ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川の戦争(26)・祖国へ(2)

2006-12-16 10:16:42 |  ・加古川の戦争

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(昨日の続き)

  当時のようすを、平井さん(写真)は、次のように話された。

  「若い人や元気な人は、みんな日本を指して出て行きました。でも、私は動けません。少したつと収容所のまわりにも弾がビュンビュン飛んできたのです。もう、恐ろしくていられませんでした。橋の下へもぐって、博文(息子)を体の下にしてふるえていました」

  この時助けてくれたのが中国人、劉顕華さんだった。貧しい農民で、開拓団の荷物を運ぶ仕事をしていた。

  残留婦人について語る人の中には「中国の生活が嫌なら逃げればよかったのに」と言う人がいる。そして、ある厚生省の担当官は「日中回復のときに帰れたのに、帰らなかったのはその気がなかったと認めざるを得なません」と言ったという。

  「以前に平井さんは、一時帰国の手続きをとって末の息子と日本へ向かうために家を出たことがあった。この時、残された子どもたちがあまりにも悲しむので、また引き返した」とも話された。

  60年を経て、懐かしい祖国へ帰国した。日本での生活がはじまった。生活を支える息子達は日本語が話せない。仕事がない。年金がないなど多くの問題を抱えた再スタートになった。生活はくるしかった。(残留孤児の70%以上が生活保護を受けている)

  12月1日、中国残留日本人孤児国家賠償兵庫訴訟において、神戸地裁は原告等に対する国の賠償責任を認める判決を言い渡し、国は残留孤児に対する責任と自立支援義務を怠ったことをはっきり認めた。

  しかし、厚生省は、この判決を不服として控訴した。

*写真は、平井文子さん(87才・加古川市平岡町土山)。10月20日平井さんの生涯が歌劇「嗚呼・・祖国よ」として神戸文化ホールで上演された。写真は、その時のパンフレットより。

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