goo blog サービス終了のお知らせ 

ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(77):新野辺西部地区土地区画整理事業②・緑はぐくむ街へ

2012-09-18 08:44:13 |  ・加古川市別府町新野辺

平成18年「新野辺西部地区土地区画整理事業」は完成しました。

工事の完成に伴い「完工記念誌・緑はぐくむ街」が編集され、工事概要・かつての新野辺西部地区のようすがまとめられました。

その本の座談会で「土地区画整理組合」の副理事長の山口賢一さん(現:新野辺町内会長)は、次のように語っておられます。

   緑の多い街に

6b2e6153新野辺全体が住みよくて安心できて明るい街になっていけたらと思います。

区画整理の地区について言えば、せっかくいろいろと整ってきましたので、あとは緑の多い潤いのある街にしていきたいなと思っています。

先程、Hさんもおっしゃいましたが子供の心のふるさとに成る街にしたいという思いがあります。

また、Kさんもおっしゃったように我々はここで育って、遊んできました。

それはどんな環境だったかというと、きれいなため池があって、畑があって、松林があってと今でも鮮明に残っています。

そういうものがこの整備した中で感じられるようにしたいと思います。

そのために公園の整備として、ため池が全くなくなったので、この公園の中に池を作って子供たちが水に親しむことが出来るような環境を今後努力して作りたいと思います。・・・

  便利になりました

写真をご覧ください。赤い線で囲まれた地区が土地区画整理事業の対象になった地域です。

事業が行われる前のこの地区の風景です。

新野辺西部地区の風景は一変させました。

道幅は広くなり便利になりました。

ただ、新野辺の昔からの新野辺の中心地区の街づくりの課題が残っています。

*写真:事業前の新野辺西部地区(赤く囲まれた範囲が区画事業対象地区)

    範囲右下の大きな建物が新野辺公会堂

*「完工記念誌・緑はぐくむ街」参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(76):新野辺西部地区土地区画整理事業①

2012-09-17 17:44:12 |  ・加古川市別府町新野辺

前号のブログで、「(新野辺は)現在、農業の衰えによる田畑の減少。人口の増加。

そして、何よりも生活の様式の変化により、新野辺の風景もすっかり変わってしまいました」と書きました。

確かに、大正時代と現代の風景はまさに激変しました。

   新野辺西部地区土地区画整理事業

7854b500それでも、新野辺の古い集落を歩いていると、狭い路地などに古い歴史を感じます。

今日の2枚の写真を比べてください。

これも、新野辺の同じ場所の写真です。右端に同じ家があるのでそれと分かります。

このあたり(新野辺の西部)は、前号のよう長い時代による変化ではなく、「新野辺西部土地区画整理事業」によるものです。

新野辺西部地区は、北東部に集落がありましたが、道路といえば狭い市道、未舗装の里道があるばかりでした。

この地区は、駅徒歩圏内(山陽電車別府駅・浜ノ宮駅から)という立地条件の良さから、このままでは無秩序に宅地化が進むのではないかと危惧されていました。

さらに、地区全体に点在するため池の土地利用にも配慮した再利用が課題となっていました。

   土地区画整備事業・平成18年に完成

Sinobe_003 そのため、土地区画整理事業により公共施設を整備しようとの機運が盛り上がり、平成21月には組合設立発起人会が結成され困難な取り組みの末、平成18年に完成しました。

*新野辺西部地区:新野辺公会堂を扇の要とした北東に当たる地区

<土地区画整備事業略年表>

平成2年(1990)  組合設立発起人会結成

平成6年(1994)  地元説明会

平成7年(1995)  組合設立認可

平成10年(1998) 起工式

平成18年(2006) 工事完成・検査

昭和19年(2007) 市道の全面共用開始

 *写真上:土地区画整理事業前の風景

  写真下:土地区画整理事業後の同じ場所の風景(916日撮影)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(75):すっかり変りました

2012-09-16 08:11:42 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺を歩く(48)で「新野辺村のため池」について書きました。少し復習をしておきます。

