松右衛門帆
松右衛門を最初に有名にしたのは、「松右衛門帆」の発明である。
近世初期の帆はムシロ帆であり、17世紀後半に木綿の国産化により木綿帆が普及し船に利用された。
しかし、18世紀末までは厚い帆布を織ることができなかったので、強度を増すために、二・三枚重ねて太いサシ糸でさして、縫い合わせた剃帆(さしほ)であった。縫合に時間と労力が必要であり、それでも強度不足により破れやすかった。
帆の改良
「帆を改良しよう」と松右衛門が思いたったのは、中年をすぎてからである。
かれは北風家の別家で話しこんでいたときに不意にヒントを得たらしい。
幾度か試行錯誤をしたらしいが、「木綿布を畿枚も張りあわせるより、はじめから布を帆用に織ればよいではないか」と思い、綿布の織りをほぐしては織りの研究からはじめ、ついに太い糸を撚(よ)ることに成功した。
縦糸・横糸ともに直径一ミリ以上もあるほどの太い糸で、これをさらに撚り、新考案の織機(はた)にかけて織った。
・・・・できあがると、手ざわりのふわふわしたものであったが、帆としてつかうと保ちがよく、水切りもよく、性能はさし帆の及ぶところではなかった。
かれのこの「織帆」の発明は、天明二年(1782)とも三年ともいわれる.
・・・・
「松右衛門帆」とよばれたが、ふつう単に「松右衛門」とよばれた。
さし帆より1.5倍ほど値が高かったが、たちまち船の世界を席捲(せっけん)してしまった。
わずか7、8年のあいだに湊にうかぶ大船はことごとく松右衛門帆を用いていた。
その普及の速さはおどろくべきものであったといっていい。
(以上『菜の花の沖(二)』参照)
*写真:松右衛門帆で進む北前船