ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(20) 工楽松右衛門物語(5)、北風家

2014-10-24 07:59:21 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   北風の湯

  北風家について続けたい。

 北風の湯というのは、20人ほどが一時に入れるほどに豪勢のものであった。

 「船乗りは北風の湯へ行け。湯の中にどれほどの知恵が浮いているかわからぬぞ」と言われていた。

 老練な船乗りたちが話す体験談や見聞談は、後進にとってそのまま貴重な知恵になるし、同業にとってはときに重要な情報になった。

 洗場では10数人の船乗りが、たがいに垢(あか)をこすりあったり、背中を流し会ったりしながら情報を交換していた。湯あがりの後、時には酒もでた。(『菜の花の沖(二)・司馬遼太郎著』より)

   松右衛門も、北風の湯で学ぶ

 松右衛門は、15才で兵庫の湊の、御影屋で働くようになり、やがて船に乗った。

 詳細は分からないが、松右衛門は、20才を過ぎた頃、船頭になった。

 兵庫の湊で働いていたというものの、15~20才前の頃までは、北風の湯へは敷居が高く出入できなかったと想像される。

 20才前にはいっぱしの水主になり、「北風の湯」に出入りし、全国の情報をいっぱい仕入れた。

 北風家の祖先は、荒木村重の家臣

 北風家であるが、先祖は、南北朝時代(1329~40)に南朝方に仕えた摂津の豪族であったという。

 その後、織田信長に味方した荒木村重(あらきむらしげ)に仕えた。村重は有岡城(伊丹城)を居城としていた。

 しかし、信長に対する謀反で村重は敗北し、家来は散った。

 この時、北風家の先祖は武士を廃業して、海運業をもとにした問屋を兵庫で起こした。

   兵庫湊、天領となり一時衰弱

 以下の内容も『播磨灘物語(司馬遼太郎著)』を参考にしている。

 ・・・こんにち「阪神間」とよばれている地域は、江戸時代の中期、噴煙を噴きあげるような勢いで商業がさかんになった。

 特に、尼崎藩は、藩の産業を保護し、特に兵庫湊を繁盛させることに力を尽くした。

 しかし、幕府はこの結果を見て、明和六年(1769)にここを取り上げ、天領(幕府の直轄地)とした。

 が、幕府は兵庫湊の政策(ビジョン)を少しも持たなかった。繁盛しているところから運上金(税金)を取りたてると言うだけであった。

 そのため、あれほど栄えていた兵庫問屋は軒なみ倒れた。

 北風荘右衛門が34・5才のとき、彼はまず同業の問屋に、兵庫湊の復活を呼びかけた。

 北風家も大打撃を受けていたが、それを回復したのは北風家が船を蝦夷地へ仕立てて、その物産を兵庫に運んで売りさばいたからであった。

 莫大な利益があった。

 十年にして、ようやく兵庫の商権と賑わいを取りもどした。

 *写真:七宮神社(神戸市兵庫区七宮町二丁目)、七宮神社の近くに北風家・北風の湯があった。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする