嫁取りの夜の出来事
文化二年(1805)、成井村(現:志方町西志方)・喜右衛門の嫁取りの日の夜ことでした。
同村・友衛門の弟・小兵衛、喜左衛門の倅・平蔵、弥一郎の倅・甚助、十郎左衛門の弟・政四郎の四人の者が喜右衛門の弟・文吉に用があると、こともあろうに嫁取りの夜に押し寄せました。
そして、客に迷惑をかけました。
喜右衛門より、今夜は客人があり、今日のところはしばらく待ってくれと申したのですが、四人の者は聞き入れませんでした。
そこで、喜右衛門から庄屋の利右衛門へ届け出、組頭・五人組を立ち会わせて、庄屋から「今夜のところは引き取りなさい」と説得したのですが聞き入れません。
しかたなく、原村の庄屋に助けを求めたところ、ようやくその場を引き取りました。
四人と文吉は手鎖(てぐさり)
後日、喜右衛門は、上記の四人を相手取り取り調べの願い書をよこしました。
さっそく、四人の者を呼び出し、原村の庄屋立ち会いで四人を取り調べました。
その時、喜右衛門の兄弟・並びに四人の言い分を聞き、また五人組頭・平兵衛の意見もききました。
それを、お役所の塩沢甚内様へ差し出しました
塩沢様より五月に吟味するので、その間四名および文吉を他の場所で謹慎させるよう仰せつかりました。
しかしながら、喜左衛門の倅・平蔵は決められた場所に謹慎しておらず調べが引き延ばされました。
今度は、お代官様・山田義太夫様がお調べになることになりましたが、その時も平蔵はいませんでした。
さがし、家に連れて帰りました。
平蔵は余りにも不埒でした。
喜右衛門は手鎖(てぐさり・手錠の刑)、そして四人並びに文吉に手鎖の刑がありました。
役所で、いろいろ調べられ八月二十八日判決が下りました。
五人(四人と文吉)は、家から出ではならない謹慎(押込め)と決まりました。