ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町:平荘町探訪:蔭山新田村(現:西磐)と池

2009-05-07 09:10:26 |  ・加古川市上荘・平荘町

4756893d 右の史料は、寛保二年(1742)の「蔭山新村明細帳」の最初の部分である。村の成り立ちを説明している。

 前回説明したように、蔭山新田村(現:西磐)は、万治元年(1652)、現在の養老(上荘町養老)前あたりにあった雁南新田から6軒が移住し開拓した新田村である。

 6軒とすると、一軒当たり5人としても、およそ30人の小さな村の出発であった。

 寛保二年の明細帳には、次のような数字がある。

  家数 34軒

  人数 193人(男101人、女92人)

 江戸時代は、人口の増減が少ない時代であるが、蔭山新田村は、万治元年(1652)の新田開拓後、多数の人口の流入があった。

 ◇池から村を考える◇

 明細帳から蔭山新田の池をひろってみた。

   前池・上池・東池・廻り立池・さき池・岩倉池

 説明に「享保七年(1722)御願申上新池被仰付候」(享保七年、お願いして、許可をもらって新しい池を造った)とあり、さらに「いも池、横大路池を享保元年(1716)に築いた」と続ける。

 その外にも中山新村と共有の蔭山池についても記している。

 ここからは、想像で書いてみたい。

 寛保二年(1742)蔭山新田村の人口は、開拓当時より約6.5倍に増加している。

 開拓後、すぐ十分な生産があったわけではない。苦しい生活がつづいた。

 当然、入植前から水の確保については随分検討されたことだろうが、十分でなかった。

 蔭山新田村は、傾斜地にある。水の確保が難しい。

 明細帳によれば、享保年間に多くの池が造られている。

 おそらく、これらの池が造られたことにより、水は安定し、蔭山新田村の生産は安定したのではないか。

 享保以後のことである。人口も急増した。

 村人は、先人の努力を感謝し、宝暦八年(1758)「開拓記念碑」をつくった。

 想像である。

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