goo blog サービス終了のお知らせ 

ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川右岸水紀行(11) 上部用水(1)・旧上部井堰

2016-01-17 08:32:46 |  ・加古川市東神吉町

  前回まで「加古川右岸水紀行」を10回掲載しましたが、これは上部用水(うえべようすい)を紹介したいための連載でした。それでは、本番の上部用水の紹介をしましょう。

 その前に紹介しておきたい図書があります。

 地元・神吉町砂部にお住いの喜多正人氏が書かれた『砂部あれこれ』です。地元での研究者ならではの記事がいっぱい詰まっています。

 「加古川右岸水紀行」もこの図書の記述をお借りします。

   上部用水(うえべようすい)①

 加古川右岸(西側)の平野部の農業用水は、加古川から取水する土部井用水(うえべいようすい)です。400年以前に造られた水路で、現在も利用されています。

 この上部井用水は、加古川の本流右岸(西側)の升田より下流の海岸部まで(六ケ井用水の地域を除く)、西端は天川左岸までの間の東神吉町・西神吉町・高砂市一帯の農家約1,400戸の水田・約600ヘクタール(昭和60年・1985)を潤す全長 13km、取水口からの高低差5mの灌慨用水です。

   この用水は、もともと慶長年間(1596-1614)から上荘町井ノロ村にあった水路から神吉庄への用水でした。

 元禄年間に下流の流の平荘町里村字上部(池尻橋のすぐ上流部・河口より9.6km)に変更し、平津庄(ひらつのしょう)水路と伊保庄(いほのしょう)水路とを合併した井堰が築かれ、ここから16カ村(現:加古川市の神占・米田・砂部・島・西井ノロ・平津・大国・岸・塩市・中西、そして現高砂市の神瓜・北池・南池・中筋・伊保崎・曽根)に水が引かれたことから名づけられました。

 神吉庄・平津庄・伊保庄への用水については、次回に説明しましょう。(no3085)

 *『砂部あれこれ』(喜多正人著)参照

 *写真:旧上部井堰の全景(『上部土地改良区誌』より)、対岸の山は加古川市神野町の城山(じょやま)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(10) 升田堤は完成したけれど!

2016-01-16 09:08:36 |  ・加古川市東神吉町

 

     升田堤は完成したけれど!

 上の「元禄播磨図絵解読図(部分)」を見ながら、以下の文章をお読みください。

 升田堤完成後の右岸(西岸)の加古川の流れをみておきます。

 升田堤の完成により、加古川西の流路は締め切られ、山陽道より上手(北)は一筋となり街道筋の船頭村(ふなもとむら)の南で加古川の東の流れから西の流れにつなぎました。

 その下流は、旧流路のままとしました。

 *船頭村は、慶安2年(1649)に加古川村(現、加古川町本町)から独立した村です。

 これで、洪水はなくなったのではなく、升田堤は、その後もしばしば切れ、洪水を引き起こしました。

 元禄16年(1730)の洪水では、平津・伊保の水門が抜け、田地は水につかり2軒8人が流され、正徳2年(1712)には堤が切れ、田畑は流され、いちめん石ばかりの河原になってしまいました。

 できるところは、元に戻しましたが安永9年(1780)当時も多くの場所で荒れたままとなっていたといいます。

 寛延2年(1749)には、神吉の水門が抜け、堤が72間にわたって切れ流れてしまいました。

 安永9年(1780)にも堤が破損し、姫路藩に普請を願い出ています。(no3084)

 *『加古川市史(第二巻)』参照

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(9) 升 田 堤

2016-01-15 10:22:46 |  ・加古川市東神吉町

   

           升 田 堤

   上の地図は、「正保播磨国絵図(解読図)」です。

  池尻から下流に二つの大きな流れがあります。

  二筋の加古川は、二ヶ所の渡船が必要で旅人は難渋しました。

  それに、西加古川沿い人々は洪水に苦しみました。

  姫路藩は、ここを美田に変え藩の収入をはかることを計画しました。

  藩主・榊原忠次は、升田で西加古川をせき止め、船頭(ふなもと)までの堤の強化を命じました。この工事に動員された役夫は、60万ともいわれています。

 万治二年(1659)八月、工事がほぼ完成した時でした。猛烈な暴風雨でした。

 一夜のうちに堤は壊れ、元の河原にもどってしまったのです。

 藩から、「この工事は重要である。人足が不足なら15~60才までの者をすべて動員せよ。異議を唱える者は追放せよ・・・」と、厳しい命令が出ました。

 その後、さすがの堤も短期間で完成しました。

 しかし、洪水はその後も続きました。(no3083)

