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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

別府町新野辺探訪(15):新野辺村の民話⑥・九郎兵衛と蛇塚

2009-08-20 19:08:31 |  ・加古川市別府町新野辺

江戸時代も終わりのころです。金沢新田は、完成しました。

 その後、村人は「九郎兵衛と蛇塚」の話を語り伝えています。

  ・・・・ 

C2f0b7dd  金沢新田の開発中のことでした。

 新田に大蛇を葬ったという大きな塚がありました。

 村人は、これを「蛇塚」と呼んでいました。

 「もし、牛がこの塚の草をたべると発熱するし、人がその塚の草を踏んだだけで熱病する」と恐れられていました。

 金沢新田の開発は進み、蛇塚を掘り起こし、水路を造らなければならなくなりました。

 ところが「大蛇のたたり」を恐れて、誰も塚を掘ろうという者がいませんでした。

 九郎兵衛は、家人に「新田開発も後は蛇塚を残すだけとなった。塚を掘ると大蛇のたたりで死ぬかもしれぬ。それで、他の者に任せてはかわいそうである・・・」と、自ら塚に鍬を入れました。

 幸い、何事もおこりませんでした。

 塚のあとから、蛇の骨のような物が二個出土しました。

 一つを自宅(加古川市東神吉町砂部)に持ち帰り、他の一つは、観音寺(加古川市尾上町池田)に奉納しました。

 ある夜のことでした。九郎兵衛の夢枕に大蛇があらわれ、「私の祠を建てて祭ってくれたら金沢家を守護するであろう」と、いって姿を消したのです。

 金沢家では祠を建てて祭っている。

*『加古川市誌(第二巻)』参照

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別府町新野辺探訪(14):新野辺村の民話⑤・上人山(しょうにんやま)

2009-08-19 20:16:07 |  ・加古川市別府町新野辺

Befu_031_2 昔、浜ノ宮中学校のから南いったいは、松林で覆われた砂丘で、人々から上人山と呼ばれていました。

 林の中の小高い砂丘に一基の五輪塔がありました。

 上人さんと呼ばれた坊さんが住んでいました。

 坊さんは、自分の死が近づいたことを悟ったとき、「私は生きたまま成仏したい。私の打つ鐘の音が聞こえなくなったら、成仏したと思ってもらいたい」といい残し、少しばかりの食料と水を持って念仏を唱え、鐘を打ちながら土中深く生き埋めになりました。

 それから四十日ほどは、鐘の音が聞こえていました。

 その後、人々は坊さんの死を悼み、その場所に塚をつくり五輪塔を建てました。

 その五輪塔や塚をさわると、頭が痛くなったり気分が悪くなったので、たたりを恐れて誰も手を触れなかったといいます。

 ・・・・・(『加古川市誌:第二巻』参照)

 第二次戦争後、このあたりは開発が進み住宅地となりました。

 その時、塚は削り取られ五輪塔だけが残されました。

 現在、五輪塔は田隅医院の南の民家の庭奥にあります(写真)が、元はもう少し西あったとも言われています。

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別府町新野辺探訪(13):新野辺村の民話④・よの木(エノキ)

2009-08-19 09:01:26 |  ・加古川市別府町新野辺

D113f23b_2   よの木(エノキ)

昔、人々の足に「いしふ」という魚の目のようなものができました。

それができると、なかなかなおらなかった。

ところが、新野辺の住吉神社境内にある「よの木」の根を「いしふかと思ったらよの 木やった」と口ずさんで踏むと、不思議なことにその「いしふ」がなおった。

そこで、「いしふ」ができた時は、おとなも子どもも「よの木」の根を踏みに出かけたそうな・・・・

 *『加古川市誌(第二巻)』参照 

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別府町新野辺探訪(12):新野辺村の民話③・お薬師さんと兵衛

2009-08-18 13:42:41 |  ・加古川市別府町新野辺

B21426c2_2 新野辺の薬師堂には、霊験あらたかな「薬師如来」が祭ってあり、「お薬師さん」といって村人からたいそう信仰されていました。

何か自分に困ったことができたとき、一つだけ、このお薬師さんに願をかけ、自分でも何か一つだけ誓いを立ててそれを守れば、その願いは必ずかなえてくださいました。

むかし、新野辺に兵衛と言う人が住んでいました。

兵衛は、ちょいちょい胸が痛むので、お薬師さんに願いをしようと考えました。

そして兵衛は「三年の間、好きな雑煮(ぞうに)を食べませんから、胸が痛くなるのを直してください」と誓いを立てお願いしました。

兵衛は、それから好きな雑煮を断って、その年の正月も、次の年の正月も雑煮を食べませんでした。

ところが、三年目の正月でした。遊びつかれて家に帰ると兵衛は、あまりの空腹にたえかねて、台所をさがすと、そこに雑煮の食べ残りのあるのをみつけ、思わず手が出てしまいました。

・・・・・

ハッと気がついたとたん、兵衛の胸は急に痛んできました。

兵衛が誓いを破ったためであろうか・・・・

兵衛は気の毒にも、夕日が落ちるころ、痛みがひどくなって、ついに息をひきとったといいます。

(『加古川市誌第二巻』より)

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別府町新野辺探訪(11):新野辺村の民話②・ひし形池の豆だぬき

2009-08-17 16:49:35 |  ・加古川市別府町新野辺

2593e2f1_4 昔々、新野辺にひし形の小さな池がありました。

その池の周りには、うるし、つばき、竹などが生い茂って、池の南側には一本の大木がありました。

その大木の根本には豆だぬきが住みついていました。

真夜中の頃でした。

ひし形の池の近くを通ると、大木の根本から赤ん坊が泣いているような声が聞こえました。

悲しそうな声は、不気味さえ感じる響きでした。

ある時、池の持ち主が、その大木を下から一間ぐらいのところを切りはじめました。

すると、切り口から水がタラタラと流れ出して切れません。

そこで、高いところをから切り、やっと大木を倒しました。

ところが、一日がたってから、大木を切り倒した人は豆だぬきが、恨みをもち復讐をしたのか急に身体が痛くなって、暴れまわったと言うことです。

 

 (「新野辺の昔ばなし」は、『加古川市誌(第二巻)(別府町誌編集委員会)からの転載です。一部文体を変えています)

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別府町新野辺探訪(10):新野辺村の民話①・マムシと住吉神社

2009-08-16 21:01:45 |  ・加古川市別府町新野辺

今、新野辺村の明細帳(寛延3年・1750)を紹介しているが、少し一休みして、新野辺に伝わる「昔ばなし」を紹介しておきたい。

きょうは。その1で、「マムシと住吉神社」です。

  

マムシと住吉神社

Aceff58f 別府の新野辺(しのべ)には、こんな話が伝わっている。

 新野辺はもともと、「シノベ」に「篠部」の文字をあてていた。

 室町時代の中ごろ、この付近には篠竹(しのだけ)が茂り、隠れ住むには都合がよかった。

 嘉吉の乱(かきつのらん)に敗れた一族がここに隠れ住んだとも伝えている。

 文禄のころ(159296)、この付近に大洪水があり、田畑一面土砂におおわれ、丘のようになってしまった。

 大洪水の後、雑草が生い茂り、マムシが住みつき村人は大変困っていた。

 村人は神に頼むことにした。播磨町の阿閇の宮から住吉神社を勧請した。これが新野辺の住吉神社である。

 以後、不思議なことに新野辺からマムシがいなくなり、五穀は実り、村人は住吉神社をますます信仰するようになった。

 なお、昔はマムシが嫌ったという紺色の衣類をつけて草取りに出かけたという。

(この「マムシと住吉神社」は、以前に別の所で紹介した記事の再掲です)

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別府町新野辺(9)・明細帳⑦・蚕種(さんしゅ)づくり

2009-08-15 15:58:34 |  ・加古川市別府町新野辺

696291dc  新野辺では、米作のほか綿作が盛んであったが、綿作については後に取り上げたい。桑木を栽培し養蚕も行われていた。

 

養蚕といっても、絹織物づくりではなく真綿(まわた)や蚕種(さんしゅ)をつくっていた。

 特に、真綿生産より蚕種をつくることに重点が置かれていた。

 蚕種というのは蚕卵紙(さんらんし)ともいって紙に産み付けた蚕の蛾の卵である。

 繭を破って蛾が生まれ卵を紙に産みつける。

蛾の抜けた繭は真綿になる。 

 まず蚕種を蚕種商人に売り、税は寺家町の蚕種座(座本)から運上銀(税)として藩に納められた。

 新野辺の明細帳を読んでみたい。

 (解読文)

 一 蚕

 右は綿ニ仕候、壱ヶ年ニ凡真綿八九貫目出来申候、子種紙八九百枚出来申候、御運上之儀子種座本より上納仕候、真綿之儀高砂并二子二見村へ売申候

 (文意)

