ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(102):新野辺を歩く(二部)18 大庫源次郎(5)・京都へ

2014-04-15 07:41:17 | 大庫源次郎

  京都へ
 
 明冶452月。別れの朝がきた。源次郎は大きな鳥打帽をかぶり、母が縫い上げた着物三枚と手ぬぐい、下着などわずかの品を入れた柳行李を持ち、京都まで父の知人と馬車の出発を待った。
 
 とめ(母)は、目に涙をいっぱいためて、くどくどと源次郎に語りかけた。
 
 源次郎は、見知らぬ大都会で見習奉公する不安に身震いをした。
 
 「行ってくるで、おとう、おかぁん。みんな達者でなあ・・」「のう、源次郎よ。病気だけはするなよのう」
 
 母の声は涙にとぎれ、手をふる弟妹の姿も、土煙の道の彼方へ消えて行った。
 
 加古川駅から、はじめて汽車に乗った。
 
 故郷に別れを告げた寂しさより、源次郎は汽車に興味を持った。
 
 馬車なんか問題ならない。窓の外の田や畑、海浜・・・あっという間に通り過ぎる。源次郎は汽車のスピードに驚いていた。
 
 京都まで四時間かかった。冬の日は早い。もう、うっすらと東山は、たそがていた。
 
 「京都、京都オー」
 
 源次郎は、まず人の多いのにたまげた。
 
 ほんまに、こんな町で暮して行けるんやろうかと心細くなった。
 
 三条大橋を渡った人力車は、東山三条から折れ、狭い道を曲って、中川鉄工所と看板の上がった薄暗い板塀の前ヘピタリと止まった。
 
 鉄工所で見習奉公
 鉄工所の主人は、目付きは鋭いが、なかなかの人情家のようだった。
 
 先祖代々の鍛冶屋も、これからは機械を扱う西洋鍛冶屋でなくてはと、サッパリ改革し、いまでば小規模ながら、注文主である西陣の機屋筋から評判がよかった。
 
 当時の京都での機械類のお得意は、何といっても日本一の高級織物メーカーである西陣だった。
 
 友禅染めの染色機械や、織機の部品注文や修理がほとんどの仕事で、京都には機械を修理、製造する「仕上げ屋」が多かった。
 
さっそく弟子入りがきまった。
 
 ふいご吹きと使い走り
Photo
 源次郎は、頬を風船玉のようにふくらませ、顔をまっかにしながら、毎日フウフウふいごを吹いた。
 
 見習修業は、厳しいものだった。鉄工所へ入ったというのに、仕事らしい仕事は、何もさせてもらえなかった。
 
 朝暗いうちに起きると、まず工場内の掃除。油でよごれ、鉄片の散った工場の掃除は難しいものだった。
 
 それがすむと、ふいご吹き。
 
 上手に火を起さないと兄弟子たちから、いやというほど怒鳴られる。当時の職人修業は、一人前になるのに十年と言われた。
 
 一年余りは、ふいご吹きと使い走りだけで過ぎてしまった。
 
 丁稚車と呼ばれる荷車を曳いて、遠い所まで得意先をたずねたが、見当らない。
 
 思案に暮れて帰ってくると「もう一ペん行って捜してこい」と怒鳴られることも、一度や二度ではなかった。
 
 くたびれはてて、涙を流しながら車を曳いた。
 
 「おかぁん」と呼んで大声で泣いてしまいたいこともしばだった。
 
 この年(明治45年)の727日、京の町はむし暑かった。
 
 明冶天皇御不例の発表が宮内省から行われた。そして、三十日崩御。明治は終った。
 
 さらに九月十三日、大葬の夜、乃木将軍夫妻が壮烈な殉死をとげた。
 
*『創造の人・大庫源次郎』より<o:p></o:p>

 

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