   新野辺村のため池

E7946f0e新野辺村は、五ヶ井用水の村(五ヶ井郷)です。

五ヶ井の流れは、水の豊かな用水です。

用水は、池を伴うのがふつうです。

旱魃の時などは、田植ができません。そんな時のために水をためておくため池がつくられました。

しかし、五ヶ井用水ばかりは、その心配がほとんどないほど水の豊かな水がありました。

しかし、新野辺村だけは少し事情が違いました。五ヵ井郷の村ですが、五ヶ井用水の終点の集落で、水が確実に届く保障はありませんでした。

そのため、五ヵ井用水の水を貯めておく池が必要でした。

寛延三年(1750)の明細帳には新野辺の溜池についての記載があります。

それによれば、 新野辺村には比較的大きな溜池が19ヶ所と小さな溜池が22ヶ所、大小あわせて溜池が41もあったそうです。

    

    風景は一変

004  写真上は、大正78年ごろに大歳正雄さんが撮影された新野辺野の村中の風景です。左手の池は「ひょうたん池」と呼ばれていました。

現在は、農業の衰えによる田畑の減少。人口の増加。

そして、何よりも生活の様式の変化により、新野辺の風景もすっかり変わってしまいました。

写真下は、昨日(915日)上の写真の場所へ出かけ同じ角度から撮影したものです。

元の姿はほとんどありません。風景は一変しています。

「ひょうたん池」のあった場所(プレハブの倉庫の手前の部分)は埋め立てられていますが、建物はなく、わずかにそれと確認できただけでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(74):松の大木(西の戎神社)

2012-09-15 17:51:42 |  ・加古川市別府町新野辺

  二つの戎神社

新野辺には二つの戎神社(東戎神社・西戎神社)あります。東戎神社は薬師堂の近くです。

東西の戎神社は、「えびっさん」とよばれ親しまれています。

「東・西のえびっさん」は、毎年1月10と7月10日に盛大にお祀りが行われ賑わいます。

    松の大木

23e69adc「西のえびっさん」には、かつて写真のような松の大木がありました。

この写真は大正78年ごろ大歳正雄氏が撮影されたものです。

附近の家と比べてください。その大きさが想像されます。

この付近は松の名所があり、松の大木は多いのですが、この松はひときわ大きく漁師が播磨灘からの目印にしたほどでした。

しかし、残念なことに昭和初期の頃に枯れて伐られてしまいました。

写真の少し小さな松は戦後まで残っていましたがこれも戦後伐られました。

    「たたり」が! 

言い伝えでは、昔「えべっさん」の境内にあったこの松の木の一部を村人が切ったり、折ったりすると、その人は病気にかかりました。

そんなことがあり、村人はお祀りを欠かした事がないと言われています。

現在、白壁の戎神社は区格整理事業により200㍍程西へ移動し、新野辺公会堂の横の宮畑公園のすぐ北で祀られています。

もと、松の木の大木と西の戎神社のあった場所へ行ってみました。

今は住宅で、あたりの風景からもと戎神社や松の大木があったことは想像ができませんでした。

*写真:「西のえびっさん」にあった松の大木(大正78年ごろ撮影)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(73):神戸製鋼所③・そして浜が消えた

2012-09-13 08:56:21 |  ・加古川市別府町新野辺

そして、浜が消えた

Befu_029_2『加古川市史(第三巻)』の次の指摘に注目してみます。

・・・(埋め立てにより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名の下に、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。

このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないだろうか・・・・

以下は「広報かこがわ」からの引用です。

(「広報かこがわ」1967415日号より)

・・・このしゅんせつにより遠浅の浜辺がなくなり、潮干狩り、海水浴場が姿を消し、昔の面影は一変し、壮観な工場群が建設されようとしている。

Befu_044_2(「広報かこがわ」1968515日号より)

(見出し) 

