新野辺村は、海辺の村で汐風の害、旱害の多いところであることは想像することができる。
寛延三年(1750)当時の風景を想像して欲しい。
神戸製鋼のある場所は、金沢新田であるが、寛延三年(1750)当時金沢新田はまだなかった。
もっとも、松林が汐風を防いでいたが、浜街道のすぐ南は海であり、汐風の影響は大きかったと想像される。
明細帳は、右のように書いている。
(解読)
一、 当村田畑之儀海辺ニ而御座候ニ付汐風吹上ケ風損多ク
場所ニ御座候田地之儀ハ第一水損場ニ而御座候
(文意)
「当村(新野辺村)の田畑は海辺に近く潮風が吹き上げ風の害も多い所で、
そして、田の水が得にくい場所である」
田の水であるが、新野辺村は五ヶ井の村(五ケ井郷)ではない。
そのため、五ケ井の豊かな水も、毎年決まって新野辺村までは来る保証がなかった。
新野辺村はあくまで五ヶ井用水のあまり水をもらっている。
雨の少ない年は、減らされる。水の届かない年もあった。
そうでなくても、田植えの時、五カ井の水は最後に新野辺村に流れ来た。
田植が遅れないように、新野辺村はいろいろ工夫もした。
五ヶ井用水と新野辺村については、後に取りあげたい。
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