ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方村を歩く(157):大庄屋日記⑩、村の事件簿(5)・東飯坂村の騒擾

2011-11-23 12:55:32 |  ・加古川市西志方

Puaru_074以前「上荘町・平荘町探訪:里村の騒擾」でも紹介したように、江戸時代も後半になると、多くの村々がそうであったように、農民と庄屋の対立がおきました。

里村の場合は、次のようでした。

 (農民)・・・「村方諸入用はなるだけ簡略にしてもらいたい」と庄屋に願ったが、全く聞いてくれない。

(庄屋)・・・村方の諸入用については年々増額しているが、随分倹約している。村では、7・8人が徒党を組んで、「庄屋が使い込んでいる、生活の困窮しているものに返せ」と偽りを触れ、村方をそそのかしている。

東飯坂村の一件も、そのような諍いが高じたものであったのでしょう。

藩にとって支配の緩みは大問題でした。厳しいお調べと処罰があったようです。

   東飯坂村の騒擾

文化七年(1810)七月二十五日の事でした。

東飯坂村庄屋・三郎衛門の母が亡くなりました。(*東飯坂村は神吉組の村)

村の者は申し合わせて葬式にはひとりも参列しませんでした。

それに、村の内では水も汲ませませんでした。

村の者と庄屋との間に諍いがあったためです。

そのため、庄屋は畑村・東中村へ手伝いを頼みました。

両村から人足が大勢集まり、葬礼のための水は東中村に、飯炊きは畑村に依頼しました。

炊き出した飯を桶に入れて運んでいたところ、東飯坂の者が途中に待ち伏せをして邪魔をしました。

飯の上に下糞(しもごえ)をかけたりしました。

それでも葬式はなんとか終わりました。

   厳しいお調べ 

翌日、東中村・畑村より役所に捜査願いが提出されました。

東飯坂の者が神吉に呼ばれ、神吉での取り調べ書が代官所へ送られました。

代官所でも取り調べがあり、とりあえず若者四人が手鎖(てぐさり)、五人が村預け、閉門が四軒となりました。

八月九日、十日は三十人ばかりの呼び出しがありました。

この東飯坂村の一件で、十一日役所へ呼ばれた若者・丈兵衛・十兵衛がつり上げ責められ、ことごとく白状しました。

また、孫平・鹿之助も白状しました。

尋平・□之助(□、虫食いにて不明)・角兵衛・佐兵衛・勘兵衛もお調べがありました。

今日、また次兵衛・惣右衛門・太兵衛・喜右衛門・六兵衛・与兵衛六人が呼び出されています。

ほんとうに厳しい調べです。

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