暗い世相に明るい陽ざし
昭和5年ごろ仕事の量は徐々にふえ、事業にやや明るい陽ざしがさし込んできた。<o:p></o:p>
しかし、世の中は、昭和4年の世界恐慌の直後とて、産業活動はだ砥迷から抜け切っていなかった。
就職難時代だった。「大学は出たけれど」の言葉が流行語となった。
このように失業と生活難が、労働争議を生み出す母体となったとしても不思議ではなかった。
しかし、暗い世相と反比例して、源次郎の仕事は軌道に乗ってきた。
今の高砂市荒井にあるキッコマン醤油関西工場建設にあたって、付近に業者のなかったことも幸いして鉄工の注文がきた。
前述の神田氏の縁故もあって高砂銀行本店(現神戸銀行高砂支店)社屋新築の際、鉄骨工事を請負うことができた。
後年神戸銀行となり、「この建物は、私がしましてんで・・・」と説明するのが源次郎の自慢でもあった。
また、加古川支流に架かる永楽橋を木橋から鉄筋コンクリートに改修することになり、源次郎は、その鉄骨工事を請負った。
続いて尼崎市にある朝日化学肥料という会社からも声がかかった。
これは、この会社にある得意先から転職された先輩がいた関係で、引立ててもらった。
もう、今夜の米を心配することもなくなった。
電気会社や新聞販売店の集金人もこわくはない。
そんな源次郎に突然の不幸が見舞った。
連れ添ってわずか五年、苦労ばかりかけた「かく」が、この世を去った。源次郎は、神をうらんだ。
救いの神、大量受注
昭和8年、死んだ「かく」の妹「はぎ能」をめとった。
昭和10年ごろには、政治、経済、軍事面での国際緊張がはげしくなるなかで鉄鋼、機械、化学工業は急速な回復と、拡張をとげてきた。
大庫鉄工所の仕事量は急ピッチでふえてきた。
工場設備も創業時とは比較にならないほど強化された。
工場の拡張、機械の増設によって工員もそれにつれてふえ、30人ぐらいの所帯にふくれてきた。
源次郎は、朝早くから夜遅くまで、現場で作業衣を真っ黒にして立ち働いていた。
昭和11年ごろ、大阪、西淀川の佃にある上西製紙から、工場新設にともなう設備のいっさいを受注した。
大庫鉄工所創立以来の大量受注であり、源次郎はこれまでの苦労がみんなふっ飛んでしまうほどうれしかった。
創立十年を迎える
工場らしい工場になった。昭和12年は大庫鉄工所創立十周年を迎えた。
源次郎は、これを機会にこれまでの個人経営から脱皮して会社組織とし、社名も改めた。源次郎は39才。
組織と社名の変更は、創立十周年記念式の日に発表された。
「合資会社大庫機械製作所」源次郎が将来の発展を期し、自信をもってつけた社名であった。
創立十周年記念式は、土地の有力者、得意先、業者仲間、それに全従業員が源次郎を囲んでこの日を祝った。
次郎のホオに知らぬ間に涙がこみあげていた。
*『創造の人・大庫源次郎』より
*写真:はぎ能を迎えて家庭も落ち着きを取りもどした。(昭和9年撮影)
◇私用のため、しばらくブログを休みます。再開は来週4月30日(水)の予定
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