ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町中津・河原探検(14) 加古川花火大会

2021-08-16 08:10:13 | 加古川町中津・河原探検 

   加古川花火大会

 明治時代、加古川はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まりました。

 明治43年は、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者をだしました。

 国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとしました。

 そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」としました。

 加古川は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられました。

 この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川です。

 利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)・斐伊川(島根)・緑川(熊本)そして加古川(兵庫)

 1911年(明治44)9月4日、官報に告示されました。

 加古川は、国の直轄事業として本格的改修工事が前進することになったのです。 

 総改修費は、3分の2を国が負担し、残りの3分の1は兵庫県の負担でした。

 1933年、当初の計画(10年)を 大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は難産の末に完成しました。

 竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行され、官民あわせて千人が参列しました。

 その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいとないました。

 この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼりました。

 そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出しました。

 この大事業を記念して、改修工事完成を記念して、現在の「加古川まつり」の前進の「川祭り」を行うようになったのです。

 その日盛大な花火大会が、中津・河原の河川敷で行われます。

 二年続きで、コロナのため中止となりました。寂しかったですね。(no5173

 *写真:神戸新聞より

 

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加古川町中津・河原探検(13) 明治29年の水害

2021-08-15 07:41:17 | 加古川町中津・河原探検 

   明治29年の水害

 明治29・30年、中津・河原辺りたりは大きな水害の被害を受けました。

 大雨の時、加古川の水位は高くなります。

 そんな時は、加古川の水の取り入れ口から、大量に流れ込むことになります。

 そのため、取り入れ口の水門は閉じられます。

 しかし、困ったことがおきます。

 曇り川(神野町)に、それをみましょう。

 曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。

 しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となり、こんな時は、加古川へ排水する水門は閉じられます。

 水の行き場がなくなります。

 曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、氷丘・加古川の町へと押し寄せ、水害をおこしました。

 最近の加古川の水害史のパターンは、この例がほとんどです。

 『加古川市史(三巻)』を引用します。

 ・・・・1896年(明治29)、1897年(明治30)の年、加古川流域では、水害により深刻な被害を被りった。

 明治29年には、8月から9月上旬にかけて前線性降雨や台風により水害が頻発しました。

 この時の状況について、例えば、9月10日付『神戸又新日報』は、次のように伝えています。

 *以下は、その記事の一部であるが書き変えています。詳しくは『加古川市史・三巻』をご覧ください。

 ・・・6日より、曇り川が氾濫し、加古郡西部加古川町・氷丘村・鳩里村等の各村一円は浸水し、氷丘村ごときは一村450戸のうち400戸が浸水し、茫々(ぼうぼう)たる湖の如し。

 人々は、寺院または高地に避難し、田面はことごとく没した・・・・(no5172

 

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加古川町中津・河原探検(12) 戦争で神戸肉の生産ストップ

2021-08-14 08:59:30 | 加古川町中津・河原探検 

   戦争で神戸肉の生産ストップ

 ・・・戦前から「神戸ビーフ」は有名でしたが、戦争のため生産は減量やストップの危機に面しました。

 加古川町は、神戸に代わる肉の生産地にとなりました。

 その一拠点が志方ともう一か所河原が加古川肉の生産拠点でした。

 場所は、現在のシルバーセンター(加古川市加古川町)のある周辺です。

     肉は、加古川で生産

 当時(戦後間もないころ)は、農業が中心で、農家は労働力の大切な一部として、たいてい牛を飼っていました。

 ですから、容易に牛肉の生産はできました。

 業者が農家から牛を買い、それを処理場に持って行き、製品にして神戸を中心に送り出しました。

 もちろん、食をあずから大切な仕事ですから、処理場には専属の獣医さんが常駐して、牛の健康状態、製品の品質、等級の分類など厳格に行われていました。

 当時の方に聞いた話では、処理場に連れてこられた牛は、自分の運命を察してか、処理場の入口に来ると「モー、モー」と声を出して鳴き、なかなか入ろうとしなかったそうです。

 業者の方たちが処理場の入口に慰霊塔を建立し年に一度供養祭を行っていました。(no5171

  *写真:戦後間もないころの加古川での放牧風景(前方の高い山は高御位山)

 

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加古川町中津・河原探検(11) 三木道(県道:加古川・高砂線)

2021-08-13 09:32:51 | 加古川町中津・河原探検 

        三木道(県道:加古川・高砂線)

 

