昔、加古川は、もっと東の方を流れていたようで、今の薬栗の辺りから升田(現西神吉町升田」にかけて大きな村があった。
それが、鎌倉時代の嘉禄元年(1225)年の大洪水で流されてしまい荒地になっていた。
この地は、その後も開墾しては流され、また開墾をするという歴史を繰り返した。
『村翁夜話』に「・・・山角村前は往古の大川筋なり、今字に雁南と言う所ありて九十石の高あり・・・」とある。
山角・養老(もと芝村)前あたりを雁南新田といったらしい。
万治元年(1652)、この地を大洪水が襲った。村は流された。
村人は困り果て、翌年6軒が移住を決めた。そして、蔭山(現:西磐)の地に移住し蔭山新田を開いた。
その後、収穫も安定した村になったのであろう。
100年後、村人は、蔭山新田(現:西磐)の歴史を後世に伝えるため、「開拓紀念碑」(写真)をつくった。
文面は、次のようである。(一部元文を書き改める)
「印南郡蔭山新村は、多田吉左衛門・高橋新兵衛・井上与右衛門・同市兵衛・同惣兵衛・同八兵衛の六人が開発した。
姫路藩主・忠次様のご命を受け、新しい村をつくることができた。
(蔭山新田は)万治元年に雁南新田(古くは中島新田)より移ってきた。
今に至る百年、藩に感謝すると共に祖先の功績をあらわすため、この碑をつくる」
この記念碑は、現在西磐の墓地の入り口にある。
元文は、『印南郡史』に記録されているのでご覧願いたい。
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