 一年間で真綿は凡そ89貫目ができ、子種紙は8・9百枚できました。

 税は(寺家町の)座本から納めました。

 なお真綿は高砂・二子・二見へ売り渡しました。

*古文書(明細帳)は小さくて読みにくいですが、クリックすると拡大されます。

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別府町新野辺探訪(8):明細帳⑥・大坂酒屋米踏かせぎへ

2009-08-14 17:36:47 |  ・加古川市別府町新野辺

3bf1db28 (「新野辺村明細帳・寛延三年」より

人数 1075人 

内男 544人

      女 531人

大工   24人

農具鍛治  3人

樽屋    1人

医者    1人

作間商人 22人

と、あり51人の職業が記録されている。

22人の作間商人は、味噌・タバコに売り、木綿小売りが6人、そのほか籠振りの零細な行商人がいたことが分かる。

次に、明細帳から右のか所を読んでおきたい。

 (解読)

 男かせぎ耕作之間ニハ干鰯筵打申候、又冬春作間ニ大坂酒屋米踏挊ニ

 九拾人斗(ばかり)りも参り申候、尤五人組迄断参申候

    挊(かせぎ)

B01d0f70  (文意)

 新野辺の百姓は農作業の合間に、干鰯(ほしか・農業のための肥料)の藁袋つくりに精を出している。

そして、冬から春にかけての農閑期に大坂の酒屋に米踏作業に出かけている。

出稼ぎにあたっては五人組迄届けている。

女かせぎについては、「解読」だけにしておきたい。 

 (解読)

 女稼耕作之間ニハ妻子共干鰯筵縄又ハ浜之宮松林落葉山守とかけわけ浜辺草芝薪かせぎ木綿かせぎ致申候者も御座候

 ここで注目したいのは、男かせぎで「90人ばかりが大坂の酒屋へ米踏稼ぎに出かけている」ことである。

 米踏と言うのであるから、酒の仕込みの準備工程である精米作業(単純労働)のことと思われる。

大坂商人のツテで出稼ぎに行ったようである。

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別府町新野辺探訪(7):明細帳⑤、本百姓90軒・水呑137軒

2009-08-13 19:59:11 |  ・加古川市別府町新野辺

右の文章は、寛延三年(1750)の新野辺の明細帳の一部である。

3d0b1f6a  一 本百姓九拾軒

 一 水呑百姓百三拾七軒

 一 人数千七拾五人 内

         男 五百四拾四人

         女 五百三拾壱人 

 新野辺村の明細帳によれば、百姓家数227軒のうち本百姓90軒、水呑(農地を持たない百姓)137軒と水呑の割合がおどろくほど多く、本百姓を大きくうわまわっている。 

   

本百姓90軒、水呑137軒(新野辺村・寛延三年)

全国には、農業にたよらない他の仕事で書類上は水の呑ではあるが裕福な生活の村がある。

1072aa30 が、新野辺村の場合は、農業のための農地が少ないのと、汐風の害・水損・旱損の地であり農業にばかりたよれない条件があった。

そのため、農業での収入を補うために新野辺村から多くの出稼ぎがあったことが明細帳(寛延三年・1750)から読み取ることができる。

次回の「新野辺探訪」で、新野辺村の職業・出稼ぎについて調べてみることにしたい。

*文書の二行目に小さく、右に「姓」そして左に「百」の文字の書き込みがある。書き忘れたか写し間違いのために後から書き入れたものです。このような例は「写」や「下書き」の文書の中に時々見られます。うっかりしてしまったのでしょう。

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別府町新野辺探(6):明細帳④・新野辺の溜池

2009-08-12 22:18:59 |  ・加古川市別府町新野辺

7f7dc13f_4 新野辺村は、五ヶ井用水のあまり水をもらっていた。

五ヶ井の流は、神野町西条の城山(じょやま)のところで加古川から水を取り入れた。

水の豊かな用水である。

用水は、池を伴うのがふつうである。

旱魃の時などは、田植ができない。そんな時のために水をためておくために池がつくられた。

しかし、五ヶ井用水ばかりは、その心配がほとんどないほど水の豊かな用水であった。

そのために、五ヶ井用水の村々(五ヶ井郷)には池がない。

しかし、新野辺村は、五ヵ井郷ではない。五ヶ井用水の終点で、確実に届く保障はない。

五ヵ井の水を貯めておく池が必要であった。

寛延三年(1750)の明細帳に新野辺の溜池について注記している。

そのカ所を読んでおきたい。

(解読)

田地植付之

一 溜池  長弐拾間より百九拾弐間迄 拾九ヶ所

       幅五間より三間迄  

  右は平松五ヶ井水之戸尻故植付之節例年水廻り遅ク御座候

   ニ付植付かゑ水ニ而御座候

右同断

 一 溜池  長六間より拾九間迄    弐拾弐ヶ所

       幅三間半より六間迄

 (文意)

 新野辺村は、五ヶ井用水の一番最後(戸尻)にあたり例年水廻りが遅いため、田植えのため、また、かえ水のために、比較的大きな溜池が19ヶ所と小さな溜池が22ヶ所あります。

 新野辺村には、大小あわせて溜池が41もあったという。現在は、ほとんど姿を消した。

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別府町新野辺探訪(5):一転して大雨に(寛政元年・1789)

2009-08-12 00:02:45 |  ・加古川市別府町新野辺

前回の続きである。

寛政元年の旱魃は、とにかくすごかった。雨乞いが行われた。

新野辺では68日日(太陽暦:630日)三夜続きで半鐘、太鼓、ほら貝を鳴らし、棒や杭で作った松明を持っての行列だった。

610日にはやっと雨となった。

旱魃が一転して大雨に(寛政元年・

1789)

4178c472 『今里傳兵衛と新井の歴史』(新井水利組合連合会)に、後日談があるので転載させていただいた。

ひにくにも、雨乞いの後、日照続きが一転して大水と化したのである。

「・・・・旬遅れの田植をやっと済ませた4日後の79日(太陽暦)の夕方から大雨となり、翌朝までに大樋に一尺もの水がたまった。

別府川堤防にあがって川上を見ると、一面池のようになっていた。

村役人たちは相談のうえ、緊急措置として高潮の流入を防ぐ「ウテミ」を切放った。

村中男一人残らず人足を出してのことである。

10日朝、近くの村々から急を知らせる早鐘、早太鼓、ほら貝が鳴り渡ったので、若者四人を養田へ遣わした。

途中、船に乗って養田・長田へ渡り、刀田山(鶴林寺)へ参ったところ、今福、安田、尾上神社の一帯は、みんな池のようになっていた。

その光景に肝を冷やして帰ってきた」(大歳家文書より意訳)

再度、お断りしておきたい。

以上の文章は『今里傳兵衛と新井の歴史』からの転載である。

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別府町新野辺探訪(4):旱魃(寛政元年・1789)

2009-08-10 17:07:43 |  ・加古川市別府町新野辺

「明細帳は、新野辺村は汐風・水そして砂地と農業にとっては悪条件の集落である」と記している。

事実しばしば、自然災害に襲われている。

寛政元年(1789)の旱魃はひどかった。

この時の旱魃について『五ヶ井土地改良区誌』(兵庫県五ヶ井土地改良区)は、新野辺村のようすを若干まとめている。(一部省略)

寛政元年(1789)の旱魃

Fd58cb38_2  「・・・・

新野辺村の田植えは遅れた。

524日から溝筋付近で植付けを始めた。

しかし、その頃から五ヶ井の水が減じ、新野辺村まで下ってこなくなった。

それでも、溝の水を汲み上げ田植えを続けた。

この年、安田・長田・口里村では、麦の取入れがおくれ、まだ田植えにかかっていなかった。

そのため、加古川に水を抜き落としていた。

そこで新野辺村は口里村に交渉して、田植えの水にあてることができた。

このような旱魃のため、鶴林寺では52426日まで、浜之宮の天満宮では623日雨乞いの祈祷が行われた。

しかし、雨と言うほどの雨は降らなかった。

5月末の段階で新野辺村の田521反のうち1659畝あまりは、まだ田植ができなかった。

 63日、五ヶ井の水が少しばかり新野辺まで下った。

しかし、上手の長砂村が揚水機(竜骨車)で水を汲み上げたので、水が新野辺村に来なくなり、新野辺村は長砂村に抗議している。

 長砂村は揚水機の使用を止めた。

 その後、68日ごろから口里村は田植えに取り掛かったが、たちまちに水不足になり、この時、新野辺村は字、壱丁田の溝口の堰を落とし口里村へ水を回している・・・」

 新野辺村は、特に水には泣かされた。

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別府町新野辺探訪:(3)明細帳③、新野辺は尾の上

2009-08-09 19:12:27 |  ・加古川市別府町新野辺

8b5e13f0 明細帳(寛延三年・1750)に右のような記述がある。

説明する必要のないほどの文章であるが、念のため解読と文意を記しておきたい。

 (解読)