「来春完成めざし 埋め立て始まる 尾上町・別府町地先の公有水面」

・・・現在約十隻のしゅんせつ船がか動しており、排砂管より勢よく土砂が吹き出している、日々海岸が変ぼうしております・・・そして、別府・尾上町から海岸線が消えた。

市民のウオーターフロントはなくなりました。

*『加古川市史(第三巻)』参照

 写真上:昭和30年代の別府浜の海岸線

写真下:同場所の現在の風景

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(72):神戸製鋼所②・神戸製鋼所操業開始

2012-09-12 06:55:47 |  ・加古川市別府町新野辺

昭和43年・神戸製鋼所操業

Befu_055 加古川市が神戸製鋼所の有力候補地として白羽の矢がたったのは、昭和34年のころでした。

そして、建設計画が示されました。

これに対して加古川市議会は積極的に動きました。

昭和351月の市議会は、「・・・目標が神戸製鋼所と決まった以上・・・(中略)・・・神戸製鋼所誘致に本市の運命を賭けるべきであろうと考えるのであります。

地元各位のご協力はもちろん、全市かって一丸となって、これが目標完遂のために、当議会においても、強力な神戸製鋼所誘致特別委員会の設置を提案する次第であります」

まるで、戦時中の演説かと見まがうほどの雰囲気の中で、全会一致で特別委員会設置が決まりました。

この間、市民の声があまり聞こえていません。

そして、昭和43年(1968)厚板工場の操業を手始めとして、その後着実に銑鉄一貫工場体制による新鋭製鉄所は完成しました。

加古川製鉄所は、環境保全を最優先する基本理念を持って進められたはずであったが「神戸製鋼所第三高炉建設をめぐって推進派と反対派の市民多数が傍聴に押しかけ乱闘(197412)」や「ばい煙公害に悩まされている農民が、第三高炉反対を訴えて市役所に直訴(19755)」といったできごとが起きました。

最近では、大気汚染防止法など基準値超過の際、記録の中止・データーの改ざんなどを行い、大きな社会問題ともなりました。

*『加古川市史(第三巻)』参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(71):神戸製鋼所①・加古川へ進出

2012-09-11 10:56:04 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺の浜は埋め立てら、神戸製鋼所が進出してきました。

現在、そこは金沢町ですが「新野辺を歩く」に含めておきます

神戸製鋼所・加古川市へ進出 

 6fd2e28d加古川市の財政は火の車でした。

昭和36(1961)2月、38000万円の赤字を抱えて、地方財政再建準備団体の指定を受けるまでにいたっていました。

この時(昭和37年)甘いささやきがありました。

東は明石から西は赤穂にいたる地域が「播磨工業地帯」として指定を受けたのです。

そして、昭和37年、加古川市・兵庫県・神戸製鋼所は、神戸製鋼所加古川工場建設に関する協定書に調印し、加古川市は工業都市に向けて一歩をふみだしました。

  

  加古川市の財政は改善されたが・・・

神戸製鋼所が本格的創業を始めた昭和45年(1970)頃から、加古川市の財政は徐々に改善されました。

この意味では、評価できます。

「・・・第二次産業の中で素材産業が大きなウエイトを占める加古川市の産業構造は不安な状況にあり、今後活力ある街づくりを推進するためには、バランスのとれた産業構造を確立し経済活動を活発化することが必要である。・・・」と『平成二年度商工概要』(加古川市経済部商工労政部)は指摘しています。傾聴にあたいします。

また、ご多分にもれず、水質汚濁や大気汚染といった公害とも無縁ではありませんでした。

新野辺の海岸から海岸が消えました。子どもの遊ぶ水しぶきもなくなりました。

*『加古川市史(第三巻)』参照、

 写真:神戸製鋼所(神戸製鋼所紹介パンフより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(70):新野辺の海(2)・魚とり

