きびしい租税(租額)
明治10年の春でした。地価を調査するための調査員が台地の村へやってきました。
新祖額では村が潰れてしまう!
そして、明治11年7月24日、新祖額が申し渡される日をむかえました。
印南新村の丸尾茂平次は、気がすすまぬまま、姫路妙光寺へ出かけました。
会場には各戸長(村長)の代表等数百人が集まっていました。
県の掛長は、はっきりした声で述べました。
「それでは各改正掛より新祖額をお渡しする。よく確かめて印を押されたい」
新祖額が戸長(村長)代表に渡されました。
茂平次は、体のふるえが止まりません。
印南の東部6ヵ村の代表は、その不当な祖額をなじりました。
祖額は、旧祖額(江戸時代の年貢率)と比べて蛸草新村は4.96倍、野谷新村は3.49倍、印南新村は3.44倍、野寺村は3.3倍、下草谷村は2.25倍でした。
比較的少ない草谷村でも1.76倍です。
掛長は、「きょうの六か村の祖額が間違いであったとしても、いずれ正される。
だから、今日は、ひとまず調印されたい・・・」というのが精一杯でした。
6ヵ村の戸長(村長)は、「県令」の強引なやり口をしっていました。
印南新村を除いてしぶしぶ調印しました。
丸尾茂平次だけは調印をことわりました。
県は、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里地区)に対し、とてつもない祖額を申し渡しました。
もともと、この地域は水が少なく、収穫が少ないため、他の地域よりも年貢が少なかったのです。
それが他の地域なみに祖額が決められたら一挙に税が高くなるのは当然のことです。
さらに、地租改正では、祖額は地価の3%(明治10年より2.5%)で金納になりました。
お金で納めたのですから、天候には関係がありません。収穫のないときでも容赦なく決まった税が課せられたのです。
百姓には、たくわえなんてありません。収穫の秋に、米は暴落します。
安くても、この時期に米を売らなければ借金は払えません。
茂平次、新祖額に調印す
印南新村の戸長(村長)の茂平次は「こんな祖額は、お受けできません」と、きっぱりと断わりました。
掛長はいらだったが、茂平次は動じなかった。
場所をかえて、茂平次への説得は続きました。
担当官は、茂平次の宿舎までおしかけました。
説得は深夜にまでおよび、茂平治の意識はもうろうとしてきました。
そして、とうとう調印を承諾してしまいました。
翌朝、茂平次は姫路の宿舎を出て一人村へ向かいました。
夏の日差しは、容赦なく茂平次に照りつけました。
昨夜から、何度も同じことを繰り返していました。
「印を押したことは間違だった」「仕方ないことだった」「・・・・」
村人は、茂平次を見つけ、冷たい水と手ぬぐいを差し出しました。
集まってきた村人は、茂平次を責められません。
昨夜からのいきさつを村人たちはよく知っていました。
茂平次は、村に新祖額を伝えました。
改正祖額が伝えられると、内容は広まっていたものの、村人は激怒しました。
「役人は人殺しや」と国をののしる者もいました。
怒りをどこへぶつけてよいのかわかりません。(no4545)
◇きのう(2/19)の散歩(10.756歩)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます