ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

ぶらり散歩(19) 水を求めて(9)、取水口は、淡河川から

2019-02-27 08:57:21 | ぶらり散歩

 地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。

     取水口は、淡河川から

 疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。

 母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。

 双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。

 19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。

 新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。

     サイフォンって何?

 内務省に、より精密な調査を依頼しました。

 政府は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。

 調査の結果は、人々を困惑させるものでした。

 山田川線は、シブレ山が険しく岩がもろく、はじめに見積もった工事費ではとてもおぼつかない。

 それに、サイフォンのことに百姓は理解ができませんでした。

 地図をご覧ください。

 この路線は志染村御坂(しじみむらみさか)で、いったん低地(志染川)をこえなければならないのです。

 田辺技師は、ここを鋼鉄のサイフォンで水を通すというのです。

 人々は、「なんぼ世の中が変わったというたかて、いっぺん下ろした水が上がるやなんて、そんなええかげんな話聞いたことがないわ・・・」と不思議がるばかりでした。

 郡長は、サイフォンについて何度も何度も説明しました。

 幾多の試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。

 明治21年1月27日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。

     難工事のケシ山隋道

 たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。

 また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。

 御坂(みさか)では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。

 人々の疑いと心配の中を工事は予定通り進み2年間で見事に完成しました。

 御坂を越えた疎水は、御坂の少し南のケシ山へと流れ下ります。

 この部分の疎水の一部は、山を貫く隋道(682m)工事となりました。

 *隋道(ずいどう)は、トンネルのことです。

 ケシ山の隋道工事は、土地が軟弱で、湧水がおびただしく県の直営工事で、一日60mを進めるのがやっとの難工事でした。

 21年2月に取りかかり、貫通するまで3年4ヶ月を要しました。

 ケシ山を越えた水は、ついに紫合村練部屋(ゆうだむらねりべや)の配水所に水は流下りました。

 そして、配水所の噴水口から吹き上がり、5つの排水口からそれぞれのため池へ向かうのです。

 工事費は、トンネルなどの難工事などのために大幅に増えました。

 工事もさることながら地元負担金の徴収は難航しました。

 長年の日照と重税のため、疲れきった村人とから集めることは限界に達していました。(no4552)

 *地図:水は淡河川から御坂サイフォンで、そして練部屋(ねりべや)へ

 ◇きのう(2/26)の散歩(10.557歩)

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