船を持て
多度津の夜の話である。
松右衛門旦那は、嘉兵衛に「持船船頭になれ」と話した。
「沖船頭(雇われ船頭)など、いくらやっても面白味にかぎりがある」という。
「嘉兵衛、いくつだ」「二十四でございます」「うらやましいのう」
わしなどは40から船持の身になったが、もっと若ければ船のことが身についたにちがいない。
が、資金が要る。
千石船一艘の建造費には千五百両という大金が必要であった。
二千両といえば、それだけの現金を持っているだけで富商といわれるほどの額である。
松右衛門の場合は、「松右衛門帆」という大発明をして、それを製造し大いに売ったからこそ、沖船頭から足をぬいて持船の身になることができた。
「わし(嘉兵衛)には、資金がありません」といったが、松右衛門旦那は無視し、「持船の身になればぜひ松前地へゆけ」といった。
「陸(おか)は、株、株、株がひしめいて、あとからきた者の割りこむすきまもない」ともいった。
兵庫でも、株制度は精密に出来てしまっている。
蝦夷地へ
ただ松前・蝦夷地の産物については、まだ株仲間が構成されていないものが多く、その意味で北海まで足をのばす北前船には、新入りの廻船業者にとって大きな自由がひらかれていた。
「男であれば、北前船をうごかすべきじゃ」と、松右衝門旦那はくりかえしいう。
その夜、嘉兵衛には、松右衛門の「蝦夷地に行け」とい言葉が、一点のしみのように残った。
紀州のヒノキを江戸へ運んでくれないか
「男なら北前船を動かすべきだ」と松右衛門が嘉兵衛をけしかけた。
「しかし、それには二千両という大金が要る。・・・二千両・・・
後日、嘉兵衛は、松右衛門によばれた。
「北風の旦那に紀州様からお話があって、紀州熊野の新宮にうかんでいる五百年物のヒノキ12本を江戸に運んでくれないかということじゃ」と、松右衝門旦那は一気にしゃべった。
かつて材木を筏に組んで帆や櫓を向け、船室もつくり屋根を苫で拭いて船舶そっくりにして、姫路藩の丸太を江戸へ運んだのは松右衛門である。
こんどは、紀州藩から北風家に依頼があったのも、松右衛門のかつての快挙を聞いてのことらしい。
が、松右衛門は廻船問屋の主人として多忙で、とても筏の航海をやっているひまがなく、その点は、北風家もよく知っている。
北風家の番頭が、松右衛門に、人選を依頼した。彼は、一も二もなく嘉兵衛を推薦したのである。
筏で江戸へ
嘉兵衛は、筏(いかだ)という冒険的な航海をすることに血が沸いてしまったことと、兵庫の数ある沖船頭(雇われ船頭)のなかで、自分が選ばれたということで、胴がふるえてきた。
「紀州様は、お急ぎらしい。春になれば一番ということになるだろう・・・」
北前船を持とうにも金がなく、さらには金を作るわずかな資本(もとで)もない身では、命をもとでにするしかない。
嘉兵衛は、好んで冒険を楽しむような性格を持たなかったが、ともかくこの場合、ありあわせの命を使うしかないと考えていた。