新野辺村の百姓の嘆きの声が聞こえる
写真上の古文書は、元文二年(1737)の新野辺村の明細帳の一部です。
加古郡加古庄 高砂組 新野辺村
村之初相知レ不申候
一 本田高 九百二拾八石八斗弐 免 六ツ壱分
(以下略)
新野辺村は、元文二年当時、高砂の大庄屋の支配下の村でした。
そして、すでに新野辺村は、いつのころに始まったかわからなくなっています。
本田は、928石8斗の村で、税金は6割1分の村でした。
文書の「免」と言うのは、税率のことです。
新野辺村は潮風・砂地で、その上に水の少ない土地です。
それにしては、新野辺の税金が収穫量の6割1分とは、非常に高い税率です。
新田等の税率は除いていますが、当時の新野辺村の百姓の嘆きの声が聞こえてきそうです。
それでも、なんとかして、6割1分の税金を払っていたのでしょう。
定免法から検見法へ
寛延3年(1750)の新野辺村の明細帳には、新野辺村の年貢について、次のように書いています。
一 御検取ニ而御座候(ごけみとりにてござそうろう)
検見取(けみどり)は、「年貢は、その年の収穫高を見て判断する」と言うのです。
これに対して元文二年のように、収穫高の決められた割合で納税する方法を定免法(じょうめんほう)といます。
つまり、新野辺村の納税法は、定免法から検見法に変わっています。
先にみたように、元文二年と寛延三年は、わずか13年の間ですが、その間に天災が容赦なく百姓の上に襲いかかりました。
姫路藩としては、今まで通り6割1分の税率を維持したかったのでしょうが、もはや不可能になったようです。
新野辺村は、検見法が採用されています。
*古文書上:「元文二年(1737)の新野辺村明細帳」より
〃 下:「寛延3年(1750)の新野辺村明細帳」より