 高砂から三木へ抜ける三木道(滝野~加古川町)・高砂道(高砂港~加古川町)は、昔から繋がっていましたが、明治22年4月高砂道は、やや東方に移転しました。

 現在の中津・河原を抜ける三木道(県道加古川・高砂線)も方向をやや東にとり、河原・中津を抜け国包村を通り三木・滝野に伸びました。

 しかし、町内を曲がった道部分が多く、大正13年9月14日町会で路線を直通とし、道幅を拡張し、工事費の3分の2を負担することを決め県に上申しました。

 この案件は認められ、大正14年、改修費の3万6千を負担して工事が行われました。

 しかしながら、なお道幅が狭く、曲がったところが多いため、大正15年道幅5間として高砂道・三木道の改良工事をしました。

 加古川駅は新しくなりました、そして駅北も大変貌をとげています。

 加古川駅辺りから北の交通量も増え、加古川・高砂線(旧高砂道・三木道)も大きく変わり、町も大変貌を遂げています。(no5170

*写真:拡張なった現在の三木道(加古川・高砂線:昨日12日撮影)

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加古川町中津・河原探検(10) 「加古川驛への石柱」

2021-08-12 10:23:56 | 加古川町中津・河原探検 

  「加古川驛への石柱」

   以前紹介した「加古川驛(人馬継立問屋場)」の石柱のことです。

 この石柱(写真)は「加古川驛」の文字を刻んでいます。

         西国街道播磨国

     南

        加古郡 加古川驛

 加古川駅ができたのは、明治21年(1888)ですから、標柱はこの加古川駅のものではありません。

 西国街道と言うのであるから、江戸時代のものです。

 江戸時代、加古川の駅(人馬継立問屋場)は、陣屋の東隣にありました。

 とすれば、この標柱は、そこから北のどこかにあったことになりますが、元あった場所は、はっきりと分かりません。

 以前「きっと、寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川町中津)あたりの旧道沿いにあったのではないかと思われます」と紹介しました。

 そこで、昨日(810日)、この人馬継立問屋場のあった場所から河原・中津を経て日岡神社へ歩いてみました。

 

 問屋場の場所は、現在の人形の店(陣屋)のすぐ東隣です。そのあたりから北へ伸びていた道は、現在ニッケ(ニッケパークタウン)の敷地で道は無くなっています。

 その北のJRから北へ延びる道を歩きました。4時ごろでした。太陽が、まだ高く暑い歴史探訪になりました。

 篠原町・河原・中津へ通じる日岡神社に至る旧街道です。

 幸い、道端は家・家・家で日陰になり助かりました。

 でも、旧街道を想像できる雰囲気は、まったく見当たりません。新しい現代風の住宅がびっしり立て込んでいます。

 30分ばかり歩くと、先日紹介した。十王石仏のある中津の墓地と灯籠・道標のある三叉路にでました。

 そして、西から、東から来た旅人は、この場所で「もう少しで加古川の町・・・」と「加古川の驛」の道標を眺めながら、一休みしたでしょうね。

 記録はありません。歩いてみて、そんな「怪しげな確信」をもちました。(no5169

 

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加古川町中津・河原探検(9) 河原村は室町時代にできた村か?

2021-08-11 09:24:26 | 加古川町中津・河原探検 

     河原村は室町時代にできた村か?

 河原村のことです。

 古くは川原村と書き(正保郷帳)、加古川左岸(東岸)に沿いの三角州中にあった集落(加古郡誌)です。

 そのため、田は米作にはて来ていません。

 裏作の麦作にたよった村のようでした。

 応永十六年(14099月付のある文書には「播磨国河原」として登場していますから、村ができたのは室町時代のことと思われます。

 その後、慶安二年(1649)に願成寺が創建されています。

 河原村の北にあるのは中津ですが、中津村は中州村が転化したといいます。これらの集落は、ともに米作には適さない集落であったようです。

 しかし、江戸時代になり、稲作も増え村は大きくなってきました。

 

 時代は、一挙に飛びますが、明治十五年(1882)発行の『播磨の国地種便覧』によれば、河原村の戸数・人口は次のようでした。

   河原村  戸数 53戸    人口 222名  (no5168

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加古川町中津・河原探検(8) 中津の常夜灯と道標

2021-08-10 08:47:34 | 加古川町中津・河原探検 

       中津の常夜灯と道標

 先日、日岡神社から南の鳥居へ歩きました。

 それも、お昼の3時ごろでした、汗だくだくの散歩になりました。

 鳥居まで歩き、そこを右に歩くと大きな道(主要地方道加古川・小野線)と交差します。

 その道をさらに超えると、道は続いていないようですが、よく見ると駐車場の向こうに続いています。

 辺りをキョロキョロして、低い柵を乗り越えて、どんどん歩くと、前号で紹介した中津(中条)の墓地に至ります。その少し手前の三差路に常夜灯と道標があります。

 その常夜灯と道標の紹介です。

 常夜灯の前に石碑があります。

 この道標は、もとはここにあったのではなく少し移動させられたそうですが、「右 大野宮道」と刻んでいます。

 日岡神社からここまで歩いてきた道は、当時の一番の生活道路でもあった日岡神社への参道です。

 

