ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(82):法華口の道標

2011-08-18 07:54:19 |  ・加古川市東志方

      西国三十三観音霊場めぐり

Sarah_and_054西国三十三観音霊場めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。

人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけました。

第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。

江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。

     法華口の道標

010姫路方面からの巡礼者は、野深池の近くで「左 ほっけ山」(写真上)の道標に出あいました。

ここから少し行くと法華口で「直 法華山道」(写真下)の大きな道標に出会います。

巡礼者は、この道標を見た時、法華山に着いたと安堵したことでしょう。

もうすぐ行くと一乗寺(二十六番札所)です。

この二㍍もある道標にはいろいろな情報が書き込まれています。

建立は文政四年(1821)で、願主・世話人は地元・畑村の薬屋十兵衛です。

昔から法華山は薬草の宝庫いわれていました。

「志方郷(第38号)」で磯野道子氏が、この界隈について書いておられるので、お借りします。

「法華口には昔から宿屋が六軒もあった。

書写山(姫路方面)から歩いてきて宿をとった人、法華山へ参ってとまった巡礼もあったという。

しかし、最後は剣坂屋・ふじ屋という二軒の宿屋が残っていたことを覚えている・・・」(志方郷・28より)

巡礼が歩いた道は広くなりました。やがて、コンクリートの道になり車の往来が多くなりました。

バス、自家用車での巡礼が増えました。やがて、このあたりからにぎわいが消えました。

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