三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「東電に5700万円賠償命令 地裁いわき、富岡の避難者訴訟」

2024年03月14日 | 朝鮮史
「福島民友新聞 」 2024年03月14日 08時10分 
■東電に5700万円賠償命令 地裁いわき、富岡の避難者訴訟
 東京電力福島第1原発事故で避難した富岡町などの住民が東電に慰謝料などの損害賠償を求めた訴訟で、地裁いわき支部の三井大有裁判長は13日、東電に計約5700万円を賠償するよう命じた。訴訟では、原告158人のうち148人が和解していて、今回は和解していない10人への判決。
 三井裁判長は判決理由で「地震や津波が想定外の大規模なものであり、事故を回避できたと断ずるまではできない」としたが「対策の遅れが原発事故による被害を受けた避難者の精神的損害に及ぼす影響を十分に考慮すべきである」と結論付けた。
 賠償額は帰還困難区域と居住制限区域で2022年12月に見直された国の賠償基準「中間指針」に基づき、区域ごとに算出した。原告側は区域による金額の差を設けないことを訴えていたが、三井裁判長は「地域ごとの被害程度や回復の可能性などを考慮して定めるのが合理的」とした。
 原告団の猪狩俊幸副団長(78)は「判決は非常に残念で、何事にも誠意が見られない」と語った。原告側は控訴を検討している。
 原告は、原発事故による「ふるさと喪失」などに対する慰謝料を求める「福島原発避難者訴訟」の第3陣。富岡町などの住民64世帯162人が東電に慰謝料など35億6400万円を求めて提訴したが3世帯4人が取り下げ、先月28日には58世帯148人が和解していた。
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「韓国ソウル付近の百済跡で1600年前の日本人居住痕跡が発見された」

2024年03月08日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-03-07 17:06
■[単独]韓国ソウル付近の百済跡で1600年前の日本人居住痕跡が発見された
 漢城百済時代のソウル地域に古代日本人が居住していた可能性

【写真】百済窯遺跡の廃棄物層から日本製埴輪の破片が出土した際の様子=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 1500年余り前にソウルに日本から移ってきた技術者をはじめ倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産土器が相次いで確認されたためだ。
 地中の文化遺産を発掘・調査する機関である大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ボクジョンドン)にある百済時代の官営土器窯関連遺跡から、古代日本権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物「埴輪」を初めて発見したと明らかにした。
 埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。

【写真】城南市福井洞の百済土器窯関連遺跡の廃棄物層から出た5世紀の日本の古墳装飾品「埴輪」の破片。突出した帯を付けて巻いてあったり、表面に一定間隔で線を引いた特有の仕上げ跡が明確にみられる典型的な埴輪円筒形土器の破片であることが判明した=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日本の古墳装飾品である埴輪破片の一部を間近で見た様子。外壁の表面に突出した帯を囲み、一定間隔で細い線を引いた仕上げの跡がはっきりと見える=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日本の職人たちが作った埴輪が出土した城南市福井洞霊長山の麓の百済土器窯遺跡。当時、百済王室が運営していた官営工房施設の一部と推定される。埴輪はこの遺跡の廃棄物層から他の百済土器と混在する状態で発見された=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 この遺跡は、福井洞393番地霊長山麓一帯7798平方メートルの面積で確認される。百済時代に国が運営したと見られる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済王城跡として有力な風納土城(プンナプトソン)、夢村土城(モンチョントソン)とわずか4~5キロメートルの距離なので、王室が管掌しながら物品を調達する国営工房施設の一部と推定されてきたところだ。関心が集中した埴輪破片は2022年に遺跡の廃棄物層から黒煉瓦、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点余りと共に混ざって出てきた。突出した帯を付けて巻いてあったり、外壁の表面に一定間隔で線を引いた日本特有の仕上げ跡(日本の考古学用語で刷毛目)がはっきりとみられる埴輪円形土器の破片であることが判明した。
 大きさが15~20センチに達する埴輪の破片は、一部分円形の穴が開いた円筒形で、一部の破片は石柱が上下に巻かれたり、このような石柱の跡が残ったままだった。破片の下側である低部は、古墳の墳丘の地層につく部位なので、別途の手入れはせずに、上の方だけを手入れした低部も見える。独特の掻いた模様跡も発見された破片のほとんどで観察される。
 大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は、「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入ってきて百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と思われる」とし「墓の装飾物である埴輪製作品の実体が韓国の首都圏の百済施設跡で明確に確認されたことは事実上初めて」と話した。2000年代初めに百済王城跡であることが有力な風納土城を発掘し、手のひらより小さい残片大の埴輪の破片が三点ほど出たことはあるが、大きさが小さく出土の状況が明確ではないため、大きな注目を集めることはできなかった。
 韓日古代史を研究してきた歴史考古学界の一部の専門家たちは驚いている。紀元前18年から475年まで存続した百済王朝の最初の都で、今日のソウル松坡区(ソンパグ)、江東区(カンドング)、城南(ソンナム)一帯にあたる旧漢城(ハンソン)地域で、1600年前に外交官や職人をはじめとする倭人たちが居住して活動したことを示す明確な根拠が出たと評価されるためだ。

【写真】日本の古墳装飾品である埴輪破片の一部を間近で見た様子。外壁表面に突出した帯の跡と一定間隔で細い線を引いた仕上げ手入れの跡が明確に見える=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日本の古墳時代の長鼓型の墓(前方後円墳)である神戸五色塚古墳。墳丘の頂上と下側の部分に円筒形の装飾土器(埴輪)が列をなして復元された姿が見える=神戸市公式観光サイト//ハンギョレ新聞社

 特に埴輪は4~6世紀の日本の古墳時代の権力者、実力者の大型墓(長鼓型墓で日本では前方後円墳と呼ばれる)に欠かせない墳丘の重要装飾部材だったという点で、1600年~1500年前に古代日本の移住民が百済のソウルの都に暮らし、特有の墓を建てて飾った可能性が提起されている。まだ断定はできないが、この埴輪破片の発見で百済の首都である漢城一帯に倭の職人や外交官らが移住し、居住民村があったという推論も可能になったという分析が出ている。
 これまで韓日両国の学界は、古代朝鮮半島で日本と直接交流した有力な対象地として全羅道栄山江(ヨンサンガン)一帯を挙げてきた。この30年間、この地域で倭系移住民のものと見られる長鼓型墓が多く確認され、円筒形の他に馬と人などを形象化した埴輪も相当数出土している。しかし、今回の埴輪の発見で首都圏一帯にも埴輪を墳丘の装飾物として使った倭人の墓が存在したという推論が可能になった。
 百済の中央政府があった首都圏一帯の工房で、栄山江流域の倭系遺物より時期が早い5世紀前半の埴輪が出たことで、百済の中央政府と古代日本の間の密接な直接交流が先に進み、続いて百済の領域である栄山江流域と倭との交流が続いた可能性を示しているからだ。研究院側は来月に正式報告書を出版する予定であり、遺物の性格をめぐって学界の議論が熱くなるとみられる。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-03-07 13:32
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「韓国外交部、独島に「在外公館」表示…徐坰徳教授「韓国領土でないということ」

2024年02月01日 | 朝鮮史
「中央日報日本語版」 2024.02.01 11:15
■韓国外交部、独島に「在外公館」表示…徐坰徳教授「韓国領土でないということ」

【写真】独島の冬の風景[写真 外交部、中央DB]

 海外旅行関連の安全情報を提供する韓国外交部の海外安全旅行サイトが「独島(ドクト、日本名・竹島)」に「在外大韓民国公館」表示をし、論議を呼んでいる
 誠心女子大の徐坰徳(ソ・ギョンドク)教授は1日、自身のフェイスブックで「前回の国防部に続いて今度は外交部が独島に関する大きな事故を起こした」とし「短時間内にDMでこれほど多くの情報提供を受けたのは初めてのようだ。あまりにもあきれるようなことがまた生じた」と指摘した。
 外交部が運営する該当サイトには、世界各地にある韓国の公館を表示している。独島は大きい文字の上に太極模様のアイコンが付いているが、このアイコンは「在外大韓民国公館」を意味する。独島を「在外」、すなわち韓国領土でないと表示しているのだ。
 これに関し外交部は聯合ニュースTVに「独島ホームページにつながるリンクをクリックできるようアイコンを入れたが、別途のアイコンを使用せず在外公館のアイコンを使用して誤解が生じたようだ」と釈明した。
 徐教授は「独島を『在外公館』と表示したことは独島が韓国領土でないとことを意味する。どうすればこのようなことが起きるのか。これは日本の独島領有権主張に同調するようなものだ。幸い、現在は削除された状態」と指摘した。
 続いて「昨年末に国防部が出した将兵精神教育資料に独島を『紛争地域』と記述し、また、多数の韓半島(朝鮮半島)地図に独島が全く表示されていないことが明らかになり、大きい議論を呼んだ。最近はなぜ政府機関が独島に関してこのようになったのか分からない。気を引き締めなければいけない。今後このようなことが再発しないよう注意してほしい」と呼びかけた。


「中央日報日本語版」 2024.02.01 11:21
■海外旅行関連の安全情報を提供する韓国外交部の海外安全旅行サイトが「独島(ドクト、日本名・竹島)」に「在外大韓民国公館」表示をし、論議を呼んでいる。

【写真】独島に「在外公館」表示した韓国外交部サイト


「中央日報日本語版」 2024.02.01 07:19
■「ロシア版ウィキペディア」で独島を紛争地と紹介…徐坰徳教授が「抗議メール」

【写真】独島

 ロシアのインターネット百科事典「ルウィキ」が独島(ドクト、日本名・竹島)を韓国と日本の領土紛争地域として紹介したことがわかった。
 ルウィキで独島を検索すると「リアンクール」が出ている。ルウィキは「リアンクールまたは独島、または竹島。日本と韓国がこの島に対する領有権紛争を行っている」と説明した。
 リアンクールは1949年に独島を発見したフランスの捕鯨船の名前を取ったもので、韓国の独島領有権を否定する意味で日本政府が主に使う用語だ。
 これは独島が韓国固有の領土であり、関連した領土紛争は存在しないという韓国政府の公式見解に反するものだ。
 韓国の文化と歴史を伝えている誠信(ソンシン)女子大学の徐坰徳(ソ・ギョンドク)教授は「独島は歴史的、地理的、国際法的に韓国の領土なので紛争は存在しない。日本の強引な主張であるだけ」と指摘した。
 独島を英語では「リアンクールロックス」と呼ぶという説明に対しては、「独島は英語で『Dokdo』と表記する。リアンクールロックスは日本政府が韓国の独島領有権を薄めようとする意図で国際社会に広めている用語」と指摘した。
 合わせて独島の位置を日本海と表記したことに対しても徐教授は「韓国と日本の間の海の名前は2000年前から『東海』(East Sea)と呼ばれてきた」と強調した。
 徐教授はルウィキ側に関連情報を修正するよう促すメールを送り、独島が韓国領土であり東海の正しい名称を紹介する動画も伝えたと明らかにした。
 徐教授はグーグルやバイドゥなど海外検索サイトに韓国関連の間違いを粘り強い抗議で変えたとし「ルウィキの独島と韓国関連間違いも必ず修正されれば良いだろう」と付け加えた。
 ルウィキは代表的インターネット百科事典であるウィキペディアがロシアのウクライナ侵攻と関連した虚偽情報を掲載しているという主張が提起されたことを受け登場した代替サービスで15日に正式にサービスが開始された。
 ルウィキは「だれでもコンテンツ製作に参加することはできるが、専門家だけが資料検証を保証する点でウィキペディアと違う」と強調した。


「中央日報日本語版」 2023.05.04 15:50
■「独島は韓国の土地」証拠…日米の図書館で古地図245点発見
 米国スタンフォード大学図書館に所蔵中の日本全図(英国、1882)に鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト)がそれぞれ「Dagelet I.」と「Hornet Is.」と表記されて描いている。日本の隠岐の島は着色されているが、鬱陵島と独島は韓半島(朝鮮半島)と同一に着色されていない。[写真 独島財団]
 日本政府が独島(トクド、日本名・竹島)領有権主張を繰り返して論争になっている中で、独島が韓国領土であることを示す古地図245点が日本や米国など海外で追加で発見された。当時の世相を含む外国の古地図に鬱陵島・独島が韓国領土として表記されたことはそれ自体で歴史学的証拠になるものと評価される。

◇1600~1900年代の多様な時期の古地図を確認
 慶尚北道(キョンサンブクト)支援機関である独島財団は3日「海外機関および団体所蔵 独島関連古地図現況調査およびDB(データベース)構築」調査の結果を発表した。今回の調査の過程で日本11カ所の大学と米国議会、スタンフォード大学図書館に所蔵された独島関連古地図245点が確認された。
 追加で確認された地図は1600年代から1900年代に至るまでさまざまな時期に製作された。東洋古地図135点は韓国で製作された20点を除けばほとんどが日本で製作され、西洋古地図110点は英国とドイツなどさまざまな国家で製作された。英国46点(34.1%)、ドイツ33点(24.4%)、フランス13点(9.6%)、米国11点(8.1%)、ロシア2点(1.5%)、オーストリア2点(1.5%)、イタリア2点(1.5%)、スイス1点(0.7%)の順だ。
 独島の過去の名称表記もさまざまだったことが分かった。東洋の古地図ではほとんどが現在日本で呼んでいる独島名称である竹島ではなく松島と表記されていて、一部は朝鮮で製作されたのも影響で于山島・于島・千山島・子山島などで現れていた。西洋の古地図では「Tchian-chan-tao」「リアンクール岩礁(Liancourt Rocks)」「Hornet Island」と表記された。
 特に東・西洋の古地図ともに特徴的に確認できるのは鬱陵島と独島が別々に離れているものではなく一つの群島のように常に一緒に登場しているという点だ。

◇独島財団「欧州でも追加調査進行計画」
 独島財団のユ・スホ事務総長は「当時の世相をそのまま含んでいる古地図の証拠力は非常に強力」としながら「今回調査できなかった米国と日本の他の大学を含めて西洋の古地図が最も多く製作された英国やドイツ、フランスなど欧州でも追加調査を進めて独島古地図DBを構築していく」と話した。
 一方、最近日本政府は岸田文雄首相の7日の訪韓を控えて独島領有権主張を再び持ち出した。韓国野党「共に民主党」の田溶冀(チョン・ヨンギ)議員が2日に独島を訪問すると翌日「極めて遺憾」としながら外交ルートで抗議しながらだ。共同通信・NHK放送など現地メディアによると外務省の船越健裕アジア大洋州局長は田議員の独島訪問に関連して韓国大使館の金容吉(キム・ヨンギル)駐日政務公使に電話して「到底受け入れられず極めて遺憾だ」としながら再発防止を要求した。あわせて「竹島は、歴史的事実に照らしても国際法上も明らかに日本固有の領土だ」と主張した。
 これに対して韓国外交部は「日本側の不当な主張を外交チャネルを通じて一蹴した」とし「独島は歴史的・地理的・国際法的に明白な我が国固有の領土で、領土主権関連の日本側の主張を受け入れることはできない」と反論した。
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「韓国国防部の公文書、悲惨なレベル…「洪範図撤去」の主張、3つの間違い」

2023年09月06日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2023-09-06 10:11
■韓国国防部の公文書、悲惨なレベル…「洪範図撤去」の主張、3つの間違い
 [ハンギョレ21]特別寄稿  イム・ギョンソク|成均館大史学科教授
   (1)自由市惨事に関する疑惑は事実無根 
   (2)「パルチザン」の意味は1919~1922年の「独立軍」と指摘 
   (3)日帝時代、ソ連は米国と同じく独立運動の友軍 
 
【写真】78年ぶりに故国の地に戻った独立活動家の洪範図将軍の遺体が2021年8月15日午後、国立大田顕忠院に臨時安置されている/聯合ニュース

 2023年8月25日、陸軍士官学校は報道機関に声明文を配布した。それには信じ難い内容が含まれていた。校内に設置された「独立軍・光復軍英雄胸像」をすべて撤去し、別の場所に移すという内容だった。
 一度読んでみよう。「学生が学習する建物の中央玄関の前に、2018年に設置された独立軍・光復軍英雄胸像は、場所の適切性、国難克服の歴史が特定の時期に限定される問題などについての論議が続いていた」とする。そこで、これらの胸像を撤去し、学校外のどこかに移転するという話だった。

◆独立活動家に向けられた突然の攻撃
 胸像の主人公は、抗日武装闘争の指導者だった。大韓独立軍総司令官の洪範図(ホン・ボムド)、北路軍政署の総司令官の金佐鎮(キム・ジャジン)、新興武官学校の設立者の李会栄(イ・フェヨン)、光復軍総司令官の池青天(チ・チョンチョン)、光復軍参謀長の李範奭(イ・ボムソク)の5人だ。武装独立運動を代表するのに不足しない人物たちだ。解放された祖国の軍事将校を養成する士官学校で目標にすべき人物だちだ。
 その胸像をなくす代わりに、どうするというのか。声明文によれば「陸軍士官学校の校内には、学校のアイデンティティと設立の趣旨を実現し、自由民主主義の守護および韓米同盟の価値と意義を体感できる最適な環境を作ることに重点を置き、記念物の再整備事業を推進」するという。「自由民主主義」と「韓米同盟」が陸軍士官学校のアイデンティティを表象する言葉とみなされているようだ。それにふさわしい人物に置き換えるという意味だった。
 マスコミ報道によれば、新たに胸像の設置が検討されている人物は、ペク・ソンヨプ将軍だ。ペク・ソンヨプとは誰か。2009年、大統領直属の親日反民族行為真相糾明委員会が、親日の反民族行為者と規定した人物ではないか。彼は「1942年に満州国軍の少尉に任官してから1945年の日帝の敗戦に至るまで、満州国軍将校として日本の侵略戦争に積極協力」した人物だ。

【写真】8月29日午後、大田儒城区の国立大田顕忠院の独立有功者の第3墓地を訪れた大田市民が、洪範図将軍の墓地を調べている/聯合ニュース

 「1943年2月から満州地域の抗日武装独立勢力を武力で弾圧した間島特設隊で、これらに対する弾圧活動を展開し、また、1944年から1945年にかけて、間島特設隊員として、日本軍の作戦の一環で中国軍の八路軍を討伐する作戦に従事し、1945年春から日帝の敗戦時まで、延吉(ヨンギル)地域の国境守備任務に従事」したと指摘され、注目を集めた。
 要するに、陸軍士官学校の声明文は、独立軍の胸像をなくし、その代わりに親日反民族行為者の胸像を建てるという話に違いはない。この方針は、単に陸軍士官学校のレべルで決定されたものではなかった。同日、イ・ジョンソプ国防部長官は、国会の国防委員会で行った発言を通じて、陸軍士官学校の校内の記念物整備計画があることを認めた。独立軍・光復軍の胸像を陸軍士官学校の校内から撤去して外部に移すという方針が、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権のレべルで推進されていることを確認したものだった。
 世論が沸騰し始めた。まず、社会団体が動いた。独立活動家記念事業団体が連合して反対声明を発表し、記者会見を行った。独立有功者とその遺族を構成員とする光復会も出てきた。光復会のイ・ジョンチャン会長は、胸像の主人公である李会栄の孫であり、陸軍士官学校16期(1956年入学)出身で、民主正義党の国会議員、国家情報院長を歴任した保守派の政治家だ。彼は激しく反発した。イ・ジョンソプ国防部長官に辞任を要求する公開書簡を発表した。
 野党も立ち上がった。野党「共に民主党」のイ・ジェミョン代表は、国立大田顕忠院に安置されている洪範図の墓地を参拝し、「独立戦争の英雄を斬殺することは、決して容認できない」と発言した。パク・グァンオン院内代表も、党内最高委員会の会議の席上で、独立運動の誇らしい歴史を消そうとする反歴史的・反民族的な暴挙を取り消すよう要求した。
 さらに与党からも批判の声が出てきた。与党「国民の力」で非主流の人物たちがそれぞれ発言した。大統領選で党内選挙候補者だったユ・スンミン元議員、ホン・ジュンピョ大邱(テグ)市長、イ・ジュンソク前代表らが、フェイスブックなどを通して胸像撤去計画を非難した。
 普段は政権側の論調を維持している一部のメディアも背を向けた。朝鮮日報は8月28日付の社説で「北朝鮮と何の関連もなく、反国家的活動をしたわけでもない洪将軍の共産党加入の経歴だけを問題にするのは、理念的かつ偏狭だとする指摘が出ている」と批判した。中央日報も、ソ連共産党に入党したという理由で銅像を移すことは納得しがたいとして、独立活動家5人の胸像移転に反対の立場を明らかにした。文化日報に続き毎日経済も、洪範図の胸像移転は常識外のことであり、逆風が吹くだろうと懸念した。
 結局、胸像撤去計画は反対の世論に包囲されたわけだ。この計画を推進した政権内のニューライト原理主義者らが孤立した局面だとも言える。彼らは窮地に陥った。

【写真】8月28日、ソウル龍山区の国防部で定例会見を行うチョン・ハギュ国防部報道官/聯合ニュース

 8月28日、国防部はふたたび声明文を出した。「陸軍士官学校の洪範図将軍の胸像に関する国防部の立場」と題する文章だった。前回の声明文を出してから、わずか3日後のことだった。沸き立つ世論に負担を感じたのだろうか。国防部はすみやかに局面転換を試みた。独立活動家5人全員ではなく、そのうちの1人をつまみ出した。それが、洪範図将軍だ。
 声明文を読んでみよう。「ソ連共産党への加入や活動履歴などの論議がある洪範図将軍の胸像が陸軍士官学校に、しかも、士官候補生の教育の象徴的な建物である忠武館の中央玄関にあることは適切ではない」と判断した。
 国防部はその判断の根拠を具体的に指摘した。(1)1921年6月、ロシア共産党極東共和国の軍隊がスヴォボードヌイ(自由市)にいた独立軍を抹殺した自由市惨事に関係したという疑惑、(2)パルチザンの活動期間が1919~1922年と記載された洪範図の身分証明書から推定し、鳳梧洞・青山里(ポンオドン・チョンサンリ)戦闘にもパルチザンとして参加したという疑惑、(3)1927年にソ連共産党に入党した事実などがそれだ。要するに「1921年にロシアのヴォボードヌイに移動してから示した行跡」は、独立運動の業績ではないとみなしたのだ。

◆これが政府機関の公的文書だと言えるのか
 目を疑わざるをえない。はたしてこれが政府機関の公的文書なのか。虚偽と無知、そして、歴史に対する無理解が判断の前提にあることがわかる。一つ目の疑惑は、全面的に虚偽の所産だ。自由市惨事に関する歴史学界の研究は、ロシア語資料と日本側の情報資料、独立軍当事者の資料を縦横に比較分析したパン・ビョンリュル教授、イム・ギョンソク教授、ユン・サンウォン教授らの著書や博士学位論文などが代表だ。
それによると、自由市惨事の基本性格は、独立軍部隊の大統合の方法をめぐる内紛だった。死亡者が生じた武装解除の決定の責任は、高麗革命軍の指揮部(カランダリシュヴィリ、崔高麗(チェ・コリョ)、金夏錫(キム・ハソク)、呉夏黙(オ・ハムク))にあった。洪範図は流血の内紛が生じることを懸念し、武装解除の決定に反対する立場だったことが資料上では明確だ。国防部が提起した一つ目の疑惑は、全く事実の根拠がない。
 二つ目の疑惑は、全面的に無知の所産だ。パルチザンという単語は、ロシア語のパルチザン(Партизан)から来た外来語で、非正規戦に従事する武装部隊を示す。非正規軍という意味だ。1919~1922年にはこの用語は、「独立軍」や「義兵」を指し示す意味で用いられた。「パルチザン」という単語を「共産主義武装部隊」として用いる用例は、解放(日本敗戦後)後に初めて現れたことを留意しなければならない。
 三つ目の疑惑は、歴史に対する無理解のために生じた誤解だ。日帝植民地時代には、ソ連共産党は韓国独立運動の友軍だった。レーニン政権は、朝鮮独立運動を支援するために、金貨200万ルーブルを提供することを約束したし、そのうち金貨60万ルーブルが実際に支払われたことを思い出そう。独立活動家の多くが、ソ連との提携を多角的に模索した。大韓民国臨時政府は、全権大使の韓馨権(ハン・ヒョングォン)をモスクワに派遣した。李承晩(イ・スンマン)でさえ、ソ連の独立運動支援を得るために李喜儆(イ・ヒギョン)を密使としてモスクワに派遣した。

【写真】国防部が陸軍士官学校の校内だけでなく、国防部庁舎前に設置された故・洪範図将軍の胸像についても、必要に応じて移転を検討していると明らかにした8月28日、ソウル龍山区の国防部庁舎の前に設置された故・洪範図将軍の胸像の様子/聯合ニュース

 国際共産党が招集した1921年の極東民族大会に、韓国独立運動系の団体多数が52人に達する最大規模の代表団を派遣したのもそのためだった。1927年にソ連に移住した洪範図がソ連共産党に入党したのは、韓国独立運動の発展のために極めて自然で望ましいことだった。第2次世界大戦時も、ソ連と米国は日本と相対して戦った連合国だった。1946年に冷戦が始まるまで、ソ連と共産党は、米国がそうであったように、韓国独立運動の友軍であったことを理解しなければならない。
 ソ連に対する敵対意識は冷戦が激化した後に生じた。歴史的な流れを考慮しなければならない。後代の評価基準を自分勝手に遡及し、過去の歴史的事案を判定する基準として乱用することは、歴史に対する無理解を示す行為だ。物心のつかない子どもの非常識と違いはない。

◆反日感情を反共主義で防ぎたいのか
 国防部と陸軍士官学校は変則を企てている。陸軍士官学校は撤去予定だった5つの胸像のうち、洪範図将軍の胸像だけを学校外に持ちだすと発表した。金佐鎮将軍・池青天将軍・李範奭将軍と新興武官学校の設立者の李会栄氏の胸像はそのまま残すという話だ。当初は胸像5つをすべて撤去しようとしたが、批判の世論が激しいため、変則を企てているわけだ。独立運動を軽視しているという批判を薄め、事案を反共主義のイデオロギー問題に変化させ、局面の主導権を握ろうとする意図が隠れていると解釈される。
 いったいなぜ、こうしたことを行うのだろうか。尹錫悦政権は、何のために陸軍士官学校内からの独立活動家の胸像撤去問題を提起したのだろうか。視野をもう少し広げてみよう。胸像の撤去が問題化する前は、日本の核汚染水の排出と尹錫悦政権のほう助の態度に、国民的な公憤が醸成された。その直前には、世界スカウトジャンボリーの運営不備問題、忠清北道清州五松(チョンジュ・オソン)での地下車道浸水事故、ソウル~楊坪(ヤンピョン)高速道路の路線変更問題などが相次いで提起された。
 いずれもすべて、現政権の無能力と貪欲に関連した問題だった。そのため、政治工学的な解釈が提起される。胸像撤去問題を提起した理由は、核汚染水の放出によって触発された激しい反日感情を反共主義で防ごうとしたという解釈だ。新しい問題で古い問題を覆い隠す策略が隠れているという意味だ。
 視野を国際関係に移してみよう。洪範図胸像撤去問題は、韓米日同盟と内的関連性があることが推察できる。2023年8月18日、米国メリーランド州のキャンプデービッドで開かれた韓米日首脳会談は、韓国と日本が、安全保障の危機の際、相互に軍事的に支援しなければならない根拠を作りだした。洪範図胸像撤去問題は、まさにキャンプデービッドの「3カ国協議に対する公約」の趣旨と関連している。有事の際には、日本軍が再び朝鮮半島に出没するだろう。それに対する韓国人の抵抗心理を、事前に弱めておく必要があるのではないだろうか。独立活動家の洪範図の胸像を持ち去り、そこに親日反民族行為者のペク・ソンヨプの胸像を建てる理由が、まさにそこにあるだろう。2つの解釈は、ともにそれなりの理があると判断される。もしかしたら、2つとも正しいこともありうる。

◆洪範図の独立運動は終わらなかった
 尹錫悦大統領は8月29日、閣僚会議の席上で洪範図胸像撤去問題について発言した。「何が正しくて誤っているのか、一度考えてみよ」としたうえで、「誰かがしなければならないのであれば、私がする」と語ったと報じられた。国防部の措置は適切だとする意向を示したものと分析される。
 それだけなのか。国家報勲部が洪範図の独立有功者叙勲を剥奪する案を検討しているという報道が出てきた。近い将来、叙勲功績審査委員会を開き、「重複叙勲」などの問題が発見された場合、叙勲剥奪を含むあらゆる可能な措置を念頭に置いているという。
 今後、波風はさらに激しくなりそうだ。洪範図はたとえ地中で永眠していても、彼が一生献身した独立運動はまだ終わっていないようだ。洪範図将軍の独立運動は今も続いている。

◆参考文献 
 パン・ビョンニュル『1920年代前半の満州・ロシア地域抗日武装闘争』独立記念館、2009年 
 イム・ギョンソク『韓国社会主義の起源』歴史批評社、2003年 
 ユン・サンウォン『ロシア地域の韓人の抗日武装闘争研究(1918-1922)』高麗大学博士学位論文、2010年 
 イム・ギョンソク|成均館大史学科教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-09-05 22:20


