西国三十三観音霊場めぐり
西国三十三観音霊場めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。
人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけました。
第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。
江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。
法華口の道標
姫路方面からの巡礼者は、野深池の近くで「左 ほっけ山」(写真上)の道標に出あいました。
ここから少し行くと法華口で「直 法華山道」(写真下)の大きな道標に出会います。
巡礼者は、この道標を見た時、法華山に着いたと安堵したことでしょう。
もうすぐ行くと一乗寺(二十六番札所)です。
この二㍍もある道標にはいろいろな情報が書き込まれています。
建立は文政四年(1821)で、願主・世話人は地元・畑村の薬屋十兵衛です。
昔から法華山は薬草の宝庫いわれていました。
「志方郷(第38号)」で磯野道子氏が、この界隈について書いておられるので、お借りします。
「法華口には昔から宿屋が六軒もあった。
書写山(姫路方面)から歩いてきて宿をとった人、法華山へ参ってとまった巡礼もあったという。
しかし、最後は剣坂屋・ふじ屋という二軒の宿屋が残っていたことを覚えている・・・」(志方郷・28より)
巡礼が歩いた道は広くなりました。やがて、コンクリートの道になり車の往来が多くなりました。
バス、自家用車での巡礼が増えました。やがて、このあたりからにぎわいが消えました。