ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(26):湯ノ山街道をゆく(3)・幸圓①

2011-06-25 16:38:07 |  ・加古川市志方全般

志方城主の娘・幸圓(こうえん)

4947df1f  作家・小石房子さんは「幸圓ほど幸せな戦国武将の妻はいなかったのではないか!」と、述べておられます。

 それは、なによりも幸圓(こうえん)が、官兵衛の妻であったことにありました。

 しばらく、黒田官兵衛門(写真)の妻「幸圓(こうえん)」について書いてみます。

父は、志方城藩主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)でした。

 幸圓については、地元でもあまり知られていないようです。

     

黒田官兵衛の妻

 彼女の実像が浮かんできません。そこで、司馬遼太郎は、小説『播磨灘物語』

 で「幸圓」の記述をお借りします。

 ・・・(名前は)お悠(おゆう)といった。

 彼女は、官兵衛より背が高く、鴨居(かもい)で頭を打ちそうな自分の背をつねに苦にしていた。

 ・・・官兵衛は婚礼のときに、はじめて彼女をみた。式は夜おこなわれた。

 その式の夜、薄暗い灯のかげで彼女をみたとき、その背の高さにおどろいてしまった。

 婚儀は、双方にむかいあっておこなわれる。官兵衛の敷物は、円座が三枚重ねてあった。それで辛うじてつりあいがとれた。・・・・

 床入りしても夜中であるためによく分からず、しみじみ顔を見たのは、お悠が、庭の柿木の下にいて、侍女に柿を取らせている姿を、たまたま縁側から見たときだった。

 (わが嫁は、あのように美しかったのか)

 陽が、お悠のうなじにあたっていたが、その白さは玄妙としか言いようのない印象だった。・・・・

 司馬氏は、幸圓をこんな風に描いています。

 これは司馬氏の幸圓像です。幸圓は俳句のつくる時の名まで本名ではありません。

司馬遼太郎氏は、名前を「お悠」としているが、司馬氏が小説のためにつくった名前で、これも本名ではありません。

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