地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。
取水口は、淡河川から
疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。
母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。
双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。
19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。
新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。
サイフォンって何?
内務省に、より精密な調査を依頼しました。
政府は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。
調査の結果は、人々を困惑させるものでした。
山田川線は、シブレ山が険しく岩がもろく、はじめに見積もった工事費ではとてもおぼつかない。
それに、サイフォンのことに百姓は理解ができませんでした。
地図をご覧ください。
この路線は志染村御坂(しじみむらみさか)で、いったん低地(志染川)をこえなければならないのです。
田辺技師は、ここを鋼鉄のサイフォンで水を通すというのです。
人々は、「なんぼ世の中が変わったというたかて、いっぺん下ろした水が上がるやなんて、そんなええかげんな話聞いたことがないわ・・・」と不思議がるばかりでした。
郡長は、サイフォンについて何度も何度も説明しました。
幾多の試練をのりこえて、ついに夢が実現する日が来ました。
明治21年1月27日、淡河川疎水工事の起工式が播磨葡萄園で行われました。
難工事のケシ山隋道
たやすく思われた淡河川の平地の工事は、岩は崩れやすく難工事となりました。
また、皮肉なことに工事は、しばしば雨にたたられました。
御坂(みさか)では、水管(サイフォン)の工事が始まりました。
人々の疑いと心配の中を工事は予定通り進み2年間で見事に完成しました。
御坂を越えた疎水は、御坂の少し南のケシ山へと流れ下ります。
この部分の疎水の一部は、山を貫く隋道(682m)工事となりました。
*隋道(ずいどう)は、トンネルのことです。
ケシ山の隋道工事は、土地が軟弱で、湧水がおびただしく県の直営工事で、一日60mを進めるのがやっとの難工事でした。
21年2月に取りかかり、貫通するまで3年4ヶ月を要しました。
ケシ山を越えた水は、ついに紫合村練部屋(ゆうだむらねりべや)の配水所に水は流下りました。
そして、配水所の噴水口から吹き上がり、5つの排水口からそれぞれのため池へ向かうのです。
工事費は、トンネルなどの難工事などのために大幅に増えました。
工事もさることながら地元負担金の徴収は難航しました。
長年の日照と重税のため、疲れきった村人とから集めることは限界に達していました。(no4552)
*地図:水は淡河川から御坂サイフォンで、そして練部屋(ねりべや)へ
◇きのう(2/26)の散歩(10.557歩)