ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(109):新野辺を歩く(二部)25 大庫源次郎(12)・大庫鉄工所、新野辺で産声

2014-04-22 08:32:21 | 大庫源次郎

   バラック工場で産声
 
その年(昭和2年)の5月、別府町新野辺の地に大庫鉄工所が産声をあげた。
現在の「オークラ輸送機」の前身である。
Img
 独立当時の工場の姿は、一間に五間のバラック建の町工場であった。
 それは、田舎の街道筋で、おばあさんが一人細々と回転焼き屋をやっているような感じで、工場というより小屋のようなものあった。
 工場の設備は、「大阪で300円で買ってきた八尺ベルト掛け旋盤一台、70円のY型ボール盤一台、10円の一馬力モーター一台、そのほかグラインダー1台、ふいご1丁」と一応はなんでもこなせる機械が据え付けられた。
 この開業資金は、幸わい源次郎の遠縁にあたる神田勝次氏(故人)が、後の神戸銀行の専務をしていたので、融資を受けることができた。
 いままでは使われていた、こんとはそうはかない。
 「不始末すれは全部わが身にはね返ってくる。だれも責任はとってくんし、めんとうも見てくれない。借金も返さなくてはいけない。がんはらねばいかん・・・」
 源次郎は、真剣に取り組んだ。
 そして独立に際し銀行より借受け金は、その後九年間で返済した。
 なお、神田氏は以後資金面で、なにかと助力を仰いており創生期における恩人であった。
   借りたら返す、買うたら払う
 源次郎が修業時代を通じてもっとも大切なことだと肌で感じたことは「信用第一」と言うことであった。
 お得意との取引が成りたっているのもやは信用あってのことである。
 一軒のお得意先で信用を落とすことは、その一軒だけにとどまらない。いずれは伝え聞かれて全部のお得意先から信用をなくすることになる。
 「信用第一」、これをスローガンに大庫鉄工所はスターを切った。
 この信念は終生変らなかった。
 敗戦からの数年間、国民の生活内容は極めてみじめであった。
とくに食べ物に対しては、若い人たちには想像もできなほどである。
 とにかく、餓死をまぬがれているというだけの極限の時代であった。
 ところが、そんな社会にあって、ふしぎとどこからか物資が運び込まれる。
 旧日本軍の物資を横領して横流ししたり、日本のあちこちに残る物資を動かしたり、いわゆるヤミ取引が横行した。
 うまく立ち回れは面白いほどもうかる。
 「ヤミ屋三日すれはやめられん。堅気の会社で、こつこつ働くなど阿呆のするこっちゃ」といわれた。
 事実、小ざかしい連中は、ヤミ屋やヤミ金融でボロかせきをしていた。
 こういう人は源次郎の周囲にもいた。源次郎の前に現われては「どないや、一つこの話に乗らへんこお。のう。わけまえはこれでどなないや・・」
 そっと耳うちするその金額の大きさに源次郎は唖然とした。
 だが源次郎は、甘い話には乗らなかった。
 「信用第一や、ここで誘惑に乗って信用失ったら、今度それを取り戻すのに十倍かかる」
 事実、その当時、羽ぶりのよかったヤミ屋連中は、一時的には笑いがとまらぬほど稼いだが、世の中が落ちつくとともにあっけなく消えてしまった。
 *『創造の人・大庫源次郎』より
 *写真:創業当時の工場内風景・左端に立つのが源次郎(昭和3年頃)

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