ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川右岸水紀行(2) 加古川の旧流路跡は語る

2016-01-07 08:47:14 |  ・加古川市東神吉町

        加古川右岸の地形

 加古川の分水嶺(分水界)は平地にあり、緩やかに流れ下ります。

 しかし、下流部の小野市あたりから日岡山と升田山あたりは、両岸が山地で、川床には流紋岩の基盤があらわれ狭窄部をつくっています。

 このあたりでは、緩やかな加古川の流れも勢いを増し、河口の平野部に流れ込みます。

 しかし、流れは左岸の印南野台地で阻まれ、流れは右岸(西岸)の方向へより強く流れるようになります。

 ということは、洪水の場合は、現在の東神吉町の方が、左岸(東岸)より大きな被害になります。

    加古川の旧流路跡は語る

 下記の「加古川下流部の地形分類図」の黒く塗りつぶしたカ所をご覧ください。

 かつての川の流路です。

 加古川左岸(東岸)と西岸(西岸)の流路に特徴があることにお気づきになると思います。

 右岸の旧流路は低地部を大きく蛇行しながら、南南西方向に流れ下り、現在の伊保港あたりから播磨灘へ排出されたことが分かります。

 すなわち、旧河川は升田から南西方向をとって右岸低地へ入り、東神吉町から南東に向き変え、船頭付近から再び南西に流路をとり中島(高砂市伊保町)の北へ抜ける流路と、その一部は、米田新から南南西に流れ、高砂市荒井の北を経て現在の伊保港へ排出される流路をとっています。

 また、西井ノ口、平津付近にも顕著な流路跡が見られます。

 昔から、東神吉町の人々は、水に恵まれていたのですが、はんめん洪水との闘いの歴史であったことが想像されます。(no3074

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