ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:蔭山新田(現:西磐・にしいわお)誕生

2009-05-02 09:03:25 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_259

 昔、加古川は、もっと東の方を流れていたようで、今の薬栗の辺りから升田(現西神吉町升田」にかけて大きな村があった。

 それが、鎌倉時代の嘉禄元年(1225)年の大洪水で流されてしまい荒地になっていた。

 この地は、その後も開墾しては流され、また開墾をするという歴史を繰り返した。

 『村翁夜話』に「・・・山角村前は往古の大川筋なり、今字に雁南と言う所ありて九十石の高あり・・・」とある。

 山角・養老(もと芝村)前あたりを雁南新田といったらしい。

 万治元年(1652)、この地を大洪水が襲った。村は流された。

 村人は困り果て、翌年6軒が移住を決めた。そして、蔭山(現:西磐)の地に移住し蔭山新田を開いた。

 その後、収穫も安定した村になったのであろう。

 100年後、村人は、蔭山新田(現:西磐)の歴史を後世に伝えるため、「開拓紀念碑」(写真)をつくった。

 文面は、次のようである。(一部元文を書き改める)

 「印南郡蔭山新村は、多田吉左衛門・高橋新兵衛・井上与右衛門・同市兵衛・同惣兵衛・同八兵衛の六人が開発した。

 姫路藩主・忠次様のご命を受け、新しい村をつくることができた。

 (蔭山新田は)万治元年に雁南新田(古くは中島新田)より移ってきた。

 今に至る百年、藩に感謝すると共に祖先の功績をあらわすため、この碑をつくる」

 この記念碑は、現在西磐の墓地の入り口にある。

 元文は、『印南郡史』に記録されているのでご覧願いたい。

*このブログもゴールデンウィークとしたい。再開は7日(木)の予定。

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