ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(167):いなみ野フットパス(41)、凱旋池・万歳池・明治の圃場風景

2010-04-02 00:08:42 |  ・いなみ野フットパス

今、中一色周辺を歩き回っています。

中一色村は、『稲美町史』によれば、江戸時代初期(17世紀のはじめ)からの開拓地と考えられています。

「一色」という呼称から、それ以前にも、この辺りにはすでに小規模の村があったのかもしれません。

ともかく、この辺りは農業用水の確保には苦労した地域でした。

明治時代になって「淡河疎水」が完成した後も、疎水の末端であったために、用水の不足は解消されませんでした。

   二つのため池と水揚げ場

34d80c17 水不足を解消するために日露戦争後になって、ため池を築く計画ができました。

ため池により、それまでの山林や畑を水田に変えようとしました。

明治38年には万歳池、凱旋池のため池が完成しました。

「万歳池」・「凱旋池」の名称は日露戦争に勝利にちなんで付けられた名称だといわれています。

もっとも、万歳池は池の形が六角形で亀の甲羅に似ており、おめでたいので「万歳池」とつけられたという説もあります。

これらのため池を造った後も用水は十分ではありませんでした。

そのため、明治38年の12月には蒸気機関式のポンプを据えた水揚げ工事が始まりました。

曇川からの取りいれた水を、ポンプで上げ、高低差約6~7mある万歳池・凱旋池に送水する計画でした。

この工事は明治406月に完成し、ポンプで汲み上げた水は万歳池が7割、凱旋池3割という比率で分配されました。

揚水場については「稲美町探訪(109110)」でも紹介しましたので、合わせてご覧ください。

なお揚水場のあった場所は、地図(昭和428月調べ)に加筆しています。

先日、地図を片手に揚水場の跡を捜したのですが、みつかりませんでした。

近の人に確かめたのですが、どなたもご存知ありません。現在、その跡は全く残っていないそうです。

   明治時代の圃場整備

Inamimachi4_110 淡山疎水(淡河・山田川疎水)の完成と同時に、水路沿いの圃場整備事業も行われました。

凱旋池から万歳池にかけての疎水の北側の高台の農地(写真)は、現在の圃場整備事業による水田よりも小さいサイズです。

この辺りの水田は、明治時代の圃場整備事業の水田が残る貴重な水田風景となっています。

*「平成12年度:東播磨ふるさと歴史学習・ウォーキング資料」参照

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