2012-09-10 06:52:53 |  ・加古川市別府町新野辺

前回に引き続き『別府小学校百周年記念誌』より、田下明光さんの思い出です。

   魚とり

659b0002楽しかったうち、魚の獲り方のいくつかをあげておきます。

「タンボツ」と呼ばれる竹筒でウナギを獲る方法があります。

太い竹を1㍍位に切って中の節を全部とり去り、数十本を束にしてヒモでくくって水の中にオモリをつけて沈めます。

数メートル間隔で、ヒモをつなぎ数本一組にして大ミゾ、小ミゾ、シンガイなどに沈めておきます。

何日かして行くと、タンボツの中でウナギが寝ているのです。

子供の頃は、上手にタンボツが作れないので、他人が沈めているのを勝手にあげ、大人に追いかけられた経験のある人も多いのではないでしょうか。

また、竹ヒゴの先にウナギ用の細長いハリをくくりつけ、大きなミミズを房がけにして、大ミゾの石垣の穴の中に入れて、中のウナギを誘い出したり、ひっかけたりしました。

シンガイでは、夏になると、ゆでたザリガニの身をエサにして、ウナギを専門に釣りました。

土用の丑の日が近づくと、友達と誘いあって大物を狙いに行きました。

    ワンドあたり

ワンドでは、大人と一緒になってボラやイナ(ボラの幼少期)をとりました。

満潮時に大ミゾ側の三ケ所の水門を全部閉め、海側の水門だけを開けて海水を入れると海から魚も一緒にドッと入り、ワンドの中が満水になると水門を閉めます。

ボラが外まで飛びはねて手づかみできる時もありました。

今度は、大ミゾ側の三ケ所の水門に皆で、大きなタモ(玉網)をそれぞれに入れて受けてから、三つの水門を同時に少し開けると、タモの中に魚が入る仕組みなのです。

時々、チヌやスズキの大物が獲れることもありました。

冬場のカレイ釣り。春まだ浅く海水の冷たい頃のバ力貝、アサリとり。

夏の昼間は、イナやウナギとり。夜は、チヌの夜釣リ。

夏も終わりかけ、秋風が吹き始めると、カーバイトのカンテラを持って大ミゾでのエビすくい。

秋は、ハゼ釣り。

そして、モズクガニを別府川の岸壁ですくったり、マガリ付近の岩場では魚の頭をエサにカニとり・・・。

汐干狩、海水浴は当然として、一年中海で遊んでいました。(以下略)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(69):新野辺の海(1)、シンガイ・ワンド・マガリ

2012-09-09 09:27:50 |  ・加古川市別府町新野辺

『別府小学校創立百周年記念誌』に、田下明光さん(昭和37年卒業)が子どもの頃、新野辺の海岸で遊ばれた思い出を書いておられます。

2回に分けて紹介します。

   別府の海・新野辺の海

6726fa34僕にとって別府は海です。そして、海は別府でした。

父親となって自分の娘、息子に話して聞かせる少年時代の想い出は、あの遠浅の別府の海の話しばかりなのです。

小学校に入る頃に始めた釣りは未だに続いていますが、エサを買わなければならないことと、魚が釣れなくなったことは、当時と比べて大きな変化です。

   シンガイ・ワンド・マガリ

「シンガイ、ワンド、マガリ」この言葉を懐かしく感じるのは30代後半(それも男性かナァ)までではないでしょうか。(*この原稿は平成5年に書かれていますので筆者は現在50才代後半)

別府海岸は、加古川の東岸から別府川の西岸にかけて、加古川市のほぼ南限いっぱいの尾上町と別府町の海岸線約3.5キロメートルのうち東半分を占めておリ、逮浅の海水浴、汐千狩、釣りに最適の海岸でした。

「アマの泣き潮」と呼ばれていた、一年で一番潮の引く日には沖合300メートルまでいっても背が立つほどでした。

海岸線には別府から尾上まで延々と防波堤が続いていました。

防波堤の北側には平行して大小二筋の溝があり、「大ミゾ」「小ミゾ」と呼ぶ一種の気水域(海水と真水の混入域)で、さらにその北側には干拓田跡「シンガイ」が広がっていました。

小ミゾより大ミゾの方が塩分が多く、小ミゾにはフナもたくさんいたし、シンガイは真水に近く、シンガイの北側にも東西に細長いミゾがあって、フナやナマズが釣れました。

大ミゾが気水域なのは、海と大ミゾの水を調整する「ワンド」と呼ばれる石積みのバームクーヘンのような樋が防波堤に接して大ミゾ側にあリ、海側に一ケ所、大ミゾ側に三ケ所の水門がありました。