「The Hankyoreh」 2023-09-04 08:05
■「洪範図排除」めぐり首相と国防部が異なる立場表明…乱脈ぶり露呈した韓国政府

【写真】ソウル龍山区の国防部前にある洪範図将軍の胸像/聯合ニュース

 韓国の陸軍士官学校における洪範図(ホン・ボムド)将軍胸像の移転推進で浮き彫りになった尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権の「洪範図排除」に、野党と学界などの反発が続いている。こうした中、「洪範図排除」を巡り首相と国防部が互いに異なる立場を表明する一方、同じ独立戦争の英雄である洪将軍の胸像なのに、陸軍士官学校からは撤去し、国防部庁舎には存置することにするなど、矛盾が露呈している。名目と論理に欠けた尹錫悦政権の無理な「歴史・理念戦争」を現場で遂行する過程で、乱脈ぶりが際立っている。
 韓国政府の一貫性のない動きは、まず朴槿恵(パク・クネ)政権時代に進水した海軍の1800トン級潜水艦「洪範図」の改名問題をめぐり露呈した。ハン・ドクス首相は先月31日、国会予算決算特別委員会全体会議で、野党「共に民主党」のキ・ドンミン議員が潜水艦「洪範図」の艦名変更について尋ねると、「我々の主敵と戦わなければならない軍艦を象徴する名前が(ソ連の)共産党員だった人のものなのは適切ではないと思う」とし、「修正を検討すべきだ」と述べた。しかし翌日の1日、国防部関係者は記者団に「首相が議員の質疑に答弁したものだが、その必要性について語ったと思う」とし、「海軍で艦名の変更は検討していないと聞いている」と答えた。歴史・理念の議論にさらに油を注ぐ「洪範図」の改名問題を巡り、政府内で調整されていない立場の衝突が公になり、混乱を招いている。
 世界的に、国が滅んだか独裁の統治者が勝手に変えた場合を除き、軍艦の名前が変更されることはほとんどない。韓国では1999年「裡里(イリ)」を「益山(イクサン)」に変えるなど地方自治体の名称変更に伴う艦名の変更があったケースのみ。
 陸軍士官学校の校庭内の忠武館(総合講義棟)前の独立英雄5体の胸像のうち、洪範図将軍の胸像は校外に移し、池青天(チ・チョンチョン)、李範奭(イ・ボムソク)、金佐鎮(キム・ジャジン)将軍と李会栄(イ・フェヨン)先生など残りの胸像は校庭内の他の場所に移すという決定についても、「小細工」という批判の声があがっている。当初、独立英雄5人の胸像を外部に移そうとしたが、反発が激しくなると、洪将軍だけをソ連共産党の経歴を問題視して撤去することにしたのだ。さらに国防部は、洪将軍の胸像を陸軍士官学校から撤去する一方、ソウル龍山区(ヨンサング)の国防部庁舎前の洪将軍の胸像はそのままにしておく方向に傾いているという。先月28日、「陸軍士官学校の洪範図将軍胸像に関する国防部の立場」で、洪将軍のソ連共産党活動経歴▽スヴォボードヌイ(自由市)惨事への関連疑惑▽鳳梧洞(ポンオドン)戦闘にパルチザンとして参加したという疑惑を挙げ、洪将軍の胸像が陸軍士官学校に不適切だと説明したのに、国防部庁舎前の胸像は存置するというのは矛盾と言わざるを得ない。
 独立軍歴史研究の権威者であるパン・ビョンリュル韓国外国語大学名誉教授(史学科)は3日、ハンギョレとの電話インタビューで「正常な議論過程も経ずに少数の人々が密室で決定したため、このような乱脈ぶりが露呈している」と指摘した。パン教授は「国軍が作られた時と比べいくつもの世代が過ぎ、国家構成員の価値観と基準も大きく変わった」とし、「なのに軍はこれを無視して1970年以前に戻そうとしている」と述べた。
 文在寅(ムン・ジェイン)前大統領も先月27日に続き、同日にもフェイスブックを通じて、「胸像の撤去は歴史を歪曲し国軍と陸軍士官学校の正統性とアイデンティティを自ら損ねる処置」だとし、大統領室に胸像撤去計画の撤回を求めた。文前大統領は「我々は(洪将軍の)その愛国心と献身の足元にも及ばない」とし、「陸軍士官学校レベルで議論されたことだとしても、ここまで波紋が広がったら、大統領室が乗り出して収拾を図るのが望ましいだろう」と指摘した。野党「共に民主党」のカン・ソヌ報道担当も同日のブリーフィングで、「時代遅れの理念戦争論にはまった尹錫悦大統領の言動が日増しに深刻化している。『反共マッカーシズム』ではなく、『親尹マッカーシズム』の絶頂」だと批判した。
シン・ヒョンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-09-04 02:44


「The Hankyoreh」 2023-08-30 03:17
■「歴史を忘れた陸軍士官学校に未来はない」=韓国
 独立運動家の子孫と市民、陸軍士官学校前で会見 
 「庚戌国恥に準ずる侮辱…洪範図将軍胸像の撤去を中止せよ」

【写真】国防部が陸軍士官学校の校内だけでなく、国防部庁舎前に設置された故洪範図将軍の胸像についても、必要に応じて移転を検討していると発表した28日、ソウル龍山区の国防部庁舎前に設置された故洪範図将軍の胸像/聯合ニュース

 韓国政府が陸軍士官学校内部と国防部庁舎前に設置された独立戦争の英雄、洪範図(ホン・ボムド)将軍(1868~1943)の胸像を撤去する方針を明らかにした中、独立運動団体が「庚戌国恥(韓国併合ニ関スル条約が結ばれた日)に準ずる侮辱的なこと」だとし、撤去方針の撤回を求めた。
 25の独立運動家記念事業会などで構成された抗日独立烈士団体連合は29日、ソウル蘆原区孔陵洞(コンルンドン)の陸士前で記者会見を開き、陸士に設置された洪将軍の胸像の撤去中止を要求した。
 彼らは「胸像を撤去するという国防部は民族共同体の歴史を否定し、軍固有の精神を守るという国民との約束を破ること」だとし、「国家と民族と歴史に対する反逆行為を行ってはならない」と主張した。
 日帝に国を奪われた庚戌国恥日でもある同日の記者会見には、大雨にもかかわらず義烈団の金翰(キム・ハン)先生の子孫である「共に民主党」のウ・ウォンシク議員など、独立運動家の子孫と市民100人余り(主催側推算)が集まった。

【写真】ソウル蘆原区の陸軍士官学校正門の入り口で29日午後、陸軍士官学校における独立運動家の胸像撤去を糾弾する記者会見が開かれている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社

 雲巌金星淑(キム・ソンスク)先生記念事業会のミン・ソンジン会長、無後光復軍記念事業会のチェ・スチャン会長、云山将軍記念事業会のチェ・ソンジュ理事は記者会見文を朗読し、胸像の撤去が「理念対立を助長する行為に過ぎない」と批判した。
 彼らは「2018年、洪将軍など独立運動家5人の胸像除幕式は軍部独裁と光州(クァンジュ)5・18民主抗争と関連した否定的で誤った歴史と決別し、国民の軍隊として国家を防衛し自由民主主義を守護し祖国の統一に寄与するという軍本来の精神を確認する時間だった」とし、「南北分断を悪用し理念対立を助長しようとする見え透いた術策で独立抗争先烈たちを侮辱する行為がこれ以上繰り返されないよう願う」と述べた。

【写真】ソウル蘆原区の陸軍士官学校正門の入り口で29日午後、陸軍士官学校独立運動家の胸像撤去を糾弾する記者会見が開かれている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社

