)は、侵入した「大東亜共栄圏」の各地で、天皇制イデオロギーや日本軍の強大さなどの偽りを宣伝した【註13】。
                                      佐藤正人

【註1】
 「対英米蘭開戦に関する件」、前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書564~569頁。
【註2】
 マレー半島に上陸した第5師団と第18師団の兵員は、1941年12月2日までに海南島南端の三亜に集結し、その輸送船団は、12月4日に海南島を出発している(防衛庁防衛研修所戦史室編『マレー侵攻作戦』〈戦史叢書1〉、朝雲新聞社、1966年、15~17、145頁)。1941年12月8日朝9時半にフィリピンのルソン島のツゲガラオ飛行場とバギオ兵営を奇襲した爆撃機は、台湾の航空基地から飛びたっている(防衛庁防衛研修所戦史室編『比島攻略作戦』〈戦史叢書2〉、朝雲新聞社、1966年、117~118頁)。
【註3】
 『大阪朝日新聞』1939年2月13日。
【註4】
 大本営陸軍部・大本営海軍部「瓦無及・ビスマルク・作戦に関する陸海軍中央協定」、防衛庁防衛研修所戦史室編『中部太平洋陸軍作戦〈1〉』〈戦史叢書6〉、朝雲新聞社、1967年、18~19頁。
【註5】
 「日独伊軍事協定」、防衛庁防衛研修所戦史室編『大本営陸軍部〈3〉』〈戦史叢書35〉、朝雲新聞社、1970年、252~253頁。
【註6】
 「大東亜戦争現情勢下に於て帝国指導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」、同前『大本営陸軍部〈3〉』490~491頁。
【註7】
 同前『大本営陸軍部〈3〉』487頁。
【註8】
 第2次アジア太平洋戦争の末期に、朝鮮総督府は、「将来南方軍政要員に相当数の朝鮮人起用を実現せしむる考へなり」という方針を示している(『第86回帝国議会説明資料』1944年12月、朝鮮総督府官房関係、24葉)。
【註9】
 小林英夫『日本軍政下のアジア  「大東亜共栄圏」と軍票』岩波書店、1993年、参照。
【註10】
 貴島正道「陸軍主計中尉としてみた東ティモール」、インドネシア日本占領期史料フォーラム編『証言集 日本軍占領下のインドネシア』龍渓書舎、1991年、参照。
【註11】
 前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書583~584頁。
【註12】
 疋田康行編著『・南方共栄圏・ーー戦時日本の東南アジア経済支配ーー』多賀出版、1995年、参照。
【註13】
 前野和久「占領地のマスコミ活動」、鈴木静夫・横山真佳編『神聖国家日本とアジア』勁草書房、1984年、194~226頁。
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