前回まで「加古川右岸水紀行」を10回掲載しましたが、これは上部用水(うえべようすい)を紹介したいための連載でした。それでは、本番の上部用水の紹介をしましょう。
その前に紹介しておきたい図書があります。
地元・神吉町砂部にお住いの喜多正人氏が書かれた『砂部あれこれ』です。地元での研究者ならではの記事がいっぱい詰まっています。
「加古川右岸水紀行」もこの図書の記述をお借りします。
上部用水(うえべようすい)①
加古川右岸(西側)の平野部の農業用水は、加古川から取水する土部井用水(うえべいようすい)です。400年以前に造られた水路で、現在も利用されています。
この上部井用水は、加古川の本流右岸(西側)の升田より下流の海岸部まで(六ケ井用水の地域を除く)、西端は天川左岸までの間の東神吉町・西神吉町・高砂市一帯の農家約1,400戸の水田・約600ヘクタール(昭和60年・1985)を潤す全長 13km、取水口からの高低差5mの灌慨用水です。
この用水は、もともと慶長年間(1596-1614)から上荘町井ノロ村にあった水路から神吉庄への用水でした。
元禄年間に下流の流の平荘町里村字上部(池尻橋のすぐ上流部・河口より9.6km)に変更し、平津庄(ひらつのしょう)水路と伊保庄(いほのしょう)水路とを合併した井堰が築かれ、ここから16カ村(現:加古川市の神占・米田・砂部・島・西井ノロ・平津・大国・岸・塩市・中西、そして現高砂市の神瓜・北池・南池・中筋・伊保崎・曽根)に水が引かれたことから名づけられました。
神吉庄・平津庄・伊保庄への用水については、次回に説明しましょう。(no3085)
*『砂部あれこれ』(喜多正人著)参照
*写真:旧上部井堰の全景(『上部土地改良区誌』より)、対岸の山は加古川市神野町の城山(じょやま)