 彼らは、今回の国防部の決定が光復節記念演説などで独立抗争を否定した尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の無責任な言動から始まったと主張した。出席者たちは「78周年光復節記念演説などで政府は独立抗争、民主化闘争、南北の平和と一致に向けた献身を否定し、ひいては反国家的行為と規定して非難した」とし、「国防部の憲法精神と理念を破壊する没知覚な行為は国政最高責任者の無責任な言動から始まったもの」だと指摘した。
 ウ・ウォンシク議員は「歴史学界で検証が終わった独立運動家に理念の物差しを突きつけて歪曲し、分裂を引き起こすマッカーシズム的な策動を必ず打ち破る」と述べた。

【写真】ソウル蘆原区の陸軍士官学校正門の入り口で29日午後、陸軍士官学校独立運動家の胸像撤去を糾弾する記者会見が開かれている=キム・ヘユン記者//ハンギョレ新聞社

 記者会見には撤去に反対の声をあげるために自発的に参加した市民もいた。郷友会を通じて記者会見のニュースを聞いて駆け付けたという主婦のCさん(62)は、「独立闘士の精神を見習うべき陸軍士官学校から胸像が撤去されるのは理解に苦しむ。暮らしは日増しに厳しくなっていくのに、なぜこのような消耗的なことをするのか分からない」とし、「ことあるごとに人のせいにし、国民の気持ちは眼中にない尹大統領の考えが反映されたものだと思う」と語った。
コ・ビョンチャン記者、カン・シンボム教育研修生(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-08-30 02:42


「The Hankyoreh」 2023-08-29 08:24
■尹政権、韓国独立の英雄・洪範図を消す…日本との戦闘についても「反共」攻撃
 国防部、陸軍士官学校からの胸像移転に対する批判に 
 「パルチザンとして戦闘参加の疑惑」

【写真】国防部は28日、陸軍士官学校の構内だけでなく国防部庁舎前に設置されている洪範図将軍の胸像についても必要に応じて移転を検討していると明らかにした。ソウル龍山区の国防部庁舎の前に設置された洪範図将軍の胸像の様子/聯合ニュース

 国防部は28日、「ソ連共産党への加入および活動履歴などの論議がある洪範図(ホン・ボムド)将軍の胸像が陸軍士官学校にあるのは適切ではない」という判断の根拠として、洪将軍のソ連共産党での活動を具体的に説明し、洪将軍が1920年に鳳梧洞・青山里(ポンオドン・チョンサンリ)戦闘にもパルチザンとして参加したという疑惑があると主張した。1920年6月、洪将軍が満州の鳳梧洞の谷間で独立闘争初の全面戦争を行い、武装独立運動史における不朽の勝利をおさめた歴史的業績についても、独立闘争でなく共産党活動の一環である可能性があるという「反共攻撃」を展開したのだ。
 国防部は同日夜に発表した「陸軍士官学校の洪範図将軍の胸像に関する国防部の立場」を通じて、「洪範図将軍の独立運動の業績は業績として評価するが、今後はソ連共産党の活動に同調した事実については分けて評価するのが適切だ」と主張した。「国防」に関連した場所では、「反共」を基準としてソ連共産党員だった洪将軍の胸像は容認しがたいというわけだ。
 国防部は「特に洪将軍のパルチザン証明書には活動期間は1919~1922年と記録され、1920年6月の鳳梧洞戦闘と1920年10月の青山里戦闘にもパルチザンとして参加したという疑惑もある」と主張した。
 国防部は、洪範図将軍が自由市惨変にも関係しているという疑惑も提起した。自由市惨変は、1921年6月にシベリアのスヴォボードヌイ(自由市)で武装解除を拒否した独立軍がソ連赤軍に攻撃され、400~600人ほどが死亡した事件だ。国防部は、洪将軍がソ連共産党による自由市惨変の際、独立軍500人を裁く裁判委員として活動し、自由市惨変の発生後はイルクーツクに移動してソ連赤軍第5軍団所属の「朝鮮旅団」第1大隊長に任命されるなどの歴史的事実があると主張した。
 また国防部はこの日、陸軍士官学校の構内だけでなく、ソウル龍山(ヨンサン)にある国防部庁舎前に設置された洪範図将軍の胸像についても、必要に応じて移転を検討すると明らかにした。陸軍士官学校も、金佐鎮(キム・ジャジン)将軍、池青天(チ・チョンチョン)将軍、李範奭(イ・ボムソク)将軍と新興武官学校の創立者である李会栄(イ・フェヨン)氏を合わせた5体の胸像のうち、洪将軍の胸像だけを学校外に移す案を検討していることが分かった。陸軍士官学校は当初、胸像5体をすべて天安(チョナン)の独立記念館に移そうとしたが、批判世論が激しいため、洪将軍の胸像だけを移す「変則」を試みているわけだ。国防部はこの日、海軍潜水艦「洪範図」の名称変更についても、「必要であれば検討が可能だと考えている」と述べた。
 国防部が「洪範図胸像の撤去」に踏み切ったのは、大統領室とのコンセンサスによるものとみられる。大統領室のイ・ジンボク政務首席はこの日、仁川(インチョン)国際空港公社の人材開発院で開かれた与党「国民の力」の議員研鑽(けんさん)会で、「(2021年8月に洪将軍の遺骨がカザフスタンから奉還された際)非常に盛大に執り行い、突然各地に胸像が設置され、陸軍士官学校にも胸像ができた。これがはたして正しいことなのかどうかは、国民の前で一度ふるいにかけるべきであり、問題があれば国民の意向に従うことが正しいのではないか」と述べた。

クォン・ヒョクチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-08-29 02:44
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「「大陸を横断したコリアン女性たちを記録」ウズベキスタンに向かった韓国の女性団体」

2023年08月06日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2023-08-03 10:15
■「大陸を横断したコリアン女性たちを記録」ウズベキスタンに向かった韓国の女性団体
 韓国の女性団体「チョガクポ」、ウズベキスタンを訪問 
 3~4世の高麗人女性をインタビュー

【写真】「大陸を横断するコリアン女性の物語」プロジェクトの参加者たち=チョガクポ提供//ハンギョレ新聞社

 社団法人「チョガクポ」(理事長キム・スギム)は、7月2~9日にウズベキスタンを訪れ「大陸を横断するコリアン女性たちの物語」プロジェクトを進めたと2日に明らかにした。
 ウズベキスタンの高麗人(朝鮮半島からロシアに移住し、ソ連時代に中央アジアに強制移住させられた人々)同胞女性たちとの出会いを通じて、コリアン女性たちの歴史をたどるとともに連帯を強化することを目的として企画されたプロジェクトで、同団体は高麗人3、4世の女性たちに会って祖父母の時代から家族史に刻まれた高麗人の生活史をインタビューし、映像と写真で記録した。また、高麗人、ウズベキスタン人、現地在住韓国人の女性たちが一堂に会し、自分の人生史を語り合うプログラムも行なった。さらに、強制移住させられた高麗人の生活基盤であり経済活動の中心地でもあった集団農場(コルホーズ)を訪ね、旧ソ時代の高麗人のコミュニティの暮らしを経てきた高齢の高麗人女性たちにも話を聞いた。

【写真】高麗人とウズベキスタン人および現地在住韓国人の女性たちが一堂に会し、対話している=チョガクポ提供//ハンギョレ新聞社

 チョガクポのキム・スギム理事長は、今回のプログラムで「1世から4世にわたる高麗人女性たちの人生史を聞き、苦しみと悲しみの中でも見出した希望、発展の話を聞いた」とし「大陸を横断した同胞たちの広く深い世界観、そして人間に対する開かれた心と態度を、分断によって硬直し見解の狭まった韓国社会に伝えたい」と語った。
カン・ソンマン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2023-08-03 02:35
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1975キロを漂流した国宝の石塔が112年ぶりに帰郷

