新野辺村明細帳(寛延三年・1750)
(村)明細帳は村高(収穫高)・年貢・用水・普請・家数・人口・牛馬数・農間渡世などを記載した村の記録である。
明細帳は幕府の巡見使が派遣された時、領主・代官の廻村の場合・領主の交代などの場合、役人あて差し出した。
新野辺村(現:加古川市別府町新野辺)には幸い多くの古文書が残されている。その一つに寛延三年(1750)の明細帳がある。
この明細帳から当時の村のようすを見ることにしたい。
明細帳が記録された時代を見ておきます。
寛延元年(1748)11月、姫路藩主・松平明矩(あきのり)が急死した。
あとつぎは幼かった。
ちょうどこの年の秋のことである。強烈な台風が播磨地方一帯をおそい、大被害をもたらした。
この年、藩は年貢の納入期日を1ヶ月遅らせて12月15日までとした。
しかし、期日を過ぎ20日になっても年貢は完納されなかった。
代官は、厳しく年貢の完納を督促した。
農民はどうにもなりません。
農民の怒りは一揆として印南郡からたちあがった。
この一揆はまもなく、解散されたが、火の手は消えていなかった。
寛延二年、1月15日加古郡西條の農民5000人は藩の味方をする大庄屋宅を襲い打ち壊した。
飾西郡前之庄では1月28日、滑甚兵衛(なめらじんべえ)を中心に一揆が起こり、やがて姫路藩全藩を巻き込む一揆へとひろがった。
寛延二年(1749)、藩主は酒井と入れ替わった。
したがって、新野辺村の寛延三年の明細帳は、藩主の交代に伴い提出されたものと思われる。
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