ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

工楽松右衛門旧宅が県指定文化財に

2019-02-22 21:18:12 | 工楽松右衛門

 

    工楽松右衛門旧宅が県指定文化財に

             観光活性化の弾みに

 今日(2/22)の神戸新聞東播版に「工楽松右衛門旧宅が県指定文化財に」の記事が掲載されています。

 工楽松右衛門の資料として掲載させていただきます。

 記事の終わりに、蛇足を付けさせていただきました。

 

 兵庫県高砂市高砂町今津町の「工楽松右衛門旧宅」と、隣接の港湾遺構が21日、県指定文化財に選ばれた。江戸時代の舟運拠点の様子や高砂の景観を、今に伝えている貴重さが評価され、関係者は「観光拠点として盛り上がる中、さらに弾みが付く」と喜ぶ。

 史跡「高砂堀川湊及び工楽松右衛門旧宅」として指定された。旧宅は江戸時代後期に建てられ、かつての南堀川西詰めに面している。小屋梁を直接柱で受ける構造や、外壁に古い舟板を再利用した「舟板塀」などの特徴がある。

 堀川湊は舟運の拠点として発展。南堀川船着き場には、荷揚げのためのがん木や石敷き、護岸の石垣跡が残されており、昨年6月の旧宅の一般公開とともに、遺構の一部を見学できるようになった。

 県文化財保護審議会は、近世の港湾の実態を現在に示す重要な歴史的遺産だと評価。また、周辺に蔵や町割りが残り、近世高砂の景観を今に伝えている点でも貴重だとした。

 旧宅を巡っては、日本遺産への追加認定、好調な入館者数など、明るいニュースが続く。松右衛門を顕彰する「高砂くらく会」の生南匡浩事務局長(67)=同市高砂町=は、指定を受け「めちゃめちゃうれしい」と大喜び。「松右衛門は高砂の偉人であり、市民の誇り。旧宅で地域を盛り上げる機運が高まっている今、指定が観光やまちの活性化の弾みになりそう」と期待を寄せていた。・・・(広岡磨璃)

 *提案:「工楽松右衛門物語」を作っていただけませんか

 工楽松右衛門がだんだん知られるようになってきました。ただ一つだけ気になることがあるんです。

 「工楽さんは、どんな人」と問われると、「船に必要な帆を発明した人や・・・」という応えが返ってきますが、工楽さんはそれだけではないんですね。もっとスケールの大きな活動をした人のようです。

 あまり厳密でなくってもいいですから、分かっている範囲で「工楽松右衛門物語」という本(絵本もふくめて)を早急に作っていただけませんか。そして、学校でも教材として取り上げてほしいですね。そうすればもっと関心を持たれると思いますよ。(no4548)

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ぶらり散歩(14) 水を求めて(4)、草谷新村・旧税の11.23倍(明治11年)

2019-02-22 09:42:44 | ぶらり散歩

 印南野台地は、南と西に徐々に低くなっています。

 印南野台地は雌岡山の北の山田川から水を弾けたら、水は比較的たやすく流れてくれる自然の地形となっています。

    水が欲しい

 野寺村の魚住完治等は、神出村の西村茂左衛門、藤本増右衛門を招いて山田川からの測量のことを聞くことにしました。

 魚住完治は、幾度となく測量しました。

 完治は、その費用のほとんどを私財で負担しました。

    草谷新村、旧税の11.23倍 

 新祖額の調査が遅れて、発表が11年(1878)となったため、11年の末に納める額は、9・10年度の分が加算されました。

 旧税の実に6倍という常識を超える額となりました。

 明治11年、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里)の旧税に対する倍率を『稲美町史』からひろっておきます。(『稲美町史』426p)

 印南新村7.17倍、野谷新村7.32倍、草谷村2.7倍、野寺村6.80倍、草谷新村11.23倍、下草谷4.00倍でした。

 この数字は、なんとしたことでしょう。

 悪い時には悪いことが重なるのが常のようです。

 明治9・10年は、またもやこの地方に旱魃が襲いました。母里地区は田の植え付けは例年の40%に減らしました。畑は30~40%の植え付けとなりました。

 こんな年には、旧藩なら当然減税の上、救助米が支給されました。

 新政府の地租改正は、凶作により税の減収をなくすことを目的にしていましたから、凶作でも減税はありません。

 魚住完治の疎水計画は、動かなくなってしまってしまいました。

 完治は、村々に疎水の大切なことを説いてまわりましたが、百姓の答えは、決まったように、「魚住さんの話はよう分かります。せやけど、毎年の日照続きで、先立つものがありまへん・・」

 こんな状況を一変させたのは、ひにくにも「地租改正」でした。

 「このままでは、百姓は土地を手放し、村を出ていかなあかん」「なんとかせなあかん」

 せっぱつまった百姓の考えが徐々に変わってきました。

     初代加古郡長・北条正直の決意

 北条正直は、在職中(明治15年罷免)まさに義人でした。

 郡長(北条直正)の出身の林田藩では代々、水利開発に力を入れていまして、310年の間に大きな新田開発をたびたび行っています。

 いずれも、まず用水路をつくり、水を確保しています。

 お聞きしました山田川よりの引水は、政治をする者が率先して計画実践すべきことであります。

 「私はこのことを県令殿に申し上げ、少しでも早く着手されるようにお願いしましょう・・・」

 北条の話に、完治は目頭をおさえるのでした。(no4547)

 ◇きのう(2/21)の散歩(10.636歩)

 *写真:北条直正

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