 一 田畑共土地ハ砂地ニ而御座候

(文意)

田畑はともに砂地です

 

「新野辺村の土地は砂地で、作物の栽培に適していない」とある。

きょうは新野辺村の土地について書いておきたい。

  新野辺村の土地は尾の上(おのうえ)

Cd61e8ba 大昔の話から始めたい。今から1万年前の頃、地球は現在とほとんど変わらない温暖な気候となった。

暖かい気候になると加古川の水量も増え、加古川は土砂を大量に河口に運び堆積させ陸地をつくった。

もう一つの要素を考えなくてはならない。

河口あたりの海の流れである。

加古川の河口辺りでは海流は西から東へと流れている。

土砂は、この海流に運ばれ主に東の方に尾のような土地をつくっていった。

つまり、新野辺あたりは加古川が運こんだ土砂が堆積してできた土地である。

新野辺村は、海流によりつくられたっぽのような土砂のにできた集落である。

昨日は、新野辺村は汐風の害・水の少ない土地であることを紹介した。

その上に、砂地である。

まさに三重苦である。

新野辺村は、農業に適した土地ではなかった。

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別府町新野辺探訪(2):明細帳②、水損の村・風損の村   

2009-08-09 08:12:52 |  ・加古川市別府町新野辺

 風損の村・水損の村

566b6a04_2  新野辺村は、海辺の村で汐風の害、旱害の多いところであることは想像することができる。

 寛延三年(1750)当時の風景を想像して欲しい。

神戸製鋼のある場所は、金沢新田であるが、寛延三年(1750)当時金沢新田はまだなかった。

もっとも、松林が汐風を防いでいたが、浜街道のすぐ南は海であり、汐風の影響は大きかったと想像される。

 明細帳は、右のように書いている。

(解読)

一、   当村田畑之儀海辺ニ而御座候ニ付汐風吹上ケ風損多ク

場所ニ御座候田地之儀ハ第一水損場ニ而御座候

(文意)

「当村(新野辺村)の田畑は海辺に近く潮風が吹き上げ風の害も多い所で、

そして、田の水が得にくい場所である」

 田の水であるが、新野辺村は五ヶ井の村(五ケ井郷)ではない。

 そのため、五ケ井の豊かな水も、毎年決まって新野辺村までは来る保証がなかった。

  新野辺村はあくまで五ヶ井用水のあまり水をもらっている。

 雨の少ない年は、減らされる。水の届かない年もあった。

 そうでなくても、田植えの時、五カ井の水は最後に新野辺村に流れ来た。

 田植が遅れないように、新野辺村はいろいろ工夫もした。

 五ヶ井用水と新野辺村については、後に取りあげたい。

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別府町新野辺探訪(1):明細帳(寛延三年・1750)

2009-08-08 17:07:36 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺村明細帳(寛延三年・1750

Photo (村)明細帳は村高(収穫高)・年貢・用水・普請・家数・人口・牛馬数・農間渡世などを記載した村の記録である。

 明細帳は幕府の巡見使が派遣された時、領主・代官の廻村の場合・領主の交代などの場合、役人あて差し出した。

 新野辺村(現:加古川市別府町新野辺)には幸い多くの古文書が残されている。その一つに寛延三年(1750)の明細帳がある。

この明細帳から当時の村のようすを見ることにしたい。

 明細帳が記録された時代を見ておきます。

寛延元年(1748)11月、姫路藩主・松平明矩(あきのり)が急死した。

あとつぎは幼かった。

ちょうどこの年の秋のことである。強烈な台風が播磨地方一帯をおそい、大被害をもたらした。

この年、藩は年貢の納入期日を1ヶ月遅らせて1215日までとした。

しかし、期日を過ぎ20日になっても年貢は完納されなかった。

代官は、厳しく年貢の完納を督促した。

農民はどうにもなりません。

農民の怒りは一揆として印南郡からたちあがった。

この一揆はまもなく、解散されたが、火の手は消えていなかった。

寛延二年、115日加古郡西條の農民5000人は藩の味方をする大庄屋宅を襲い打ち壊した。

飾西郡前之庄では1月28日、滑甚兵衛(なめらじんべえ)を中心に一揆が起こり、やがて姫路藩全藩を巻き込む一揆へとひろがった。

寛延二年(1749)、藩主は酒井と入れ替わった。

したがって、新野辺村の寛延三年の明細帳は、藩主の交代に伴い提出されたものと思われる。

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