 *地図:「正保播磨国絵図(解読図・部分)」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(8) 加古川水害史

2016-01-14 09:24:48 |  ・加古川市東神吉町

     加古川水害史   加古川は暴れ川

 加古川は、古来よりいくたびかの水害に悩まされてきました。

 記録に現れた主な水害だけでも、天平勝宝6年(754)にはじまり、以後洪水は平安時代(794~1192)に9回、鎌倉時代(1193~1333)に9回、南北時代に3回、室町時代に11回を数え、さらに江戸時代には98回に及んでいます。

 江戸時代に洪水が多いのは、正確に記録がされているためです。

 それ以前は、記録が正確でなく、実際にはもっと多くの洪水があったはずです。

 よく知られている洪水としては、長和5年(1016)、嘉禄元年(1225)、正嘉2年(1258)、延文3年(1358)、寛永19年(1642)、延宝2年(1674)、寛延(1749)、明和8年(1771)、天保10年(1839)、嘉永3年(1850)、嘉永年(1850)、慶応2年(1866)などの洪水をあげることができます。

 今、「加古川右岸水紀行」のテーマで水紀行をしていますが、もちろん上記の水害は、そして、これらの洪水は加古川右岸だけではありません。

 加古川の流れは、このような大洪水により、しばしば流れを変えました。

 まさに加古川は暴れ川でした。

 現在の流れがほぼ形成されたのは、鎌倉時代であったと推察されています。

 また、本格的な河川改修は姫路藩の存亡を賭けた升田築堤に始まるとされています。

 それでは、次回の「加古川右岸水紀行」では、升田築堤についてみていくことにしましょう。(no3082)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(7) 元は、加古川右岸(西岸)の村

2016-01-12 09:22:15 |  ・加古川市東神吉町

   元は、加古川右岸(西岸)の村

         ◇加古川町、西河原村、友沢村、稲屋村、木村◇

 加古川市の中学生が使っている社会科(歴史)の教科書の一部を読んでみます。

 ・・・・(奈良時代)地方は国・郡などにわけられ、国には都の貴族を国司として派遣し、郡には地方の豪族を郡司に任じて、人々を治めさせました。・・・

 加古川地方において、国とは「播磨の国」であり、郡は加古郡と印南郡(いんなみぐん)です。

 この時、郡の境は、加古川の流れを基準とし、加古川の東側を加古郡、西側を印南郡としました。

 私たちの地方は、川を挟んで、加古郡と印南郡とからなっており、「加印地方」と呼ばれ、一つの文化的、経済的地域を形成してきました。

  しかし、加古川は天下の暴れ川でした。

  洪水は、幾度となく川の流れをかえ、郡境と加古川の流れが、その都度一致しなくなってしまいました。

 地図は元禄播磨絵図です。

  川東の加古川村・木村村・友沢村・稲屋村は印南郡に属しています。後世、生活になにかと不都合が生じました。

 そのため、明治22年2月22日、印南郡に属していた加古川町、西河原村、友沢村、稲屋村、木村の一町四村が、地理的な関係から加古郡に編入しました。

 その、印南郡も昭和52年、印南郡に最後まで残っていた志方町が、加古川市と合併し、奈良時代に誕生したその郡名も消滅しました。

 なお、高砂市の中心部は、加古郡で川の流れに関係しますが不自然です。別の理由で郡堺は決まったようです。別の機会に考えてみましょう(no3080)

 *地図:「元禄播磨絵図(解読図・部分)」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(6) 加古川大氾濫(応永32年・1425)

2016-01-11 08:59:58 |  ・加古川市東神吉町

 きょうの加古川右岸の水紀行は、東神吉町の話ではありません。米田町の話です。

    加古川大氾濫(応永32年・1425)