2023年08月01日 | 朝鮮史
「東亞日報」  August. 01, 2023 08:30
■1975キロを漂流した国宝の石塔が112年ぶりに帰郷  
 元々あった江原道原州(カンウォンド・ウォンジュ)を離れ、ソウル明洞(ミョンドン)、日本の大阪、景福宮(キョンボククン)、大田(テジョン)を転々としていた国宝「原州法泉寺(ポプチョンサ)址智光(チグァン)国師塔」が、5年間の保存処理を終え、1日、故郷である江原道原州市の法泉寺址遺跡展示館に戻る。日本帝国の植民地だった1911年に日本人に売られた後、10回余りの解体と再組み立てを経て、直線距離だけで計算しても1975キロ程度を漂っていたこの遺物が、112年ぶりに帰郷するのだ。
 智光国師塔は、高麗時代の僧侶智光国師ヘリン(984~1070)の舎利と遺骨が奉安された僧塔だ。31日、文化財庁によると、ヘリンが入籍した11世紀末、原州市富論面(ブロンミョン)法泉寺址(史跡)に建てられたものと推定される。華やかな彫刻が施され、全時代を通じて最も個性的で華やかな僧塔として挙げられる。
 しかし、1911年に日本人に売られた後、ソウル明洞(ミョンドン)に運ばれ、翌年、大阪に搬出されるという痛ましい歴史をがあった。1915年、朝鮮総督府の命令で返還され、景福宮(キョンボクグン)の境内に位置したが、韓国戦争時に屋蓋石(石塔や石灯籠の上を覆う石)などの遺物の上段部が爆撃被害で破損した。
 国立文化財研究院・文化財保存科学センターは、2016年3月、智光国師塔の部材(石塔を構成する様々な石材)33点を解体後、大田(テジョン)センターに移し、2020年までに保存処理および復元作業を行った。国立文化財研究院のイ・テジョン研究士は、「なくなった部材は、塔が造成された当時と最も類似した石材を手にして新しく製作し、破損した部材を接着して、失っていた本来の姿を最大限取り戻そうとした」と説明した。
 国立文化財研究院は、部材のうち、追加点検が必要な屋蓋石と塔身石(石塔の体を成す石)の2点を除いた31点を法泉寺址遺跡展示館に移し、常設展示することにした。今後、最終復元位置が確定するまでは、同展示館で無料で公開される予定だ。
 文化財庁は、「解体された部材を本来の姿に積み上げる最終復元は、原州市と協議して決定する方針だ」と明らかにした。本来の場所は、富論面法泉寺址内の僧塔院だが、保存環境などを考慮して、法泉寺址遺跡展示館で復元する案も検討している。展示館は、元の場所とは約280メートル離れており、法泉寺址内にある。10日午後2時、法泉寺址遺跡展示館で塔の帰郷を記念する行事が開かれる。
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「ユネスコ登録推進中なのに…8日間水に浸かったままの韓国国宝」

2023年07月27日 | 朝鮮史
「中央日報日本語版」 2023.07.26 14:21
■ユネスコ登録推進中なのに…8日間水に浸かったままの韓国国宝
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産登録を推進中の韓国国宝第285号「盤亀台(パングデ)岩刻画」が、8日間水に浸かったままだ。梅雨のせいで盤亀台岩刻画が位置した大谷川(テゴクチョン)の水位が上昇したためだ。浸水状態が続けば岩刻画が毀損され、世界文化遺産登録の障害物になるかもしれないという。

◇8日間水に浸ったまま
 26日、蔚山市(ウルサンシ)と韓国水資源公社の水情報ポータルによると、盤亀台岩刻画は19日0時ごろから水に浸り始めた。大谷川の水位が53.15メートルを記録して岩刻画の下の部分から浸水が始まった。続いて20日0時(54.14メートル)から24日0時(54.05メートル)にかけては水位がさらに上昇して、より多くの部分が水に浸った。雨が徐々に弱まった25日(53.92メートル)、雨がやんだ26日午前9時(53.65メートル)現在も大谷川の水位は53メートル以上を記録している。
 盤亀台岩刻画は大谷川と接する絶壁岩盤に刻まれた絵だ。縦4メートル×横8メートルの大きさで、大谷川の水位が53メートルよりも高くなると水に浸ってしまう。普段の大谷川の水位は48メートルほどだ。今回の盤亀台岩刻画の浸水は昨年9月台風14号「NANMADOL(ナンマドル)」以降となる。蔚山市側は「盤亀台岩刻画をできるだけ早く水から守るために一日24万トン程度の排水作業を大谷川の下の配管を通じて行っている」と説明した。

◇盤亀台岩刻画、世界遺産登録を推進中
 文化財庁と蔚山市は盤亀台岩刻画の世界遺産登録を目指して手続きを推進している。今年9月にユネスコ世界遺産センターに登録申込書の草案を、来年1月には最終申込書を提出する計画だ。登録はユネスコの現地実態調査や評価などを経て2025年7月ごろに決まる。
 盤亀台岩刻画の浸水・毀損はこれが初めてではない。台風や梅雨の影響で年平均2カ月ほど水に浸っていて、徐々に絵が見えにくくなっている。蔚山市は盤亀台壁画の根本的な浸水・毀損を防ぐために2000年から23年間27回にわたり80億ウォン(約9億円)を投じて解決策を模索しているが、まだこれといったものを探すことができていない。

◇ダムで水位調節すれば飲料水不足に
 単純に岩刻画だけを保存したいのであれば、大谷川内にあるサヨンダムに水門を取り付けて水を排水しながら水位を調節すればよい。だがこのようにすれば蔚山地域の生活用水が足りなくなる。予想用水供給量は一日13万1000トン。計画量18万トンと比較すると4万9000トンが減ることになる。
 水門を通じて一時的に放流量が増えれば蔚山太和江(テファガン)下流の水位が約2センチ上昇するという分析もある。これにあわせて議論中だった蔚山地域の新しい飲料水源を探す問題も、大邱市(テグシ)など地方自治体別に意見が異なっていてこれといって進展がない状況だ。そのため岩刻画が水に浸るたびに、雨がやんで大谷川の水位が低くなるのを待つという「自然だのみ」の状況が繰り返されている。

◇「8月初めごろ水が引くだろう」
 蔚山市関係者は「来月初めに雨が完全にあがれば盤亀台岩刻画浸水問題が自然に解決されると予想する」とし「毎日2回現場に出て行ってモニタリングをしながら鋭意注視している」と話した。
 1971年に発見された盤亀台岩刻画にはクジラやトラ、イノシシ、シカなど多種多様な動物の絵300点余りが刻まれている。先史時代の遺物と認定されて2010ユネスコ暫定目録に登録された。
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「「風納土城の保存は地域住民を説得して共感を得るべき」 世界的文化財専門家が見解」

2023年07月23日 | 朝鮮史
「東亞日報」 July. 20, 2023 08:34
■「風納土城の保存は地域住民を説得して共感を得るべき」 世界的文化財専門家が見解
 「地域共同体が遺跡の保存価値を受け入れてこそ、一緒に守っていく文化遺産となります。その共感を引き出すのは、考古学者に与えられた責任です」
 ソウル松坡区(ソンパグ)にある風納土城(プンナプトソン)キョンダン地区(史跡)の一帯を、19日に視察した国際文化財保存修復研究センター(ICCROM)のウェバー・ンドロ事務局長が話した。
 風納土城は、風納洞一帯にある全長2.1キロ規模の楕円形の土城で、学界では百済初期の王城である慰礼(ウィレ)城である可能性があると見ている。しかし、保存と開発をめぐって対立が生じている。キョンダン地区では2000年、マンション再建築の組合員らが掘削機で発掘調査地の一部を毀損した。今年3月、松坡区は文化財庁の「風納土城の保存区域および管理区域の指定」の告示に対して、憲法裁判所に権限争議審判を請求した。文化財保存のための再開発・再建築の規制が、住民の財産権を侵害するという。
 文化財庁は同日、ンドロ事務局長とトルコ・アンカラ大学のピキリ・クラッコルー考古学教授を招待してアドバイスを受けた。ンドロ事務局長は、「発掘段階から地域共同体を参加させるアプローチが必要だ」と話した。クラッコルー教授は、「事前発掘後、景観を害さない範囲で開発を許可することは、遺物と地域開発の両方を持続可能にする」と述べた。
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「41年ぶりに明らかになった朴正煕と金日成の「敵対的共生」の風景」

2023年07月08日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2023-07-07 04:32
■41年ぶりに明らかになった朴正煕と金日成の「敵対的共生」の風景
 7・4南北共同声明会談の史料、一般公開に

【写真】1972年5月、軍事境界線を越えて秘密裏に訪朝したイ・フラク中央情報部長(左)が金日成内閣首相と握手を交わしている=統一部提供//ハンギョレ新聞社

 戦後初の南北当局会談の合意文書である1972年7・4南北共同声明の交渉と採択などに関する南北会談史料が6日、一般公開された。
 統一部は同日、「1971年11月から1979年2月までの政治分野の南北会談文書2冊(1678ページ)を国民に公開する」と発表した。7・4共同声明をめぐる南北対話は、当事者の回顧録と米国政府の外交文書公開でかなり明らかになったが、政府の公式な会談史料が公開されたのは今回が初めて。しかし、7・4南北共同声明関連協議の前後に行われた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領とパク・ソンチョル北朝鮮第2副首相、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)首相とイ・フラク中央情報部長との会談に関する対話録は今回も公開されなかった。この日公開された会談文書のリストと閲覧手続きは、南北会談本部のホームページで確認できる。

◆南北会談の原型
 会談資料には、南北首脳の指針に従った非公開の実務・高官級接触→非公開の相互訪問→公式会談の順で進められる南北当局会談の一つ目の「原型」が現れている。当時、南北高官級対話の糸口となったのは、1971年11月に南北赤十字予備会談代表として参加したチョン・ホンジン中央情報部協議調整局長とキム・ドクヒョン労働党中央委組織担当責任指導員の接触だった。北側のキム責任指導員は秘密接触で、「最も高いところ(最高指導者)が信頼する人々が秘密接触」(1971年11月20日)を行い、「(その場合は)労働党と民主共和党(当時の韓国の与党)の党幹部級にするのが良いと思う」(1971年12月10日)と提案した。これに対し、南側のチョン協議調整局長は「こちら(の高官級)はイ・フラク中央情報部長、そちらはキム・ヨンジュ労働党組織指導部長(にした方が良い)」(1972年3月7日5回目の接触)と北側の提案に応えた。
 二つ目の原型は「非政治的な」議題と「政治軍事的な」議題の並行協議方式だ。当初、南側は「(離散家族の再会など)交流協力」を起点にすることを目指したが、北側は「政治軍事」を優先すべきだと主張した。南北は結局、「非政治的な会議体」の赤十字会談と、政治と軍事を含む高官級総合会議体の「南北調節委員会」を同時に並行して稼動する方向を定めた。これは1990年代の高官級会談と2000年代の閣僚級会談で援用された方式だ。

【写真】1972年12月1日、朴正煕大統領が南北調節委員会第1回本会談に出席するためソウルを訪れたパク・ソンチョル北朝鮮内閣第2副首相(左)と握手を交わしている=統一部提供//ハンギョレ新聞社

◆首脳会談を急ぐ北側、それを避けたい南側
 北側のキム組織指導部長は1972年5月3日、南側のイ中央情報部長との平壌会談で、「(金日成)総秘同志と朴(正煕)大統領の交渉を早く進めよう」とし、「屋根を葺いてから内部美粧(インテリア)をしよう」と提案したが、イ部長は「環境づくりがより重要だ」とし、「基礎を固めてから家を建てよう」と主張した。結局、南北首脳会談は行われなかった。南北は金日成首相とイ・フラク中央情報部長の平壌(ピョンヤン)会談(1972年5月3日、11月3日)、朴正煕大統領とパク・ソンチョル第2副首相のソウル会談(1972年5月31日、12月1日)を通じた「間接的な首脳対話」を行うのに止まった。

◆対話するが、認めない
 会談史料を見ると、7・4南北共同声明の合意主体が公式国号と肩書の表記もなく「互いに上部の意向を承り、イ・フラク、キム・ヨンジュ」に決まった事情がうかがえる。当初、北側は「朴正煕大統領の委任によって」「金日成首相の委任によって」と書かれた合意草案を示したが、南側が「むしろ問題を難しくする恐れがある」とし、「上司の意思を承り」という文言を修正することを提案し、「上部の意思を承り」に最終確定した。「高官たちとの協議過程で強硬な反対にあい、(イ・フラク)部長が非常に難しい立場」という南側のチョン局長の伝言(1972年6月25日)は、権力内部に軋轢があったことを示唆する。

◆統一準備を前面に掲げた分断独裁の永久化
 7・4南北共同声明の発表直後、朴正煕大統領は「維新憲法」という名のもとで、金日成首相は「主席制への改憲」で、「分断独裁の永久化」に突き進んだ。会談史料は「敵対的共生」の一断面を示している。南側のチョン局長は1972年10月17日、「大統領の重大宣言」があると、発表前日に北側のキム責任指導員に知らせており、発表直後には「大統領特別宣言」の全文を渡した。キム責任指導員も労働党中央委第5期第5回全員会議(1972年10月23~26日)で、「(主席制)改憲などについて討議した」と、チョン局長に知らせた(1972年10月31日)。

イ・ジェフン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2023-07-06 20:45
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在日コリアンの歴史考えるシンポ 22日に東京の在日韓人歴史資料館で

2023年07月06日 | 朝鮮史
「聯合ニュース」 2023.07.05 17:54
■在日コリアンの歴史考えるシンポ 22日に東京の在日韓人歴史資料館で
【ソウル聯合ニュース】在日コリアンの歴史を研究し伝える在日韓人歴史資料館(東京都港区)は5日、同区の韓国中央会館8階の大ホールで22日に「在日の歴史を再考する―記憶と記録をみつめて」と題したシンポジウムを開催すると発表した。

【写真】在日韓人歴史資料館の館内(資料写真)=(聯合ニュース)

 シンポジウムでは「『在日』の言葉」「マイノリティ・レポート」など在日同胞のアイデンティティーを論じる著書を持つ大阪経済法科大アジア研究所の玄善允(ヒョン・ソニュン)客員教授が、「ひとりの在日二世が見てきた在日の世界」をテーマに講演を行う。
 続いて、立命館大コリア研究センターの塚崎昌之研究員が「写真に見る戦前期在阪朝鮮人の生活史」について発表した後、総合討論が行われる。
 在日韓人歴史資料館の李成市(イ・ソンシ)館長は「次世代の在日同胞の現地化が顕著な中、日本で少数民族として生きていく在日同胞の現在を見つめ、未来を予測するための場になる」と説明した。
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