三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本の国家犯罪の隠蔽を許さない民衆運動を!

2014年10月22日 | 個人史・地域史・世界史
 1994年に三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・裵相度氏)の追悼碑を建立する会が追悼碑を建立したあと、20世紀末、1999年8月13日に、日本は、侵略の旗「ヒノマル」を国旗とし、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌とし、その12日後の8月25日に、他地域・他国軍事侵略のための「周辺事態法」を施行した。
 21世紀になってから、日本はさらに過去の侵略史を肯定し、あらたな侵略の体制を強化している。日本政府は、2014年末に、「日本周辺」の制約を外そうとしている。
 2014年に、長野、奈良、群馬などの自治体が、日本の侵略犯罪の犠牲者を追悼する碑や事実を明らかにしようとする説明板の存続を妨害しはじめた。
 しかし、長崎のように、そのような妨害をおこなわない自治体もある。

■「松代大本営跡」で
 19世紀後半以後、台湾、朝鮮、中国、シベリア、モンゴルを侵略し、多くの民衆の命を奪ってきた日本は、1941年12月にアジア太平洋全域侵略を開始した。しかし、その半年後、ミッドウェー海域で大敗北した。  1944年7月にサイパンをUSA軍に占領されて以後、爆撃から逃れるために、日本政府は、天皇居住地・大本営などを長野の松代町に移すことにし、地下壕・地下坑道などの工事を開始した。中心地は象山、舞鶴山、皆神山だった。
 工事にはおおくの朝鮮人が働かされた。周辺に「慰安所」がつくられた。
 1990年から長野市が象山地下壕の一部公開を始め、入り口に説明板を設置した。そこには、「延べ三百万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され……」と書かれていた。
 その24年後、今年8月に、長野市は、その説明板の「強制的に」という部分をテープで隠し、10月8日に、長野市長は、説明文を「多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われている」と変え、「必ずしも全てが強制的ではなかったなど、さまざまな見解がある」と加筆すると発表した。

■「天理大本営跡」で
 日本海軍は、1944年9月から、奈良県天理の柳本に飛行場(「大和海軍航空隊大和基地」)を建設し始めた。多くの朝鮮人が働かされた。
 日本海軍は、近くの一本松山に天皇ヒロヒトの「御座所」や大本営の建設も始めた。
 1995年に天理市と天理市教育委員会は、柳本の旧滑走路の近くに、「大和海軍航空隊大和基地」についてと題する地図入りの説明板を設置した。 そこには、飛行場の説明のあとに、
   「多くの朝鮮人労働者が動員や強制連行によって、柳本の地へつれてこられ、きびしい
   労働状況の中で働かされました」、
   「「慰安所」が設置され、そこへ朝鮮人女性が、強制連行された事実もあります」
と書かれ、最後に、
   「平和を希求する私たちは、歴史の事実を明らかにし、二度とくりかえしてはならないこと
   として正しく後世に伝えるためにこの説明板を設置します」
と書かれてあった。
 今年4月18日、設置19年後に、天理市と天理市教育委員会は、突然、「様々な歴史認識があり、国全体においても議論が行われている中で、いわゆる「強制性」も含め天理市及び天理市教育委員会の公式見解と解される掲示を行うことは適当でない」として、その説明板を撤去した。
 しかし、1991年8月7日に天理市と天理市教育委員会がだした「在日外国人(主として韓国・朝鮮人)幼児・児童・生徒に関する指導指針」には、
   「本市に在住する韓国・朝鮮人のほとんどは、戦前・戦中の我が国の国家政策による歴
   史的・社会的経緯の中で在日を余儀なくされてきたのである。とりわけ、柳本飛行場建
   設にかかわって多数の朝鮮人が強制連行により労働と多大の犠牲を強いられた経緯をも
   っている」
と書かれていた。

■群馬県立公園の追悼碑
 2004年4月に、群馬県朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会は、群馬県の鉱山や工事現場で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を、県から10年間の設置許可を得て県立公園(群馬の森)に建立した。
 その碑文(「追悼碑建立にあたって」)には、
   「20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、労
   務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需 工場などに動員され、この群馬の
   地においても、事故や過労になどで尊い命を失った人も少なくなかった。
    21世紀を迎えたいま。私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与
   えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表
   明する」
と記されていた。
 今年7月11日、群馬県は、県立公園内の設置許可を更新しないとし、碑の撤去を、群馬県朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会を受け継いでいる「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会に求めてきた。

■大阪警備府軍需部安威倉庫跡地の説明板
 1995年12月に、大阪府と茨木市は、戦後50年記念事業として茨木市内の大阪警備府軍需部安威倉庫跡地に説明板を設置した。そこには、「我が国は、先の戦争において多くの人命を失い、同時にアジア・太平洋地域の人々に大きな災禍と苦痛をもたらしたことを忘れてはなりません」、「(安威倉庫の)建設にあたっては、強制連行された朝鮮人が苛酷な労働に従事させられていました」と記されている。
 今年7月25日に、木本保平茨木市長は、「銘板には歴史的根拠が不明確に記述されている。撤去したい」とする申し入れ書を大阪府知事に出した。

■長崎平和公園の朝鮮人追悼碑
 1979年8月9日に、長崎在日朝鮮人の人権を守る会は、長崎市平和公園に、「強制連行および徴用で重労働に従事中被爆死亡した朝鮮人とその家族のために」、追悼碑を建立した。その説明板には、
   「日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は、1945年8月15日の日本敗戦当時は、
   実に2,365,263人、長崎県全体に在住していた朝鮮人は約7万人という多数に上がった(内
   務省警保局発表)。そして長崎市周辺には約3万数千人が在住し、三菱系列の造船所、製
   鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立て等の作業に強制
   労働させられ、1945年8月9日のアメリカ軍による原爆攻撃で約2万人が被爆し、約1万人
   が爆死した」、
   「かつて日本が朝鮮を武力で威かくし、植民化し、その民族を強制連行し、虐待酷使し、
   強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた戦争責任を、彼らにおわびすると共に、
   核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から念じてやまない」
と記されている。
 2013年12月に、長崎在日朝鮮人の人権を守る会は、公園管理者である長崎市に設置期限更新を申請した。長崎市は、2014年7月15日に更新を認めた。
                                      2014年10月20日 佐藤正人記
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