 そして、左にある道標には

     右 加古新田

             道

     左 国かね三木

とあり、道は加古川の土手沿い、西之山・西条・国包・宗佐を経て三木へとつづきました。

 目的地はもうすぐです。

 この道を急いだ人は、このあたりで腰を下ろし一息を衝いたことでしょうね。

 

 実をいうと、この場所は以前に何回も来たことのある場所です。でも、30年以上前のことです。

 久しぶりで撮影に来ました。

 まるで、初めて来た場所のように思えたんです。

 灯籠も道標も同じ場所にあるのですが、周囲のようすがまったく変わっているのです。

 近くの十王石仏墓地の墓地も民家にうずもれてました。(no5167) 

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加古川町中津・河原探検(7) 中津中条墓地の十王石仏

2021-08-09 10:56:59 | 加古川町中津・河原探検 

   

      中津中条墓地の十王石仏

 きのう(8月7日)中津の墓地に出かけました。

 墓地の入り口には、普通六地蔵があるのですが、ここの墓地には六地蔵ではなく十王(じゅうおう)石造があるので写真を撮りに出かけました。

 墓地の入口に説明があります。読んでおきましょう。

 

  江戸時代 享保5(1720)年  凝灰岩(竜山石)製

  右側の石板 高さ(地上部分)48cm 幅154cm 厚さ25cm

  左側の石板 高さ(地上部分)48cm 幅164cm 厚さ25cm

 

 墓地の入り口にある2枚の石板には冥途で死者を裁く十王像が彫られています。

 仏教や道教では死者の初七日から三回忌にかけて十王から裁きを受けることによって、来世の生まれ変わるところが決まると言われています。

  初七日 秦広王(不動明王)  二七日 初江王(釈迦如来)

  三七日 宋帝王(文殊菩薩)  四七日 五官王(普賢菩薩)

  五七日 閻魔王(地蔵菩薩)  六七日 変成王(弥勒菩薩)

  七七日 泰山王(薬師如来)  百か日 平等王(観音菩薩)

  一周忌 都市王(勢至菩薩)  三回忌 五道転輪王(阿弥陀如来)

                    昭和30年3月 加古川市教育委員会

 

 神仏習合の考え方で、神は仏が日本の衆生を救済するために仮に姿をかえて現れたものとする説です。

 例を五十七日の閻魔王にとると、閻魔王の本当姿は地蔵菩薩で、地蔵菩薩が仮に閻魔王の姿で現れたものであるとする説です。(no5166

*写真:中津中条墓地の十王石像

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加古川町中津・河原探検(6) 皇紀二千六百年(昭和15年)

2021-08-08 07:10:42 | 加古川町中津・河原探検 

 11日は「建国記念の日」です。

 この日、初代の天皇・神武天皇は奈良の橿原で天皇になる儀式をし、昭和15年(1940)は、その式典から数えて2600年目(皇紀2600年)にあたるといいます。

 (もちろんこれは神話の話で、2600年前は縄文時代(狩猟時代)で、天皇は存在しません。)

 氷丘小学校の『創立80周年記念誌・くすの木』に、当時のようすを伝える1枚の写真が掲載されています。
 この年は、日独伊三国同盟・大政翼賛会の結成等、日本は着実に戦争準備を整えました。
 皇紀2600年の式典も戦争に備えて、国民の意識を高め、団結を強める意味がありました。


       皇紀二千六百年(昭和15年)

 1940年12月10日、紀元二千六百年奉祝の記念式典が全国で実施されました。
 また、加古川小学校でなされた「紀元二千六百年奉祝式典に関する訓話」は、この日を 「一億一心の理想八紘一宇(はっこういちゅう)の大精神の実現に各自の本分に邁進せんことを、お誓いし上げる日」と位置づけています。
 そして、この日、加古川町でも、次のような奉祝行事が実施されることとなりました。
「・・・当日、 午前十一時から加古川駅前の広場で奉祝式典を行いまして、11時25分の万才奉唱の時刻には、小学校児童の皆さんも青年学校の生徒も在郷軍人も一般町民の人々も皆一斉に心から万歳を唱へることゝなっています。
 一世一代の一日歳式の後、全員のラヂオ体操を実施し、尚其の後で旗行列を行ふことになっています」(加古川小学校長訓話より)


 紀元二千六百年奉祝を大きな結節点として、人々の意識は、当人たちは必ずしも自覚していなかったとはいえ、大きな変容を遂げ、翌年の1941年、戦争に突入しました。
 写真は、氷丘小学校で行われた紀元二千六百年奉祝のようすです。(no5165

 *写真:『創立80周年記念誌・くすの木』からの転載

 

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加古川町中津・河原探検(5) 中津駅

2021-08-07 07:54:54 | 加古川町中津・河原探検 

         中津駅

 「播州鉄道」は、大正2年(1913)に加古川~西脇間で開業です。

 開業後、まもなく経営は困難になり、第一次世界大戦後の不況が、さらに追い討ちをかけ、大正12年(1923)、経営陣はかわり、名称も「播但鉄道」として、再スタートをきりました。

 この頃から利用者も増え、経営も順調にのび、地域の重要な足となりました。

 時代は太平洋戦争に突入し「播但鉄道」は国有化され、国鉄・加古川線となり、その後、民営化され現在にいたっています。

 「氷丘小学校60周年記念誌」に、播州鉄道の時代、氷丘小学校脇に中津駅があったことを取り上げています。



 「播鉄(播州鉄道)は、よく列車の故障がありました。当時、学校脇に中津駅というのがあって、学校の汐干狩の時だけ停車しました。この駅で降りるのは、氷丘小学校の先生二人だけだったんです」とA氏は話しておられます。



 当時の、のどかな風景が浮かぶようです。

 中津駅について、加古川駅に問い合わせところ、調べてくださった。駅があったことは確認できたのですが、それ以上のことは、分からないとのことでした。

 ご存じの方は、ご一報ください。(no5164

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加古川町中津・河原探検(4) 升田堤防(中津河原の対岸の堤防)建設はんた~い!

2021-08-06 09:18:38 | 加古川町中津・河原探検 

    升田堤防(中津河原の対岸の堤防)

             建設はんた~い!

 加古川の豊かな流れは、生活の糧であるとともに、時には洪水を引きおこし、住む人の家を壊し、田畑を流しさった。

 流域の人々にとっての生活は、まさに加古川との闘いの歴史でした。

 時は万治元年(1655)、姫路藩は、升田山から船頭(ふなもと・加古川橋西詰)にかけて、丈夫な堤防(升田堤)をつくり、水害を防ぎ現在の加古川本流の西側に広大な田畑を作ろうとしました。

 この升田堤が完成すれば、その対岸の大野・中津村等の洪水の可能性が大きくなります。

 そのため、大野・河原・中津の百姓達は、藩主・榊原忠次に嘆願書を出しました。



 「・・・私たちの村々は、昔から水害の際は西側と同じように被害を受けてきました。

 ところが、この度の工事で右岸(西岸)だけが強くなり、左岸(東岸)が弱いままですから、一方的に被害が私どもへかかってきます。

 この度の工事を小規模にして、今後少しずつ高くしてはいかがでしょうか・・・」と。



 しかし、この「升田堤建設反対」の要求は一蹴された。(no5163

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加古川町中津・河原探検(3)  梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠る

2021-08-05 10:15:07 | 加古川町中津・河原探検 

     梶原十衛門(冬庵)神吉城の援軍に

 冬庵について余話を付け加えてきます。

 (神吉)頼定は、兄・信烈の臨終の時に、次の約束をしました。

 「(神吉城の)次の領主は、一端は自分が継ぐが兄の遺児・信常が成人した時には、信常を城主とする」と。

 頼定は、なやみましたが、その次代の神吉城主・信常を三木へ送りました。信常は、この時まだ13歳でした。

 この入城には、反対の者も少なくありませんでした。

 頼定は、信常の守役として、三枝晴重ら12名を付けました。

 一方、信常の入城に応えて、三木城より神吉城への加勢がありました。

 この時、神吉城に入ったのは、梶原十右衛門冬庵ら41名の歴戦の武将でした。

            梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠る

 たぶんに伝承の域を出ませんが、梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきます。

 冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったといいます。
 冬庵の館は、前回でも紹介した加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われ、現在は権現神社が建っています。『別所記』は、冬庵の勇ましい活躍のようすを詳しく記しています。

 梶原冬庵の墓碑(写真)が、真宗寺(東神吉町)にあります。

 天保3年(1832)、真宗寺の境内に飲用水のために井戸を掘っていた時のことでした。

 地下3間半(約6.3メートル)の所に頭蓋骨・鎧の片袖・割竿・鉄丸等が出てきました。

 鎧の袖の銀の紋は矢羽根であったので、これは梶原冬庵の首であるとして、五輪塔をつくりました。これがいまある墓で、お骨を納めています。(no5162

 *写真:梶原冬庵の墓(真宗寺)
 *『神吉村の記録(うもれた)‐村誌を掘り起こす‐』(神吉町内会)参照

 

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加古川町中津・河原探検(2) 中津構居跡(中津権現社)

2021-08-04 09:17:29 | 加古川町中津・河原探検 

        中津構居跡(中津権現社)

 中津権現社に、説明板があるので読んでおきます。

 

 播磨鑑(宝暦二年)に、「梶原冬庵古城跡 大野郷在中津村 今農家ノ居屋敷ト成

 鎌倉権五郎景政ノ末葉 天正年中秀吉ノ為ニ神吉城ニ於テ討死ス」とあり、播州古城記には「中津城 中津村 鎌倉権五郎景政ノ末葉 梶原十右衛門の居城也

 天正中神吉式部貞範に従いて討死す」と説明しています。

    平成三年三月

        加古川市教育委員会

 

    援軍は来らず

 三木城の戦いで三木側についた加古川地方の諸城は、当然、瀬戸内海を圧して進んでくる頼もしい毛利の援軍の光景を描いていました。

 

 三木方にとっての最大の不運は、毛利方には余裕がなかったこと、そして、何よりも毛利家は天下に覇を求めなかったことにありました。

 最後まで、強烈な毛利からの援軍はありませんでした。

 神吉城の戦い(天正6年・1567)は、当地方では最大の戦いでした。しかし、この戦いでも三木城方からの支援はほとんどありませんでした。

 

       梶原冬庵

 梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきますが、多分に伝承の域を出ていません。

 三木方からはわずかに梶原冬庵(かじはらとうあん)等数名の援軍があっただけでした。 

 冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったといいます。
 冬庵の館は、加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われています。

 現在は、そこに中津権現社が建っています。(no5161

 *写真:中津権現社 

 

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加古川町中津・河原探検(1) 顔のない仏様

2021-08-02 22:03:08 | 加古川町中津・河原探検 

   顔のない仏様

 なんや、この仏さん(写真)顔ないわ。いたずらされて、かわいそうやな・・・」とある子どもは大きな声でいいました。

 私も「いたずらにしては度が過ぎる」と同じような気持ちになりました。

 中津の権現社(加古川市加古川町中津・加古川の水管橋のすぐ東)にあるこの石仏について『加古川市史(第七巻)』は、次のように説明しています。



 ・・・・面の中央に磨りこんだU字状の溝がついているほか、全体に損傷がひどい。・・・天文ころ(1540)の造立と推定して、ほとんど誤りがないであろう・・・



 ある時、地元のYさんが、次のように話してくださいました。

 「・・・そうやな。この仏さまは大日さんで、頭や歯などが痛い時、石でお顔を擦りますねん。

 そして、その白い粉を痛いところにこすりつけると、ふしぎになおります。

 ・・・なおったら、お礼に河原で拾ったてきた丸い石をお供えしたもんですわ・・・」

 なるほど、仏のそばに丸い石があります。

 こんなお話を聞いた日は、大切な歴史をまた一つ発見した気持ちになります。

 *この石石仏は、石棺仏です。(no5160

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加古川町大野探検(55) 大庄屋・荒木弥一右衛門

2021-08-02 07:29:56 | 加古川町大野探検

 「大野探検」をダラダラまとめていました。前号で終える予定でした。

 読み返してみるとなんと大野の歴史では抜かすことのできない「江戸時代の大庄屋・荒木弥一右衛門』がありませんでした。急遽つけ加えました。

 大野探検は「大庄屋・荒木弥一右衛門」で終わりとします。

   大庄屋・荒木弥一右衛門

 江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれていました。

 大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋です。

 つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいました。

 庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっていました。

 荒木弥一右衛門は、文化7年(1810)大庄屋を命じられ、明治4年の廃藩置県まで続きました。

 大野組は、他の「組」よりも大きな組でした。

 文政10年(1827)には、さらに岡組(稲美町)の20ヵ村も兼ね、およそ50ヵ村を治める、とてつもない、大きな大庄屋になりました。

 なお、荒木家には「荒木家文書」として、多くの貴重な文書(記録)が残されています(no5159)

 *図は「加古郡大庄屋の組み分け図」(『近世加古川の村絵図・庄屋の暮らし』より)・

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