京都へ
明冶45年2月。別れの朝がきた。源次郎は大きな鳥打帽をかぶり、母が縫い上げた着物三枚と手ぬぐい、下着などわずかの品を入れた柳行李を持ち、京都まで父の知人と馬車の出発を待った。
とめ(母)は、目に涙をいっぱいためて、くどくどと源次郎に語りかけた。
源次郎は、見知らぬ大都会で見習奉公する不安に身震いをした。
「行ってくるで、おとう、おかぁん。みんな達者でなあ・・」「のう、源次郎よ。病気だけはするなよのう」
母の声は涙にとぎれ、手をふる弟妹の姿も、土煙の道の彼方へ消えて行った。
加古川駅から、はじめて汽車に乗った。
故郷に別れを告げた寂しさより、源次郎は汽車に興味を持った。
馬車なんか問題ならない。窓の外の田や畑、海浜・・・あっという間に通り過ぎる。源次郎は汽車のスピードに驚いていた。
京都まで四時間かかった。冬の日は早い。もう、うっすらと東山は、たそがていた。
「京都、京都オー」
源次郎は、まず人の多いのにたまげた。
ほんまに、こんな町で暮して行けるんやろうかと心細くなった。
三条大橋を渡った人力車は、東山三条から折れ、狭い道を曲って、中川鉄工所と看板の上がった薄暗い板塀の前ヘピタリと止まった。
鉄工所で見習奉公
鉄工所の主人は、目付きは鋭いが、なかなかの人情家のようだった。
先祖代々の鍛冶屋も、これからは機械を扱う西洋鍛冶屋でなくてはと、サッパリ改革し、いまでば小規模ながら、注文主である西陣の機屋筋から評判がよかった。
当時の京都での機械類のお得意は、何といっても日本一の高級織物メーカーである西陣だった。
友禅染めの染色機械や、織機の部品注文や修理がほとんどの仕事で、京都には機械を修理、製造する「仕上げ屋」が多かった。
さっそく弟子入りがきまった。
ふいご吹きと使い走り
源次郎は、頬を風船玉のようにふくらませ、顔をまっかにしながら、毎日フウフウふいごを吹いた。
見習修業は、厳しいものだった。鉄工所へ入ったというのに、仕事らしい仕事は、何もさせてもらえなかった。
朝暗いうちに起きると、まず工場内の掃除。油でよごれ、鉄片の散った工場の掃除は難しいものだった。
それがすむと、ふいご吹き。
上手に火を起さないと兄弟子たちから、いやというほど怒鳴られる。当時の職人修業は、一人前になるのに十年と言われた。
一年余りは、ふいご吹きと使い走りだけで過ぎてしまった。
丁稚車と呼ばれる荷車を曳いて、遠い所まで得意先をたずねたが、見当らない。
思案に暮れて帰ってくると「もう一ペん行って捜してこい」と怒鳴られることも、一度や二度ではなかった。
くたびれはてて、涙を流しながら車を曳いた。
「おかぁん」と呼んで大声で泣いてしまいたいこともしばだった。
この年(明治45年)の7月27日、京の町はむし暑かった。
明冶天皇御不例の発表が宮内省から行われた。そして、三十日崩御。明治は終った。
さらに九月十三日、大葬の夜、乃木将軍夫妻が壮烈な殉死をとげた。
*『創造の人・大庫源次郎』より<o:p></o:p>
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