以前「上荘町・平荘町探訪:里村の騒擾」でも紹介したように、江戸時代も後半になると、多くの村々がそうであったように、農民と庄屋の対立がおきました。
里村の場合は、次のようでした。
(農民)・・・「村方諸入用はなるだけ簡略にしてもらいたい」と庄屋に願ったが、全く聞いてくれない。
(庄屋)・・・村方の諸入用については年々増額しているが、随分倹約している。村では、7・8人が徒党を組んで、「庄屋が使い込んでいる、生活の困窮しているものに返せ」と偽りを触れ、村方をそそのかしている。
東飯坂村の一件も、そのような諍いが高じたものであったのでしょう。
藩にとって支配の緩みは大問題でした。厳しいお調べと処罰があったようです。
東飯坂村の騒擾
文化七年(1810)七月二十五日の事でした。
東飯坂村庄屋・三郎衛門の母が亡くなりました。(*東飯坂村は神吉組の村)
村の者は申し合わせて葬式にはひとりも参列しませんでした。
それに、村の内では水も汲ませませんでした。
村の者と庄屋との間に諍いがあったためです。
そのため、庄屋は畑村・東中村へ手伝いを頼みました。
両村から人足が大勢集まり、葬礼のための水は東中村に、飯炊きは畑村に依頼しました。
炊き出した飯を桶に入れて運んでいたところ、東飯坂の者が途中に待ち伏せをして邪魔をしました。
飯の上に下糞(しもごえ)をかけたりしました。
それでも葬式はなんとか終わりました。
厳しいお調べ
翌日、東中村・畑村より役所に捜査願いが提出されました。
東飯坂の者が神吉に呼ばれ、神吉での取り調べ書が代官所へ送られました。
代官所でも取り調べがあり、とりあえず若者四人が手鎖(てぐさり)、五人が村預け、閉門が四軒となりました。
八月九日、十日は三十人ばかりの呼び出しがありました。
この東飯坂村の一件で、十一日役所へ呼ばれた若者・丈兵衛・十兵衛がつり上げ責められ、ことごとく白状しました。
また、孫平・鹿之助も白状しました。
尋平・□之助(□、虫食いにて不明)・角兵衛・佐兵衛・勘兵衛もお調べがありました。
今日、また次兵衛・惣右衛門・太兵衛・喜右衛門・六兵衛・与兵衛六人が呼び出されています。
ほんとうに厳しい調べです。
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