 中世(鎌倉~室町時代)の地方史は、一般的にはっきりとしません。
 というのは、地域にほとんど史料が残っていないからです。
 そんな中で、米田にあった定願寺(じょうがんじ)の僧・鎮増(ちんぞう)が残した『鎮増私聞書』(ちんぞうしぶんしょ)は、室町時代を知る貴重な記録であり、それに加古川の大洪水のことが登場します。

 ・・・その年(応永32年・1425)の7月25日の夜半から雨がひどくなり、ついに加古川が氾濫しました。
 ・・・・
 加古川は、播州平野を流れる大河でございます。・・・・いったん川が暴れだすと手がつけられません。
 今回のような、大洪水は、近隣の人々が流されて亡くなるという大惨事に至ったのでございました。

 私(鎮増)も、いちおう避難しましたが、目の前を流れてゆく人々をみましても、どうすることができない、もどかしさがございました。
 人を救うのが僧侶のつとめであるはずですのに・・・
 しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか。
 ざっと見ただけで、千人以上の人が亡くなったのでしょう。
 上記の「しかしながら、この流死者を仏がお救いにならなかったのは、この者たちが悪行をつくって悪道におちるべき者だったからなのでしょうか」の鎮増の考えは、当時の考え方からぬけだしていません。(no3079)
 *(『室町お坊さん物語(田中貴子)』(講談社現代新書)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(5)  東神吉弥生遺跡  

2016-01-10 08:14:35 |  ・加古川市東神吉町

    (2) 東神吉弥生遺跡

  昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見され、昭和42年の発掘調査により、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることが確認されました、

 *場所は東神吉中学校の南のバイパスあたり

 遺跡は、標高5メートルの古代の自然堤防上に位置しています。

 砂部遺跡の近くで、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・両遺跡は、もともと一つの村であったと考えてよいであろう」と結論づけています。

 さらに、加古川市史の記述を引用します。

 ・・・・二つの遺跡を合わせたムラの範囲を正確に算出できないが、溝と付近の地形からみて、おおよそ東西300メートル、南北500メートル、広さにして1.5ヘクタールの大きさと推定される。

 遺跡のすぐ近くに広がる低地は、水田として利用されていたのであろう。

 これらをあわせると、耕地面積は少なくとも約400ヘクタールに達したと考えられる。(no3078)

  *『加古川市史(第一巻)』(加古川市教育委員会)参照

  *写真上:発掘中の東神吉遺跡、写真下:発掘された鍬(共に柴田治さん撮影)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(4) 砂部弥生遺跡

2016-01-09 07:54:56 |  ・加古川市東神吉町

    砂部・神吉弥生遺跡、米作が始まっていた

 日岡山の狭窄部から流れ出した川の流勢は、つねに南西方向すなわち加古川右岸(西岸)に強く、その低湿地は洪水の常習地帯でした。

 それに対し、左岸(東岸)は、つねに緩やかな水の流れで、より早い時期から陸地を形成しました。

 西岸、つまり神吉地区の低湿値の開発は、加古川左岸より遅れました。

 しかし、西岸の低湿地(神吉地区)は人が住めないということではありません。

 遅れたというものの自然堤防も大きく、ずいぶん古くから人が住んでいました。

 標高5メートル余りの微高地の、弥生遺跡である砂部(いさべ遺跡)や神吉遺跡は、そのことを証明しています。

 砂部弥生遺跡、神吉遺跡についてみておきます。

   (1)砂部弥生遺跡

 まず、砂部遺跡です。

 昭和49年県の建設局より、加古川平荘ダムの工業用水を、高砂市の工業地帯へ送る送水管の埋設工事が発表されました。

 遺跡の可能性があり、加古川市教育委員会が調査を実施しました。

 場所は、神吉中学校の少し東で、加古川西岸から約1.4キロ、標高約5メートルの古代加古川西岸の自然堤防上に位置しています。

 また、住居跡の周りからは、土器を焼いた穴が発見され、そこからイネやカヤが確認されました。

 砂部遺跡には幾筋もの溝が南北方向に通り、それより東は地形が一段と低くなっています。

 かつて加古川が、この辺りを流れていたと想像されます。(no3077)

 *『砂部遺跡』(加古川市教育委員会・1976)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(3) 右岸(西岸)の加古川は、大規模で暴れ川

2016-01-08 07:03:12 |  ・加古川市東神吉町

    岸(西岸)の加古川は、大規模で暴れ川

 左岸(東岸)の旧流路は、右岸より(川)幅が小さく、湾曲も右岸と比べると少なく、したがって、自然堤防の規模も小さくなっています。

 つまり、左岸側の低湿部の形成が比較的緩やかな流れのもとに形成されています。

 左岸(東岸)の中津から河原村(加古川町大野)付近までは、その低湿部は自然堤防上に形成され、その表土層は、きめの細かい細粒質の土砂からなっています。

 これは、この部分の堆積が水勢のきわめて緩やかな環境下で行われたことを示しています。

 *≪自然堤防≫

 河川は、上流から土砂を運搬してきて下流で堆積させます。流速が速いと粒子の大きなれきや砂も運搬されますが、流速が遅くなると粒子の大きなものから順に堆積していきます。

 平野部を流れる河川が大雨などで流量が増すと、普段より多くの土砂が下流に運搬されます。

 しかし、河川の水が河道からあふれだすと、そこで流速は急激に低下し河道の外側に砂などが堆積します。

 洪水を繰り返すと河道の外側に周囲よりわずかに高い砂地の土地ができます。これが自然堤防です。(HPより)

    左岸(東岸)の低湿部は右岸よりはやく発達

 左岸(東岸)の低湿部の旧流路周辺は、比較的に早く陸化し、利用されたようです。

 そして、流路跡も用水(のちに、五ヶ井用水と呼ばれる)として古くから利用されています。

 「用水路」が発達していたことは、水田が右岸(神吉地区)より早く発達したといえます。(no3076

 *挿絵:自然堤防(HPより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(2) 加古川の旧流路跡は語る

2016-01-07 08:47:14 |  ・加古川市東神吉町

        加古川右岸の地形

 加古川の分水嶺(分水界)は平地にあり、緩やかに流れ下ります。

 しかし、下流部の小野市あたりから日岡山と升田山あたりは、両岸が山地で、川床には流紋岩の基盤があらわれ狭窄部をつくっています。

 このあたりでは、緩やかな加古川の流れも勢いを増し、河口の平野部に流れ込みます。

 しかし、流れは左岸の印南野台地で阻まれ、流れは右岸(西岸)の方向へより強く流れるようになります。

 ということは、洪水の場合は、現在の東神吉町の方が、左岸(東岸)より大きな被害になります。

    加古川の旧流路跡は語る

 下記の「加古川下流部の地形分類図」の黒く塗りつぶしたカ所をご覧ください。

 かつての川の流路です。

 加古川左岸(東岸)と西岸(西岸)の流路に特徴があることにお気づきになると思います。

 右岸の旧流路は低地部を大きく蛇行しながら、南南西方向に流れ下り、現在の伊保港あたりから播磨灘へ排出されたことが分かります。

 すなわち、旧河川は升田から南西方向をとって右岸低地へ入り、東神吉町から南東に向き変え、船頭付近から再び南西に流路をとり中島(高砂市伊保町)の北へ抜ける流路と、その一部は、米田新から南南西に流れ、高砂市荒井の北を経て現在の伊保港へ排出される流路をとっています。

 また、西井ノ口、平津付近にも顕著な流路跡が見られます。

 昔から、東神吉町の人々は、水に恵まれていたのですが、はんめん洪水との闘いの歴史であったことが想像されます。(no3074

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川右岸水紀行(1) 加古川の流れ

2016-01-06 08:29:49 |  ・加古川市東神吉町

    加古川右岸の水紀行(1)

 いままで、「ひろかずのブログ」では、加古川左岸(東岸)の水紀行には、ずいぶんでかけました。

 とくに、「五ヶ井用水」も「新井用水」も歩きました。

 でも、加古川右岸(西岸)の水紀行できていません。

 少し、不公平です。

 このあたりで、加古川右岸の水を訪ねようと計画しました。しかし、調べながら書いていきます。

 題は、ちょっときどって「加古川右岸(東神吉町)の水紀行」とました。

 *一部東神吉町を超えて書くことになりますが、カテゴリーは「東神吉町」に入れておきます。

    加古川の流れ

 まず、加古川の流れからみておきます。

 加古川は、但馬・丹波・播磨に連なる中国山脈にその源 をもち、多くの支流の水を集め加古川市・高砂市に流れ、瀬戸内海にそそぐ川です。

 その延長は96kmですから、全国的に見た場合は決して長大な川とは言えません。

 が、兵庫県では最大の河川です。

 また、その流域面積は広く1.730平方キロと兵庫県の総面積の約20%強を占めています。

    下流と上流の異なる降水量

 降水量をみると、加古川の上流と下流域では大きな差が見られます。

 上流の気候は、降水量の多い日本海型で、下流域は降水量の少ない瀬戸内海型に属しています。

 上流部では年平均の降水量は1.900㎜、下流域で焼く1.400mmです。(no3073

 *図:加古川水系略図(『加古川の流れ‐建設省近畿地方建設局姫路事務所‐』より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)真宗寺(2) 梶原冬庵

2015-11-25 08:27:12 |  ・加古川市東神吉町

   梶原十衛門(冬庵)神吉城の援軍に

 (神吉)頼定は、兄・信烈の臨終の時に、次の約束をしました。

 「(神吉城の)次の領主は、一端は自分が継ぐが兄の遺児・信常が成人した時には、信常を城主とする」と。

 頼定は、なやみましたが、その次代の神吉城主・信常を三木へ送りました。信常は、この時まだ13歳でした。

 この入城には、反対の者も少なくありませんでした。

 頼定は、信常の守役として、三枝晴重ら12名を付けました。

 一方、信常の入城に応えて、三木城より神吉城への加勢がありました。

 この時、神吉城に入ったのは、梶原十右衛門冬庵ら41名の歴戦の武将でした。

   梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠る

 たぶんに伝承の域を出ませんが、梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきます。

 冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったといいます。
 冬庵の館は、加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われ、現在は権現神社が建っています。『別所記』は、冬庵の勇ましい活躍のようすを詳しく記しています。

 梶原冬庵の墓碑(写真)が、真宗寺にあります。

天保3年(1832)、真宗寺の境内に飲用水のために井戸を掘っていた時のことでした。

 地下3間半(約6.3メートル)の所に頭蓋骨・鎧の片袖・割竿・鉄丸等が出てきました。

 鎧の袖の銀の紋は矢羽根であったので、これは梶原冬庵の首であるとして、五輪塔をつくりました。これがいまある墓で、お骨を納めています。(no3027)

 *写真:梶原冬庵の墓(真宗寺)
 *『神吉村の記録(うもれた)‐村誌を掘り起こす‐』(神吉町内会)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)真宗寺(1) 神吉城跡の寺

2015-11-24 08:01:38 |  ・加古川市東神吉町

 常楽寺の西隣りに「真宗寺」があります。真宗寺も常楽寺と同じ時期に、旧神吉城跡に建立されました。

   縁起にみる真宗寺

 真宗寺の縁起(伝承)では、「伝教大師が唐(申国)から帰って来られ、高砂の洪に船をつけられた時、北の方の山上に白雲がたなびいているのを見られました。

 さっそくこの山に昇られて、この場所こそ仏法を広めるのによい場所であると、高御位山南の谷合に堂を建てられ、白雲山信受院と称され、天台宗をひろめられる道場とされた」とされています。

  天台宗から浄土真宗の寺へ

 天正年間(1573~1591)に、この寺は焼失してしまいました。

 時の住職・宗海法師が本尊を守り、魚橋村(現:高砂市阿弥陀町)隠れ住んだといいます。

 その後、本顧寺第12世・教如上人が播磨の国を巡教され、教えを伝えられました。

 その時に、住職は真宗(浄土真宗)に帰依され、魚橋村に正蓮寺(しょうれんじ)の末寺・真宗寺と改められました。

 天和年間(1615~1623年)に、神吉城の西の丸跡に現在の寺を建立され、以後明治4年本願寺の末寺となりました。

 この寺の鐘は、明治7年加古郡野添(現:播磨町野添)にある寺より買い受け、改築したものです。(no3026)

