だがそれだけではありません。紀伊半島における1926年の「木本事件」と1930-40年代の強制的・半強制的な鉱山労働は、さらに日本の外のアジアにおける朝鮮人の虐殺行為へとつながっています。
紀州鉱山を経営していた石原産業は、紀州鉱山の開発に先立ってすでに1930年代の初頭から東南アジアに進出し、マレー半島をはじめとして各地で大規模な鉱山開発を推し進めていました。またアジア太平洋戦争が始まり、日本軍が中国の海南島を占領するとともに、それに乗じて海南島でも鉱山開発を進めます。そこでも、島の先住民や中国人や朝鮮人が、日本の国内における強制労働と同じようにして、厳しい労働条件で労働を強いられたのです。
わたしたちは木本事件・紀州鉱山の調査に続いて、石原産業が海南島の鉱山開発でおこなった朝鮮人・中国人の強制労働について調査するために、海南島にわたりました。そしてその調査を進める中で驚くべき事実を知りました。
石原産業が「開発」した鉱山(田独鉱山)の近くに海南島の先住民(黎族)が住む村があり、その村の名前が「朝鮮村」と呼ばれています。朝鮮人がひとりもいないその村がなぜそのように呼ばれているのかを調べてみたところ、アジア太平洋戦争中にそこで日本軍によって多くの朝鮮人が殺されたということがわかりました。日本軍は1939年に海南島を占領した後、海南島の道路工事や飛行場建設や鉱山開発を担う労働力源として、朝鮮から刑務所の服役囚を《朝鮮報国隊》として組織し、海南島に連れてきました。そして道路工事や飛行場建設の仕事をさせた後に、敗戦の直前になって、これらの朝鮮人をひそかに抹殺したのです。その数は1000人を下らないと言われています。わたしたちは先住民の当時の体験者から話を聞いて、その虐殺が事実であったことを確かめることができました。先住民の当時の体験者から日本軍の兵士が朝鮮人を殺害した場所や殺害の様子を聞くことができました。殺された朝鮮人の遺骨は今もなお朝鮮村に埋められています。その数も、身元も正確なことは何もわかってはいません。
紀伊半島の南端で起きた「木本事件」から始めて、紀州鉱山における朝鮮人労働者の強制労働や中国海南島での強制労働および虐殺事件をたどることによって、わたしたちは「木本事件」を、20世紀前半における近代日本のアジア侵略の時間的な流れの中に位置づけ、またアジアの空間というひろがりの中でとらえることができました。
わたしたちは、今後アジアの時間と空間の広がりの中で、記憶のかなたに葬り去られたこれらの歴史を掘り起こす作業を続けていきたいと考えています。また同時に、地域で歴史認識を改める運動を展開していくつもりです。「木本事件」については、事件に関する資料を熊野市の図書館に設置すること、『熊野市史』における事件の記述を書き換えること、「木本事件」を学校の人権教育における教材として利用すること、などが課題です。さらにまた紀州鉱山については、徴用された朝鮮人の犠牲者を追悼する集会や碑の建立、鉱山資料館における朝鮮人労働者の関連資料の展示、『紀和町史』における記述の書き換え、そして海南島については、遺骨の発掘もふくめた虐殺の事実に関する調査、資料集の作成など、が課題として挙げられます。これらの課題について、わたしたちのような弱小の市民運動にできることは微力ですが、今後できるかぎりの努力を重ねていきたいと考えています。
わたしたちの運動にご理解とお力添えをお願いすると同時に、読者のみなさんがそれぞれの地域で歴史を掘り起こす作業に取り組んでいただくことを期待しています。
紀州鉱山を経営していた石原産業は、紀州鉱山の開発に先立ってすでに1930年代の初頭から東南アジアに進出し、マレー半島をはじめとして各地で大規模な鉱山開発を推し進めていました。またアジア太平洋戦争が始まり、日本軍が中国の海南島を占領するとともに、それに乗じて海南島でも鉱山開発を進めます。そこでも、島の先住民や中国人や朝鮮人が、日本の国内における強制労働と同じようにして、厳しい労働条件で労働を強いられたのです。
わたしたちは木本事件・紀州鉱山の調査に続いて、石原産業が海南島の鉱山開発でおこなった朝鮮人・中国人の強制労働について調査するために、海南島にわたりました。そしてその調査を進める中で驚くべき事実を知りました。
石原産業が「開発」した鉱山(田独鉱山)の近くに海南島の先住民(黎族)が住む村があり、その村の名前が「朝鮮村」と呼ばれています。朝鮮人がひとりもいないその村がなぜそのように呼ばれているのかを調べてみたところ、アジア太平洋戦争中にそこで日本軍によって多くの朝鮮人が殺されたということがわかりました。日本軍は1939年に海南島を占領した後、海南島の道路工事や飛行場建設や鉱山開発を担う労働力源として、朝鮮から刑務所の服役囚を《朝鮮報国隊》として組織し、海南島に連れてきました。そして道路工事や飛行場建設の仕事をさせた後に、敗戦の直前になって、これらの朝鮮人をひそかに抹殺したのです。その数は1000人を下らないと言われています。わたしたちは先住民の当時の体験者から話を聞いて、その虐殺が事実であったことを確かめることができました。先住民の当時の体験者から日本軍の兵士が朝鮮人を殺害した場所や殺害の様子を聞くことができました。殺された朝鮮人の遺骨は今もなお朝鮮村に埋められています。その数も、身元も正確なことは何もわかってはいません。
紀伊半島の南端で起きた「木本事件」から始めて、紀州鉱山における朝鮮人労働者の強制労働や中国海南島での強制労働および虐殺事件をたどることによって、わたしたちは「木本事件」を、20世紀前半における近代日本のアジア侵略の時間的な流れの中に位置づけ、またアジアの空間というひろがりの中でとらえることができました。
わたしたちは、今後アジアの時間と空間の広がりの中で、記憶のかなたに葬り去られたこれらの歴史を掘り起こす作業を続けていきたいと考えています。また同時に、地域で歴史認識を改める運動を展開していくつもりです。「木本事件」については、事件に関する資料を熊野市の図書館に設置すること、『熊野市史』における事件の記述を書き換えること、「木本事件」を学校の人権教育における教材として利用すること、などが課題です。さらにまた紀州鉱山については、徴用された朝鮮人の犠牲者を追悼する集会や碑の建立、鉱山資料館における朝鮮人労働者の関連資料の展示、『紀和町史』における記述の書き換え、そして海南島については、遺骨の発掘もふくめた虐殺の事実に関する調査、資料集の作成など、が課題として挙げられます。これらの課題について、わたしたちのような弱小の市民運動にできることは微力ですが、今後できるかぎりの努力を重ねていきたいと考えています。
わたしたちの運動にご理解とお力添えをお願いすると同時に、読者のみなさんがそれぞれの地域で歴史を掘り起こす作業に取り組んでいただくことを期待しています。
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