ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

別府町新野辺探訪(1):明細帳(寛延三年・1750)

2009-08-08 17:07:36 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺村明細帳(寛延三年・1750

Photo (村)明細帳は村高(収穫高)・年貢・用水・普請・家数・人口・牛馬数・農間渡世などを記載した村の記録である。

 明細帳は幕府の巡見使が派遣された時、領主・代官の廻村の場合・領主の交代などの場合、役人あて差し出した。

 新野辺村(現:加古川市別府町新野辺)には幸い多くの古文書が残されている。その一つに寛延三年(1750)の明細帳がある。

この明細帳から当時の村のようすを見ることにしたい。

 明細帳が記録された時代を見ておきます。

寛延元年(1748)11月、姫路藩主・松平明矩(あきのり)が急死した。

あとつぎは幼かった。

ちょうどこの年の秋のことである。強烈な台風が播磨地方一帯をおそい、大被害をもたらした。

この年、藩は年貢の納入期日を1ヶ月遅らせて1215日までとした。

しかし、期日を過ぎ20日になっても年貢は完納されなかった。

代官は、厳しく年貢の完納を督促した。

農民はどうにもなりません。

農民の怒りは一揆として印南郡からたちあがった。

この一揆はまもなく、解散されたが、火の手は消えていなかった。

寛延二年、115日加古郡西條の農民5000人は藩の味方をする大庄屋宅を襲い打ち壊した。

飾西郡前之庄では1月28日、滑甚兵衛(なめらじんべえ)を中心に一揆が起こり、やがて姫路藩全藩を巻き込む一揆へとひろがった。

寛延二年(1749)、藩主は酒井と入れ替わった。

したがって、新野辺村の寛延三年の明細帳は、藩主の交代に伴い提出されたものと思われる。

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