室町時代のお地蔵さん
23日の地蔵盆の午後2時ごろ、志方町横山の赤坂の地蔵堂を訪ねました。
地蔵堂は、晴れやかな子どもの集まる出番を待っておられました。
地蔵堂の説明板(加古川市教育委員会)を読んでみましょう。
<赤坂地蔵>
舟形光背をもつ赤坂地蔵は、全長60㌢、巾25㌢、立像の高さ29㌢、肩幅9㌢のやや痩身の素朴なお姿である。
世の移り変わりを一番知っておられるこの地蔵は、室町時代の初期の頃より坂の上の路傍に立たれ道行く旅人の安全と付近の人たちの、ささやかな願い事をかなえてくださったことだろう。
横山は、旧北条街道とともに栄え、塩物屋・薬屋・焼餅屋・いかけ屋・綿打屋などが軒を連ね、商売も繁昌していたが、新しく県道ができてからさびれ、今は屋号だけが残っている。
旧北条街道と赤坂地蔵
旧北条街道については、再度次号で再度、紹介するよていです。
赤坂地蔵の西に添った道は旧北条街道です。
二子池の方(北側から)から赤土の急な坂(旧北条街道)を登って来た人は、このお地蔵さんある場所で一息をつき旅の安全を祈ったことでしょう。
焼餅屋で腰を下ろして、お茶を飲みながらお話もはずんだことでしょう。
楽しいだけでなく、ここは情報の集まる場所でした。
三島由紀夫の祖父の家は、地蔵堂のすぐ近く
地蔵盆の準備が一段落したところでした。
おばさんは、私の無駄話につきあってくださいました。
「平岡定太郎さん(三島由紀夫のおじいさん)のお宅はどこでしたか」とお聞きすると、「そこですよ。そこそこ・・・」とお堂を出て、教えてくださいました。
赤坂地蔵堂のすぐ5㍍ばかり南で、旧北条街道沿いです。
今も、「平岡さん」の家です。どなたか関係の方がお住まいのようです。
地蔵堂完成(昭和51年)
少し横道へそれました。「赤坂地蔵」に話を戻します。
戦後周辺には町営住宅、雇用促進住宅そして団地が次々に建ち人口が急増しました。赤坂地蔵堂設立の話が起こり浄財が集まり、昭和51年4月に地蔵堂が完成しました。
現在は、18戸の会員で清掃・植木の手入れ等をされています。