 *『神吉村の記録‐埋もれた村誌を掘り興す』(神吉町内会)参照

 *写真:改装中の真宗寺(11月22日撮影)

 

 ≪お知らせ≫

 常楽寺・真宗寺に続いて「わたの里通信誌」の連載を木曜日(11月26日)から始めます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)常楽寺(9)  頼定と共に戦死した一族の墓

2015-11-23 08:08:44 |  ・加古川市東神吉町

      頼定と共に戦死した一族の墓(写真)

 求生院観空還性居士 

    *神吉頼定の従弟  上野次郎定行  46歳    

 願往院印空達性居士

    *定行の長男    藤左衛頼之   25歳

 浄住院達空通性居士

             *定行の二男    与四郎定久   20歳

  戦 死 諸 臣 之 霊

   上野定行(頼定の従弟)

 (天正6年)7月15日、神吉城の戦いは最後の時を迎えていました。

 上野次郎(定行)の最後を、小説『信長の蛩(あしおと・神吉修身著)』から引用します。

 ・・・

 城主・頼定が目にしたのは視界一面に広がる松明の灯であった。

 火の帯は、何重にもなって「二の丸」を囲み、漁火のように揺らめいていた。

 その松明の動きで、敵(織田軍)は「二の丸」へ集中攻撃を加えていることが分かる。ものすごい減声が天守へ立ちのぼった。この時、すでに「中の丸」と「ニの丸」は、今や橋桁一本で結ばれている状況にあった。

 「二の丸」の守将定行は「二の丸」が焼け落ちる前、引き橋を渡り生き残った将士とともに「中の丸」に引き上げた。

 定行は、血と泥にまみれた乱髪を細かに震わせ、「……無念で.こざる……」

 ただ一言発した。荒い息づかいの定行(上野次郎)は、必死に悔しさを押さえてはいるが、その両肩が激しく上下していた。

 頼定は、叔父の手を取り、ねぎらいの言葉をかけた。・・・・

 神吉勢は、開戦当時の十分の一と激減していた。

 (次の日、7月16日)頼定は、自刃した。(no3025)

 *写真:頼定と共に戦死した一族の墓

 ≪お知らせ≫

 ここで、次の話題「わたの里通信誌」の予定でしたが、常楽寺と同じく神吉城跡(常楽寺の西隣り)にある真宗寺について書いておきます。従って「わたの里通信誌」は、木曜日から始めます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(東神吉町)常楽寺(8) 駕籠は、江戸への大旅行をしたのか?

2015-11-22 11:11:20 |  ・加古川市東神吉町

 本堂の外陣の西側の天井に駕籠(写真)が吊り下げられています。

 この駕籠については、詳しいことは分からないため若干推測で紹介をします。

    この駕籠は江戸への大旅行をしたのか?

 先に紹介したように、常楽寺は朱印状で18石4斗ぶんの寄付を受けた寺です。

 つまり、朱印領を持つ寺でした。

 しかし、将軍の交代するたびに朱印状を新規に交付してもらうために住職は江戸まで駕籠で出かけました。

おそらく、この駕籠がつかわれたのでしょう。この駕籠は、江戸まで何回も往復したと想像されます。

     往復2か月の大旅行

 江戸から大坂の距離は約600キロ。

 一日30キロ(約5万歩)毎日進んでも20日が必要となります。1日30キロは、きつすぎます。

ですから、加古川(神吉)から江戸へは、順調に行っても約1ヵ月が必要したと考えられます。

 とんぼ返りそれしても、往復2ヵ月の大旅行でした。

 家光からの朱印状の場合は、日付は、「8月17日」となっています。

 旧暦とはいえ、夏の暑い太陽の下を2ヵ月の旅とは、難行苦行の旅だったに違いありません。

 それに、雨の日もあったでしょう。風のきつい日もあったでしょう。

 この駕籠は、そんな大旅行をしたようです。

 以上は、記録が無いために、想像で書いています。

 それにしても、この駕籠の内部は綺麗な絵で飾られた、すばらしい駕籠です。(no3024)

 *写真:本堂の駕籠

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする