■11月22日(日)
朝9時半ころ、万寧市月塘村に着きました。
追悼碑の前で朱振華さんに会い、いっしょに朱学基さんのお宅を訪問しました。
そこで朱学基さん、朱振華さん、朱建華さんと、久しぶりに話し合いをしました。
昨年発行した証言集『血和泪的記録』には多くの反響があったそうです。印刷部数は600冊で残部がなくなったとのことでした(『血和泪的記録 海南万宁月塘村三月廿一日惨案专辑』〈朱振华捜集整理〉』については、このブログの2014年4月22日の「「万宁月塘村纪念“三·廿一”惨案69周年」」、4月28日の「「万宁月塘村自发纪念被日军杀害的先人 那是一段 无法忘却的惨痛」」、6月5日の「「村民约定公祭日 永远铭记惨痛史」」、6月16日の「「苦心搜证编《血和泪的记录》」」、7月7日の「「海南多地村民力图对日诉讼」」、2015年1月19日の「『血和泪的记录』」をみてください)。
さらに詳細な証言を加えた新たな証言集をつくることが、幸存者が亡くなられていく状況の中で急がれています。
朱振華さんたちは、“証言集はまだ不十分なのでこれまで何回も集まり話し合って、新しい証言集を作ろうと話している。来年の追悼集会までには、つくりたい”、と話しました。
朱振華さんは、
「わたしは獣医をしてきた。日本軍に殺された遺族に会って話していると、なぜ日本
政府は人を殺しておいて謝罪も賠償もしないのか、と言われる。日本政府はきちんと
賠償しなければならない」
と言いました。
この日午後、文昌市文昌鎮の南陽地区に行きました。そこには南陽人民革命闘争記念園があります。昨年訪問したときにはこの記念園には1989年建立された烈士記念碑しかありませんでしたが、新しく今年3月に開館された南陽人民革命斗争紀念館ができていました。
休日だったのですが、館長さんが来て記念館を開けてくださいました。
壁に1927年から1951年のあいだに倒れた革命烈士の名前が刻まれており、たくさんの革命歌の歌詞が紹介されていました。
この革命歌を今でも歌える人が老王村にいるというので案内をしていただきました。日本軍は、老王村とその周辺の村むらを1942年11月13日に襲撃しています。
老王村で王進良さん(1931年生、男性)が、歌を4曲ほど歌ってくださり、そのあと次のように話しました。
「私は日本軍統治時代にこの村で共産党の児童団に入った。10歳頃で、まだ小さくて
銃を担げないから、村にいて学校に入った。
南陽地区の出身で香港に行った張緒江という20代の人が歌の教師としてこの村にや
ってきて、私たちに歌を教えた。厚い歌集の本を持ってきて、歌詞を黒板に書いて教
えた。生徒はノートにその歌詞を写し取った。「軍隊にコメなどを援助して日本軍と
戦おう」、「戦って生き延びよう」といった歌を教わった。
先生が教えてくれた文字は「支持抗戦徹底」だった。歌を教えた先生が勉強も教えた。
教科書がないので先生が黒板に書いて、それを生徒がノートに写した。この先生も大虐
殺の翌年に日本軍に殺されてしまった。
このあたりは共産党の遊撃隊の活動地帯で、遊撃隊が必要な物資を集めることができ
るように、近くに仮設市場が設けられた。草を刈りとって広場を作り、4か所で市が開か
れた。同じ場所でやっていると日本軍さとられるので順番に市を開催した。また漢奸が
調べに来るので、児童団のこどもたちが市の周りで見張りをして、見知らぬ人が来たら
村に知らせた。児童団の仕事は市の見張りをしたり、遊撃隊の道案内をしたりすること
だった。
「血、血、血……」「土地はわれわれの土地」という歌を唄った。日本軍と戦って死ん
だ人を弔うときの歌など、いろいろあった。児童団の団長は今も健在で海口に住んでいる。
鄭郭嵐という名前だ。この村は当時も老王村と言われ、10世帯が住んでいたが、日本軍の
大虐殺によって2世帯になってしまった。日本軍は1941年にこのあたりの掃討作戦をおこ
なった。日本軍は金花村に駐屯していた。はじめに飛行機で爆撃をした。
家族は父母と兄と兄嫁と姉と私で、母と兄嫁が日本軍に殺された。兄はその時は助かっ
たが、そのあと南洋に行ってやはり日本軍に殺された。父と私は何日か前に親戚の家に行
っていて助かった。父はその後、国民党に働かされ、重い荷物を担ぐ仕事をさせられ、そ
のあと死んでしまった。
老王村から児童団に入ったのは5人だったが、私のほかは、もう生きていない」。
文昌市泊
■11月23日(月)
午前9時前に文昌市潭牛鎮昌美村を訪問し、魏学策さん(77歳、男性)を訪ねました。2014年3月27日に続いての訪問です。
魏さんは1942年10月31日に4歳の時日本軍にこの村を襲われ、28歳の母と10歳の姉と叔母を殺害され、自らも5か所を刺されて重傷を負いました。そのとき村人が50人殺されましたが、その名簿を作成しています。名簿について魏さんは「その後名簿に追加はない、一人増えたが、そのひとは虐殺の翌年に殺害された人だ」と話しました。
魏さんの父(魏興理さん)は、その時は助かりましたが、1943年夏に20代で日本軍に銃殺されたそうです。
魏さんは潭牛鎮政府と昌美村政府に犠牲者を追悼する碑の建立を要望する文書を出しています。その文書には殺された村民の名前がすべて書かれています。この申請に対しては、村委員会を通して鎮政府から「革命烈士の記念碑を建てたばかりなので、すぐにはできないがいずれ建立する」という回答を口頭でもらっているとのことでした。
魏学策さんは母が殺された中庭にわたしたちを案内して、その場所を指さしました。魏さんは話しながら声をあげて泣きました。
「ふたりの母(父親の先妻と自分を生んだ母親)と姉が、ここで銃剣で刺し殺された。
母に背負われていたわたしは背中から落ちて、5か所を刺されたがかろうじて助かった。
銃剣の跡がいまも残っている」。
そのとき、隣に住む魏仕廉さんが中庭に出てこられました。魏仕廉さんは祖父の魏興珍さんが魏学策さんの父親(魏興理さん)と兄弟の方です。
そのあと、2014年12月に新たに建設されたこの地域の革命烈士の記念園に案内していただきました。工事はかなり長くかかったとのことでした。1963年に古い記念碑は建立されていますが、新しい記念園は門の付いた広い柵の囲いの中に、25名の抗日戦争および国民党との内戦で犠牲になった烈士の名前を刻んだ碑が建立されていました。囲いの柵にはブーゲンビリアの赤い花が咲いていました。
この日午後、甲子鎮土卜嶺村を訪問しました。今年の4月6日にこの村を訪問したときに出会った杜大志さん(70歳)に、今回も村の入り口で偶然に出会い、梁振三さん(90歳、男性)の家に案内していただきました。
梁振三さんは、日本軍に襲われたときのことを4月6日に続いて、次のように話しました。そばで、お連れ合いの李秀花さん(1941年生、雲龍村出身)が話を補ってくれました。
「日本軍は7回この村を襲った。家がすべて焼かれ、家畜も殺された。村人は山に逃げた
が、女性と若者が殺された。
この村で当時のことを知っているのは私だけになってしまった。
日本政府は賠償しなければならないが、いまだに賠償していない。全滅した家族もある。
あなたたちのように聞き取りをしても役に立たない。
昔のことを思い出すとなみだがとまらない。食べ物も、住むところもなかった。脳血栓
になって3年ほどになるが、手足がしびれ麻痺している。薬にたくさんお金を使ったが治ら
ない。
中国は外国に侵略していないが、日本は外国を侵略した。元気だったら自分も日本と
戦いたい気持ちだ。日本軍は三光作戦をやった。赤ん坊を投げあげて銃殺したり、若者
にヤシの実を取らせるために木に登らせお尻に銃剣を突きたてて、登れなかったら突き
殺したりした。
4回目に日本軍が村を襲ったときは、国民党の県長がこの村に泊まっていた。そのとき、
国民党の保6団、保7団と日本軍との戦闘があった。日本軍は村を包囲して県長を殺そう
とした。そのとき県長と国民党は逃げて、村人もいっしょに逃げた。村にほとんど人が
いなくなった。
そこで、日本軍は、隣村の慶雲村の人達に良民証を配ると言ってこの村に連れてきて、
17名を祠堂で殺した。すべて慶雲村のひとだった。家はすべて焼かれた。土卜嶺村で日
本軍に殺された村人は全部で6人だった。大人が3人(名前をノートに書く)、子ども3人の
名前はわからない。当時の村の人口は90名だった。
日本軍が来たとき、わたしは山に逃げてヤシの木で家を作りそこに住んだ。住む場所
は時々変えた。逃げるときはブタを置いておくと盗まれるので、山に連れて行って、穴
を掘ってそこにブタを隠した。日本軍は山に探しにきた。もし見つかればブタは取られ
るし、殺される。母と祖母と3人で逃げて暮らした。食べ物がないので、母と祖母は食べず
に自分に食べ物をくれた。日本軍がいなくなって村に戻ったが、家が1軒もなくなってい
て、途方にくれて涙が出た。日本政府は賠償をして、村を再建すべきだ」。
そのあと、梁振三さんの息子さんに案内されて、村の中に残っている国民党が掘った井戸を見に行きました。
井戸のそばの碑に「潤泉 国民党民国三十年夏建其之一」と刻まれていました。国民党の県長が来てから掘られた井戸だとのことです。また別の場所に「民国三十四年建立 潤泉其之五」と刻まれた井戸がありました。民国三十年は1941年、民国三十四年は1945年です。
土卜嶺村の祠堂で隣村の甲子鎮慶雲村の村人17名が殺害されたという話は、4月に訪問したときに聞いていましたが、そのときは訪問する時間がなかったので、今回慶雲村を訪問しました。
邢維英さん(1924年生、男性)に話を伺うことができました。
「日本軍は何度も村に攻めてきた。最初に攻めてきたときは、家は無事だったが人が殺さ
れた。そのときは銃の音を聞いて山に逃げ、家に帰ると母が戻っていたので再び山に逃
げた。
二度目に来たときは12軒の家が焼かれた。そのときは海口、文昌、定安の三方向から軍
が来て村を包囲し、空爆もやった。3-4機の飛行機が飛んできた。そのときは封溝村に逃
げた人もいた。
土卜嶺村の祠堂で村人が殺されたときは、良民証を配るからと言って村人を祠堂に集め
て機関銃で撃ち殺した。子供や女性も殺された。そのとき私は良民証をもらわずに家にい
たので助かった。父と母が祠堂に行って、父は射殺された。母は弾は当たらなかったが血
だらけになって家に戻ってきて、「日本軍が殺しに来る」と叫んだ
母と一緒に山に逃げた。殺された人で憶えているのは、わたしの父の邢増瑞のほかに、
邢福南、邢増大、邢増吉、邢増大の妻、邢増吉の妻、邢増吉の孫(男)だ
日本軍は祠堂で村民を銃殺した後この村に攻めてきて、12軒の家を焼いた。村民1人を
殺し、豚を1匹殺した。
当時この村の人口は100名あまりだった。私は20歳近いころだった。当時の私の家族は
父母と子供は男4人、女1人だった。みんなで山に隠れた。国民党の軍隊がこの村に駐屯し
たことはなかった。
国民党軍の保6団と保7団が日本軍と激しい戦闘を朝から晩まで激しく戦闘したことが
あった。そのときも村人は皆山に逃げた。そのあと日本軍は大規模な掃討を始めて、空に
飛行機がたくさん飛んできた。
村では国民党にコメを渡して援助したが、この村からは国民党にも、共産党にも積極的
に参加した人はいなかった。ここには共産党の勢力の範囲内ではなかった。
日本軍の掃討作戦が大規模になり、空爆が激しくなったので、急いで山に逃げたが、コメ
もないし逃げる準備をしていなかったので、8-10日くらいして村に戻った。
2回ほどそのようにして山に逃げたが、そのあとは村にいた。
村人が42人殺されたときは、夜にこっそりと村に戻って身内の遺体を埋め、また山に
逃げた。
日本軍の仕事をしたことは一度もなかった。
父が亡くなってから暮らしは大変になった。山で薪を集めて近くの市場で売って生活した。
今でも思い出すと涙が出る。父は農民だった。父の死後は私が農業を継いだ。私は4人
兄弟の末っ子だ。
日本軍は文昌から来て、力づくや脅しではなくやさしい言葉で「良民証を配る」と村民
に伝え、村人を集めておいて、そのあと大虐殺をやった。日本軍が集めるときの声も聞
いた。若者は逃げ延びたが、年寄りと子供が犠牲になった。
日本軍がいなくなった時のことは覚えていない。日本が負けて共産党が統治することに
なると分かってうれしかった。学校へは行っていない。1950年に文字を少し学んだ。解放
後は、人民公社、牧畜の仕事、村の主任などを務めた」。
三門坡鎮泊
斉藤日出治 記
朝9時半ころ、万寧市月塘村に着きました。
追悼碑の前で朱振華さんに会い、いっしょに朱学基さんのお宅を訪問しました。
そこで朱学基さん、朱振華さん、朱建華さんと、久しぶりに話し合いをしました。
昨年発行した証言集『血和泪的記録』には多くの反響があったそうです。印刷部数は600冊で残部がなくなったとのことでした(『血和泪的記録 海南万宁月塘村三月廿一日惨案专辑』〈朱振华捜集整理〉』については、このブログの2014年4月22日の「「万宁月塘村纪念“三·廿一”惨案69周年」」、4月28日の「「万宁月塘村自发纪念被日军杀害的先人 那是一段 无法忘却的惨痛」」、6月5日の「「村民约定公祭日 永远铭记惨痛史」」、6月16日の「「苦心搜证编《血和泪的记录》」」、7月7日の「「海南多地村民力图对日诉讼」」、2015年1月19日の「『血和泪的记录』」をみてください)。
さらに詳細な証言を加えた新たな証言集をつくることが、幸存者が亡くなられていく状況の中で急がれています。
朱振華さんたちは、“証言集はまだ不十分なのでこれまで何回も集まり話し合って、新しい証言集を作ろうと話している。来年の追悼集会までには、つくりたい”、と話しました。
朱振華さんは、
「わたしは獣医をしてきた。日本軍に殺された遺族に会って話していると、なぜ日本
政府は人を殺しておいて謝罪も賠償もしないのか、と言われる。日本政府はきちんと
賠償しなければならない」
と言いました。
この日午後、文昌市文昌鎮の南陽地区に行きました。そこには南陽人民革命闘争記念園があります。昨年訪問したときにはこの記念園には1989年建立された烈士記念碑しかありませんでしたが、新しく今年3月に開館された南陽人民革命斗争紀念館ができていました。
休日だったのですが、館長さんが来て記念館を開けてくださいました。
壁に1927年から1951年のあいだに倒れた革命烈士の名前が刻まれており、たくさんの革命歌の歌詞が紹介されていました。
この革命歌を今でも歌える人が老王村にいるというので案内をしていただきました。日本軍は、老王村とその周辺の村むらを1942年11月13日に襲撃しています。
老王村で王進良さん(1931年生、男性)が、歌を4曲ほど歌ってくださり、そのあと次のように話しました。
「私は日本軍統治時代にこの村で共産党の児童団に入った。10歳頃で、まだ小さくて
銃を担げないから、村にいて学校に入った。
南陽地区の出身で香港に行った張緒江という20代の人が歌の教師としてこの村にや
ってきて、私たちに歌を教えた。厚い歌集の本を持ってきて、歌詞を黒板に書いて教
えた。生徒はノートにその歌詞を写し取った。「軍隊にコメなどを援助して日本軍と
戦おう」、「戦って生き延びよう」といった歌を教わった。
先生が教えてくれた文字は「支持抗戦徹底」だった。歌を教えた先生が勉強も教えた。
教科書がないので先生が黒板に書いて、それを生徒がノートに写した。この先生も大虐
殺の翌年に日本軍に殺されてしまった。
このあたりは共産党の遊撃隊の活動地帯で、遊撃隊が必要な物資を集めることができ
るように、近くに仮設市場が設けられた。草を刈りとって広場を作り、4か所で市が開か
れた。同じ場所でやっていると日本軍さとられるので順番に市を開催した。また漢奸が
調べに来るので、児童団のこどもたちが市の周りで見張りをして、見知らぬ人が来たら
村に知らせた。児童団の仕事は市の見張りをしたり、遊撃隊の道案内をしたりすること
だった。
「血、血、血……」「土地はわれわれの土地」という歌を唄った。日本軍と戦って死ん
だ人を弔うときの歌など、いろいろあった。児童団の団長は今も健在で海口に住んでいる。
鄭郭嵐という名前だ。この村は当時も老王村と言われ、10世帯が住んでいたが、日本軍の
大虐殺によって2世帯になってしまった。日本軍は1941年にこのあたりの掃討作戦をおこ
なった。日本軍は金花村に駐屯していた。はじめに飛行機で爆撃をした。
家族は父母と兄と兄嫁と姉と私で、母と兄嫁が日本軍に殺された。兄はその時は助かっ
たが、そのあと南洋に行ってやはり日本軍に殺された。父と私は何日か前に親戚の家に行
っていて助かった。父はその後、国民党に働かされ、重い荷物を担ぐ仕事をさせられ、そ
のあと死んでしまった。
老王村から児童団に入ったのは5人だったが、私のほかは、もう生きていない」。
文昌市泊
■11月23日(月)
午前9時前に文昌市潭牛鎮昌美村を訪問し、魏学策さん(77歳、男性)を訪ねました。2014年3月27日に続いての訪問です。
魏さんは1942年10月31日に4歳の時日本軍にこの村を襲われ、28歳の母と10歳の姉と叔母を殺害され、自らも5か所を刺されて重傷を負いました。そのとき村人が50人殺されましたが、その名簿を作成しています。名簿について魏さんは「その後名簿に追加はない、一人増えたが、そのひとは虐殺の翌年に殺害された人だ」と話しました。
魏さんの父(魏興理さん)は、その時は助かりましたが、1943年夏に20代で日本軍に銃殺されたそうです。
魏さんは潭牛鎮政府と昌美村政府に犠牲者を追悼する碑の建立を要望する文書を出しています。その文書には殺された村民の名前がすべて書かれています。この申請に対しては、村委員会を通して鎮政府から「革命烈士の記念碑を建てたばかりなので、すぐにはできないがいずれ建立する」という回答を口頭でもらっているとのことでした。
魏学策さんは母が殺された中庭にわたしたちを案内して、その場所を指さしました。魏さんは話しながら声をあげて泣きました。
「ふたりの母(父親の先妻と自分を生んだ母親)と姉が、ここで銃剣で刺し殺された。
母に背負われていたわたしは背中から落ちて、5か所を刺されたがかろうじて助かった。
銃剣の跡がいまも残っている」。
そのとき、隣に住む魏仕廉さんが中庭に出てこられました。魏仕廉さんは祖父の魏興珍さんが魏学策さんの父親(魏興理さん)と兄弟の方です。
そのあと、2014年12月に新たに建設されたこの地域の革命烈士の記念園に案内していただきました。工事はかなり長くかかったとのことでした。1963年に古い記念碑は建立されていますが、新しい記念園は門の付いた広い柵の囲いの中に、25名の抗日戦争および国民党との内戦で犠牲になった烈士の名前を刻んだ碑が建立されていました。囲いの柵にはブーゲンビリアの赤い花が咲いていました。
この日午後、甲子鎮土卜嶺村を訪問しました。今年の4月6日にこの村を訪問したときに出会った杜大志さん(70歳)に、今回も村の入り口で偶然に出会い、梁振三さん(90歳、男性)の家に案内していただきました。
梁振三さんは、日本軍に襲われたときのことを4月6日に続いて、次のように話しました。そばで、お連れ合いの李秀花さん(1941年生、雲龍村出身)が話を補ってくれました。
「日本軍は7回この村を襲った。家がすべて焼かれ、家畜も殺された。村人は山に逃げた
が、女性と若者が殺された。
この村で当時のことを知っているのは私だけになってしまった。
日本政府は賠償しなければならないが、いまだに賠償していない。全滅した家族もある。
あなたたちのように聞き取りをしても役に立たない。
昔のことを思い出すとなみだがとまらない。食べ物も、住むところもなかった。脳血栓
になって3年ほどになるが、手足がしびれ麻痺している。薬にたくさんお金を使ったが治ら
ない。
中国は外国に侵略していないが、日本は外国を侵略した。元気だったら自分も日本と
戦いたい気持ちだ。日本軍は三光作戦をやった。赤ん坊を投げあげて銃殺したり、若者
にヤシの実を取らせるために木に登らせお尻に銃剣を突きたてて、登れなかったら突き
殺したりした。
4回目に日本軍が村を襲ったときは、国民党の県長がこの村に泊まっていた。そのとき、
国民党の保6団、保7団と日本軍との戦闘があった。日本軍は村を包囲して県長を殺そう
とした。そのとき県長と国民党は逃げて、村人もいっしょに逃げた。村にほとんど人が
いなくなった。
そこで、日本軍は、隣村の慶雲村の人達に良民証を配ると言ってこの村に連れてきて、
17名を祠堂で殺した。すべて慶雲村のひとだった。家はすべて焼かれた。土卜嶺村で日
本軍に殺された村人は全部で6人だった。大人が3人(名前をノートに書く)、子ども3人の
名前はわからない。当時の村の人口は90名だった。
日本軍が来たとき、わたしは山に逃げてヤシの木で家を作りそこに住んだ。住む場所
は時々変えた。逃げるときはブタを置いておくと盗まれるので、山に連れて行って、穴
を掘ってそこにブタを隠した。日本軍は山に探しにきた。もし見つかればブタは取られ
るし、殺される。母と祖母と3人で逃げて暮らした。食べ物がないので、母と祖母は食べず
に自分に食べ物をくれた。日本軍がいなくなって村に戻ったが、家が1軒もなくなってい
て、途方にくれて涙が出た。日本政府は賠償をして、村を再建すべきだ」。
そのあと、梁振三さんの息子さんに案内されて、村の中に残っている国民党が掘った井戸を見に行きました。
井戸のそばの碑に「潤泉 国民党民国三十年夏建其之一」と刻まれていました。国民党の県長が来てから掘られた井戸だとのことです。また別の場所に「民国三十四年建立 潤泉其之五」と刻まれた井戸がありました。民国三十年は1941年、民国三十四年は1945年です。
土卜嶺村の祠堂で隣村の甲子鎮慶雲村の村人17名が殺害されたという話は、4月に訪問したときに聞いていましたが、そのときは訪問する時間がなかったので、今回慶雲村を訪問しました。
邢維英さん(1924年生、男性)に話を伺うことができました。
「日本軍は何度も村に攻めてきた。最初に攻めてきたときは、家は無事だったが人が殺さ
れた。そのときは銃の音を聞いて山に逃げ、家に帰ると母が戻っていたので再び山に逃
げた。
二度目に来たときは12軒の家が焼かれた。そのときは海口、文昌、定安の三方向から軍
が来て村を包囲し、空爆もやった。3-4機の飛行機が飛んできた。そのときは封溝村に逃
げた人もいた。
土卜嶺村の祠堂で村人が殺されたときは、良民証を配るからと言って村人を祠堂に集め
て機関銃で撃ち殺した。子供や女性も殺された。そのとき私は良民証をもらわずに家にい
たので助かった。父と母が祠堂に行って、父は射殺された。母は弾は当たらなかったが血
だらけになって家に戻ってきて、「日本軍が殺しに来る」と叫んだ
母と一緒に山に逃げた。殺された人で憶えているのは、わたしの父の邢増瑞のほかに、
邢福南、邢増大、邢増吉、邢増大の妻、邢増吉の妻、邢増吉の孫(男)だ
日本軍は祠堂で村民を銃殺した後この村に攻めてきて、12軒の家を焼いた。村民1人を
殺し、豚を1匹殺した。
当時この村の人口は100名あまりだった。私は20歳近いころだった。当時の私の家族は
父母と子供は男4人、女1人だった。みんなで山に隠れた。国民党の軍隊がこの村に駐屯し
たことはなかった。
国民党軍の保6団と保7団が日本軍と激しい戦闘を朝から晩まで激しく戦闘したことが
あった。そのときも村人は皆山に逃げた。そのあと日本軍は大規模な掃討を始めて、空に
飛行機がたくさん飛んできた。
村では国民党にコメを渡して援助したが、この村からは国民党にも、共産党にも積極的
に参加した人はいなかった。ここには共産党の勢力の範囲内ではなかった。
日本軍の掃討作戦が大規模になり、空爆が激しくなったので、急いで山に逃げたが、コメ
もないし逃げる準備をしていなかったので、8-10日くらいして村に戻った。
2回ほどそのようにして山に逃げたが、そのあとは村にいた。
村人が42人殺されたときは、夜にこっそりと村に戻って身内の遺体を埋め、また山に
逃げた。
日本軍の仕事をしたことは一度もなかった。
父が亡くなってから暮らしは大変になった。山で薪を集めて近くの市場で売って生活した。
今でも思い出すと涙が出る。父は農民だった。父の死後は私が農業を継いだ。私は4人
兄弟の末っ子だ。
日本軍は文昌から来て、力づくや脅しではなくやさしい言葉で「良民証を配る」と村民
に伝え、村人を集めておいて、そのあと大虐殺をやった。日本軍が集めるときの声も聞
いた。若者は逃げ延びたが、年寄りと子供が犠牲になった。
日本軍がいなくなった時のことは覚えていない。日本が負けて共産党が統治することに
なると分かってうれしかった。学校へは行っていない。1950年に文字を少し学んだ。解放
後は、人民公社、牧畜の仕事、村の主任などを務めた」。
三門坡鎮泊
斉藤日出治 記
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