そして、防波堤は真ん中にあたり、別府と尾上の境界付近で大きくカーブを描いており「マガリ」と呼んでいました。

マガリ付近からは投げ釣りでカレイ、キスなどがよく釣れましたが、小学生特代はこのマガリで隣町の尾上の小学生と知り合ったり、にらみあったりした、子供の領分の境界でもありました。

シンガイ、ワンド、マガリ、ここで、僕達は多くの魚の種類と獲り方を覚えたのです。

*写真:ワンドあたりの風景(『加古川市史(第二巻)』より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(68):大倉源次郎

2012-09-08 08:47:18 |  ・加古川市別府町新野辺

大庫源次郎(おおくら・げんじろう)

Fb208a06 「播州経済人国記(丸投三代吉著)」(毎日新聞姫路支局・昭和50)から「オオクラ輸送機」の創設者、大庫源次郎(おおくら・げんじろう)の紹介です。

  源次郎は、明治452月、高等小学校を卒業すると、加古郡荒井村(現:高砂市)から京都の鉄工所へ奉職しました。

真っ黒になって働きました。

 19才で大阪砲兵工廠へ、そして夜学にも通いました。

 やがて、大正デモクラシーの波に乗って、全国的に労働運動が激化しました。

源次郎は、神戸川崎造船の争議にも巻き込まれました。

 郷里に帰って就職した日本毛織加古川工場でも、組合設立運動に参加し、組合幹部として42日間のストを指導しました。

争議終了とともに解雇。

 源次郎はくじけませんでした。

昭和25月、別府町新野辺に大庫鉄工所を創立しました。

ちっぽけな町工場でした。

しかし、まじめな仕事ぶりで、多木肥料や野田醤油関西工場(キッコウマン醤油高砂工場)などから仕事が舞い込むようになりました。

昭和13年現在の加古川市野口町に工場を移転しました。

終戦時、源次郎は生きるために、ナベ、カマ、パン焼き器等を製造しました。

「鉄材不足していた時代で、品物は飛ぶように売れた」と言います。

 戦後、大量生産、大量販売の時代になりました。

昭和31(1956)コンベア・「コロコンキャリアー」の生産を始め、工場は更に大きく発展しました。

  大庫工業株式会社の沿革

         *大倉工業株式会社HP参照

昭和 2(1927)  大庫源次郎 新野辺で大庫鉄工所を創業
昭和12(1937)  大庫機械製作所に組織、社名を変更

 昭和13(1938)  合資会社「大庫機械製作所」を設立

           工場を新野辺から野口に移転 

昭和35(1960)  大庫輸送機㈱に組織、社名を変更
昭和39(1964)  機械加工、製缶加工部門を大庫工業㈱として独立
昭和48(1973)  オークラ工業株式会社に社名を変更
昭和60(1985)  制御盤の設計、製作を開始

平成14(2002)  オークラ輸送機構内に野口作業所を開設

*写真:大庫源次郎(別府小学校初代PTA会長時代・50)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(67):ナビツマの島

2012-09-07 06:08:09 |  ・加古川市別府町新野辺

ナビツマの島

 Aa8a0ec6風土記にある「ナビツマの島」の物語です。

 奈良の都から一人の役人が、加古川の里に派遣されてきました。

彼は加古川の里の女性と結ばれ、女の子をもうけました。

 名を印南別嬢(いなみのわきいらつめ)といい、別嬢は、美しい女性に成長しました。

 噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、妻に迎えるため加古川の地へとやって来ました。

 別嬢の胸が高なりましたが、どうしてよいか分かりません。“ナビツマの島”に身を隠しました。

 加古の松原に着いた帝は、別嬢を探したが見当たりません。

 そのときです。島に向かって、一匹の白い犬が寂しげに鳴いていました。天皇は「誰の犬か」とたずねると、土地の人は「別嬢の犬である」と答えました。

 天皇は、舟をつくり島に渡たり、そして別嬢と幸せな生活を始めました。

 これは物語であり実話ではないのですが、研究者は、ナビツマの島は実在し「加古川の堆積により出来た三角州であろう」と結論づけています。

 当時、新野辺の海からの西方に“ナビツマの島”のような島があったのでしょう。

 風土記は奈良時代に書かれた歴史書です。

この頃、新野辺あたりは、まだ海であり、人の住めるような状態ではなかったようです。

*日岡山御陵(加古川市加古川町大野)は別嬢の墓とされています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(66):検地役人、加藤弥兵衛自刃

