ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(111):新野辺を歩く(二部)27 大庫源次郎(14)・明るい陽ざし

2014-04-23 21:20:22 | 大庫源次郎

 暗い世相に明るい陽ざし
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 昭和5年ごろ仕事の量は徐々にふえ、事業にやや明るい陽ざしがさし込んできた。<o:p></o:p>

 しかし、世の中は、昭和4年の世界恐慌の直後とて、産業活動はだ砥迷から抜け切っていなかった。
 
 就職難時代だった。「大学は出たけれど」の言葉が流行語となった。
 
 このように失業と生活難が、労働争議を生み出す母体となったとしても不思議ではなかった。
 
 しかし、暗い世相と反比例して、源次郎の仕事は軌道に乗ってきた。
 
 今の高砂市荒井にあるキッコマン醤油関西工場建設にあたって、付近に業者のなかったことも幸いして鉄工の注文がきた。
 
 前述の神田氏の縁故もあって高砂銀行本店(現神戸銀行高砂支店)社屋新築の際、鉄骨工事を請負うことができた。
 
 後年神戸銀行となり、「この建物は、私がしましてんで・・・」と説明するのが源次郎の自慢でもあった。
 
 また、加古川支流に架かる永楽橋を木橋から鉄筋コンクリートに改修することになり、源次郎は、その鉄骨工事を請負った。
 
 続いて尼崎市にある朝日化学肥料という会社からも声がかかった。
 
 これは、この会社にある得意先から転職された先輩がいた関係で、引立ててもらった。
 
 もう、今夜の米を心配することもなくなった。
 
 電気会社や新聞販売店の集金人もこわくはない。
 
 そんな源次郎に突然の不幸が見舞った。
 
 連れ添ってわずか五年、苦労ばかりかけた「かく」が、この世を去った。源次郎は、神をうらんだ。
 
   救いの神、大量受注
 昭和8年、死んだ「かく」の妹「はぎ能」をめとった。
 
 昭和10年ごろには、政治、経済、軍事面での国際緊張がはげしくなるなかで鉄鋼、機械、化学工業は急速な回復と、拡張をとげてきた。
 
 大庫鉄工所の仕事量は急ピッチでふえてきた。
 
 工場設備も創業時とは比較にならないほど強化された。
 
 工場の拡張、機械の増設によって工員もそれにつれてふえ、30人ぐらいの所帯にふくれてきた。
 
 源次郎は、朝早くから夜遅くまで、現場で作業衣を真っ黒にして立ち働いていた。
 
 昭和11年ごろ、大阪、西淀川の佃にある上西製紙から、工場新設にともなう設備のいっさいを受注した。
 
 大庫鉄工所創立以来の大量受注であり、源次郎はこれまでの苦労がみんなふっ飛んでしまうほどうれしかった。
 
   創立十年を迎える
 工場らしい工場になった。昭和12年は大庫鉄工所創立十周年を迎えた。
 
 源次郎は、これを機会にこれまでの個人経営から脱皮して会社組織とし、社名も改めた。源次郎は39才。
 
 組織と社名の変更は、創立十周年記念式の日に発表された。
 
 「合資会社大庫機械製作所」源次郎が将来の発展を期し、自信をもってつけた社名であった。
 
 創立十周年記念式は、土地の有力者、得意先、業者仲間、それに全従業員が源次郎を囲んでこの日を祝った。
 
 次郎のホオに知らぬ間に涙がこみあげていた。
 
 *『創造の人・大庫源次郎』より
 
 *写真:はぎ能を迎えて家庭も落ち着きを取りもどした。(昭和9年撮影)
 
 ◇私用のため、しばらくブログを休みます。再開は来週430日(水)の予定

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さんぽ(110)新野辺を歩く(二部)26 大庫源次郎(13)、妻・かくの死亡

2014-04-23 07:59:24 | 大庫源次郎

 弱り目にたたり目
 とにかく工場も、設備も整った。ところが、かんじんの仕事がない。
 それもそのはず、創業の一ヵ月半前、世にいう金融恐慌が勃発したのであった。
 衆議院の予算総会の席上、片岡蔵相の軽卒な発言が口火となって、東京渡辺銀行などに取付け騒ぎが起り、休業にはいった。
 
 これを第一波として、第二波は台湾銀行と神戸の鈴木商店が破たんした。
 
 世の中は、不景気のどん底にあえいでいたのである。
 
 源次郎のところへ仕事が回ってこないのも当りまえだった。
 
 やがて初夏から、太陽のギラギラ照りつける真夏がやってきた。
 
 「そや、ここは田舎や。田舎におうた仕事をやったらええんや」
 
 こうして農業機械の改良修理や、脱穀機、ワラ打ち機を注文に応じて作りはじめた。
 
 そのうち、近所にある多木製肥所や、別府製紙所から「同じ仕事をよそへだすくらいなら大庫にやらしてやれ」ということで、ぼつぼつ仕事が舞い込んできた。
 
   台所は火の車
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 不景気風は、このように大庫鉄工所だけを圏外に置いてはくれなかった。
 
 そのころ(昭和三年)東神吉村から戸田龍士の長女「かく」を後添えに迎えた。新婚の思い出もないくらい働きに働いた。
 
 この年、典雄(前オークラ輸送機社長)が生まれた。
 
 仕事はあっても、金は会社にまわした。
 
 時には電気代、新間代を支払う金すらない日もあった。
 
 「よう払わんのやったら、あすから電気停めるで」、集金人は、無情であった。
 
 電気が停まれば、家の電灯はともかく、工場の機械が動かない。かくは隣、近所へ借金にはしらねばならなかった。
 
 数年後、こうした苦しい家計のやりくりの疲れが出たのかも知れない。
 
 昭和8530日、次女如子を生むと、腎孟炎(じんうえん)を病み亡くなった。
 
   自社製品は、失敗続き
 源次郎は、何か自社で開発した製品を出したいといろいろ考えた。
 
 田舎のことでもあり、農業に直接結びついたものを作ったらということでワラ打ち機械を作ることにした。
 
 食べていくだけがやっとの毎日では、まとまった金がある道理がない。
 
 家屋敷を担保に、銀行から大金の1500円を借り、これを元手にいよいよワラ打ち機百台をこしらえた。
 
 市販しているものを買ったら7080円するのが、自分が造れば30銭でできる。
 
 これは、儲かるぞと意気込んだ。が、一台も売れなかった。
 
 泣くに泣けない結果に終った。クズ屋に頼んで、少しでも高く引取ってもらった。
 
 つぎに殻物乾燥器を手がけた。これは時期遅れが原因で失敗。つぎは別府港に入港してくる貨物船や、漁船のエンジン修理の経験から、焼玉エンジンの製作を手がけたが、これも考えが甘かった。
 
 なすことがみんなこんな調子で、スタートからさんざんであった。1500円という金はアッという間に霧散して、もとに残ったのはわずか200円あまりになった。
 
*『創造の人・大蔵源次郎の生涯』より
 
*写真:源次郎と連れ添って5年、苦しいやりくりをした後添え「かく」(昭和3年)<o:p></o:p>

 

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