ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(28):湯ノ山街道をゆく(5)・幸圓③

2011-06-27 08:04:44 |  ・加古川市志方全般

     幸圓・官兵衛ただ一人の妻

2cea9887戦国時代、一夫多妻が常識でした。

 妻子は勢力拡大の手段になったからです。

多くの妻に子どもをたくさん産ませ、その子どもたちを戦力にしたり、人質にしたり、また政略結婚に利用し、勢力の増強をはかりました。

 そんな中で、(黒田)官兵衛は幸圓以外に妻を持たず、二人は、たいそう仲の良い夫婦でした。

珍しいことです。

それは、第一に、官兵衛が茶の湯や連歌などに通じた文化人であったこと。

第二に、官兵衛がキリシタンであったこと。

第三番目に幸圓が、魅力的な人であったこと。

などが考えられます。

官兵衛は、22才の時に主君・小寺政職(まさもと)の媒酌で、幸圓を妻に迎えました。

この時、幸圓は15才でした。

幸圓の結婚は、父の櫛橋伊定(これさだ)が小寺政職や官兵衛と結ぶための政略でした。

伊定は、早くから官兵衛に目をつけていて、結婚の一年前に赤合子(あかごうす)の兜と胴丸具足(写真)を官兵衛に贈っています。

政略結婚ではあったのですが、だれからの異論もない祝福された結婚でした。

ただ、官兵衛と幸圓は「ノミの夫婦」で、官兵衛は小柄で風采の上がらない武将でした。

妻の幸圓は、「背が高くてがっちりした、大らかな女性」だったといわれています。

結婚した翌年に嫡男の(黒田)長政が生まれています。

お家大事の時代です。

妻の務めの第一は世継の男の子を産むことでした。

その意味でも、幸圓の結婚生活は順調に滑り出しました。

しかし、・・・・

写真:赤合子形兜・黒糸威胴丸具足・小具足付(福岡市博物館蔵)

*『稀代の軍師・黒田官兵衛(播磨学研究所編)』(神戸新聞出版センター)参照

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