2012-09-06 08:55:40 |  ・加古川市別府町新野辺

検地役人、加藤弥兵衛

6c1a2b2e 慶安二年(1645)、陸奥白河藩から姫路入りした榊原忠次の頃には、播磨南部を中心として新田の開発が盛んに進められました。

 検地役人により新田の高などが決められました。

 もちろん、村にとって高の査定は少ない方がよいし、年貢が少なくてすむからです。

 藩にとっては、その反対になります。

 そのため、姫路藩の役人と百姓との駆け引きがありました。

 新野辺村でも、このころ新田・畑が開発され、役人は収穫高をきめています。

 明細帳には検地に当たった役人の名が記録されています。

 承応二年(1645)の検地役人のうち左から二人目の加藤弥兵衛に注目してください。

 彼は、播磨地方南部の各村々の検地にしばしば登場する検地役人です。

    加藤弥兵衛、自刃す 

 伝承によれば、寛文年間、米田新田の開発が完成し、検地が行われた際、弥兵衛は検地におもむき、貧しい百姓のために寛大なそちをとったようです。

百姓にはよろこばれたが、役人として責任を感じ、帰路、籠の中で切腹したと言われています。

002  村人はこれを悲しんで供養塔(写真)をたてました。

 弥兵衛は、藩財政の窮乏を新田開発で切り抜けようとした藩政担当者と農民との間に板ばさみになった犠牲者であったのかもしれません。 

(解読文)

一 新畑高弐石九斗壱合

    承応二年巳三月廿日

        御検地御役人

          鴾田六之助様

          神戸久兵衛様

          中村九郎左衛門様

          加藤弥兵衛様

          竹田四郎兵衛様

  *写真:高砂市米田町米田橋のすぐ西に「弥兵衛塔」と呼ばれる供養塔

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(65):蚕種づくり

2012-09-05 07:55:35 |  ・加古川市別府町新野辺

蚕種(さんしゅ)づくり

696291dc新野辺では、米作のほか綿作が盛んでしたが、桑木を栽培し養蚕も行われていました。

 養蚕といっても、絹織物づくりではなく真綿(まわた)や蚕種(さんしゅ)をつくっていたのです。

 特に、真綿生産より蚕種をつくることに重点が置かれていました。

 蚕種というのは蚕卵紙(さんらんし)ともいって、紙に産み付けた蚕の蛾の卵です。

 繭を破って蛾が生まれ、卵を紙に産みつけます。

蛾の抜けた繭は真綿になります。 

 まず蚕種を蚕種商人に売り、税は寺家町の蚕種座(座本)から運上銀(税)として藩に納められました。

 新野辺の明細帳を読んでおきます。

 (解読文)

 一 蚕

 右は綿ニ仕候、壱ヶ年ニ凡真綿八九貫目出来申候、子種紙八九百枚出来申候、御運上之儀子種座本より上納仕候、真綿之儀高砂并二子二見村へ売申候

 (文意)

 一年間で真綿は凡そ89貫目ができ、子種紙は8・9百枚できました。

 税は(寺家町の)座本から納めています。

 なお真綿は高砂・二子・二見へ売り渡しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(64):悪い土地ほど地価が高い!

2012-09-04 06:55:56 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺村の農地価格(明治5年)

『加古の流れ(市史余話)』(加古川市)に「農地の価格と綿作」と題して、新野辺村の農地価格(明治五年・1872)を下記のように紹介しています。

新野辺村の農地価格(一反当たり)

Photo上 田  金23

中 田  金34

下 田  金46

下々田  金67

上 畑  金12両位

中 畑  金13両位

下 畑  金15両位

下々畑  金1520

おかしい!

田も畑も土地の等級が低くなるほど価格が高いのです。

つまり、土地の質が悪いほど農地の価格が高い。

これについて『加古のながれ』は、次のように説明しています。

明治初期の農地の等級は江戸時代の初めに決定されたものです。

江戸時代の300年の間に生産の変化がありました。

まず、18世紀なかばに本格化した綿作があげられます。

畑の価格が田のそれよりも高くなったのは、木綿を栽培する畑が田よりも価格が出てきたためです。

第二の理由は、等級が低いほど価格が高いことは年貢の課税方法から説明できます。

年貢は土地の等級が低いほど年貢は少ないのです。

明治5年といえばまだ、近代的な土地課税制度は導入されていませんでした。

明治も10年までは課税は江戸時代のままでした。

明治20年代に綿作は衰退したが、この時代は、まだ綿作の盛況は続いていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(63):新野辺庄屋梅谷家打ちこわし

2012-09-03 07:34:56 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺では大歳家と共に大きな影響力を持っていた梅谷家についても、少しだけ紹介しておきます。

梅谷家は、近世初頭から18世紀の後半、大歳家と庄屋を交替するまで新野辺村の庄屋を務めていました。

そうとうの豪農であったらしく、姫路藩全般一揆では農民の恨みの対象となり徹底的な打ち壊しにあっています。

姫路藩寛延大一揆

 203842b7寛延二年(1749)、姫路藩に一揆が荒れ狂いました。

 当時の状況を見ておきます。

 1741年、奥州・白河藩(藩主・松平明距)は、姫路への転封が決まりました。

 藩内の商人は、借金の返済を求めましたが、借金を踏み倒しての姫路入りでした。

 姫路への引越し費用を江戸の商人からの借金でまかないました。

この時、商人と「借は姫路で支払う・・」という約束をしていました。

 姫路に入るや、さっそく年貢の引き上げ等により増収を計らなければならなかったのです。

 その上、延享二年(1745)、家重が九代将軍を引き継ぎ、朝鮮国からお祝いのため、延享五年(1748)477名が来朝し、一行は室津(龍野市)に立ち寄りました。

 幕府は、この接待を姫路藩に命じました。二万両が必要となりました。

 借金まみれの姫路藩に商人は協力してくれません。百姓に割り当てました。

 さらに、悪いことがかさなりました。

 明距(あきのり)の姫路入部以来、6年に4度の暴風雨に見舞われ、凶作が続いたのです。

 48年も、大干ばつと台風で「稀有の凶作」でした。

 この時、藩は「農具を売ってでも年貢を納めよ」という強攻策に出たのです。

 年貢の減免を願い出た百姓は投獄されてしまいました。

百姓達の恨みは限界に達していました。ついに、百姓たちの不満が爆発しました。

 火の手は、稲美町の野谷新村に上がりました。一揆の炎は、瞬く間に姫路藩を震撼させる一揆にひろがりました。

    新野辺村の庄屋・梅谷家打ち壊し!

この時、現在の加古川市の海岸部では、ただ一軒、新野辺村の庄屋・梅谷家が打ち壊しにあっています。

『姫路市(第三巻)』は、梅谷家の被害状況を、「表門・長屋廻り屋根懸ヶ塀全壊、建屋天井・床・柱等打砕、建具打捨」と、まとめています。徹底した打ち壊しだったようです。

梅谷家打ち壊しについての詳細は分かりませんが、当時、梅谷家はこの地方では相当裕福な庄屋として目立った存在だったようです。

姫路藩は、一揆を抑えるため足軽部隊を出動させました。そして、亀山・船場(姫路市)本徳寺も百姓たちの説得に当たりました。

やがて、一揆は終息。厳しい調べが大坂奉行所で行われました。

寛延の一揆の内容・結果の詳細は省かせていただきます。

 *『兵庫県史(第四巻)』、『姫路市史(第三巻)』、『加古川市史(第三巻)』参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする