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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(10)・勤王の志士たち

2013-07-06 07:33:29 |  ・加古川市別府町新野辺

仁寿山黌で育った勤王の志士たち

Kawaike_basudei_015寸翁がめざした仁寿山黌での教育は、漢学、国学、史学、医学が中心で、開放的な教育を、その基本に置いていた。

(山崎)闇斎学派の合田麗沢、折衷学派の村田継儒らの外にも山黌を訪れ、門下生たちを教育した。
 仁寿山黌に学んだ青年たちの中には、寸翁が意図するところをこえて勤王運動へ突き進んだ者もいた。

 そのため、姫路藩に煙たがられた。

仁寿山黌は開校20年後の天保13(1842)、財政難を理由として藩校・好古堂に吸収された。天保12(1841)6月24日、寸翁が75歳で永眠した1年後のことで、まるで寸翁の死を待ちかねたかのような閉鎖のタイミングだった。
 幕府譜代の姫路藩でも、功ある寸翁の存命中は、表立って仁寿山校に干渉できなかったのであろう。

    河合屏山

 尊王佐幕で日本中が揺れる幕末、姫路藩の尊王の志士達を指導した一人が河合屏山(かわいへいざん)である。

屏山は、三才で寸翁の養子となった。妻は寸翁の娘琴泉(きんせん)である。

姫路藩の藩主は、幕府の老中を勤めるなど、佐幕府のバリバリと思われており、そんな中で姫路藩の家老の屏山は尊王運動を指導した。

そのため、7年の間自宅謹慎になり身動きが取れなかった。

その間、姫路藩では、佐幕派と尊王派が激しく争った事件(甲子の獄)もあるが、屏山は謹慎中で、ほとんどダメージを受けなかった。

慶応三年の王政復古により歴史の流れは変わり、佐幕派が追われるようになった。

屏山は大活躍する場所ができた。

幕末の混乱の中で、会津藩とともに、佐幕派の中心であるとみられていたった姫路藩が、版籍奉還を進んで行うなど見事な手腕を発揮し、姫路藩がなんとか息をつないだのは、河合屏山の活躍に負うところが大きかった。

*写真:河合屏山の墓碑

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(9)・水桜と池

2013-07-05 06:59:49 |  ・加古川市別府町新野辺

011このシリーズのNo6の仁寿山黌の図をご覧いただきたい。

仁寿山黌跡の入り口にある案内の絵は、それをもとに描かれている。

建物の形は正確でないようだが、配置はよくわかる。

仁寿山黌の迎賓館・水楼

前号の、仁寿山黌跡に残る土壁と井戸に注目頂きたい。そして、案内板の絵(写真上)をご覧ください。

土壁は校舎を取りまく、それも図の西側の土壁らしい。

中央に井戸が残る。

仁寿山黌で一際立派な迎賓館の水楼は、井戸と土壁の南に位置している。

それも池に面している。

そのあたりを歩いてみるが現在ある灌漑用の池以外に池になる場所がない。

そうすれば、現在の池の北辺りにこの水楼はあったことになる。

  仁寿山黌の図にある池

以下は、蛇足である。

022農業用水の池(写真下)は、辺りが都市化して、農業が衰え水が不要になった時に姿を消すもので、まだ農業が健在な地域では水利権があり、頑固に池は守られているのが普通である。(*写真は池の土手の南から撮る)

この池のあたりは、都市化が進んでいるとはいえ、まだ農業も健在のようである。

仁寿山や麻生山から集まった水はこの池を満たし、付近の田畑を灌漑している。少し高い所にあり、水を配給するのに適したい場所に位置している。

とするなら、この池は仁寿山黌の借景のために掘られたのではなく、もともと農業用水として利用されていた池であろう。

山からの水であり、不思議なほど透き通っている。

この池を吹く風は水楼に爽快な風を運び、見事な借景をつくっていた。

池の彼方に瀬戸内の景色が手に取るように眺められた。

時には、客人たち(儒学者)は、この風景を愛でたことであろう。

頼山陽は、「仁寿山水軒即事」の詩を残している。

水軒とあるのは、水楼の事である。

*頼山陽の詩は「姫路名士河合寸翁伝、飾播郡誌」にある。詳しくはそれをご覧いただきたい。

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(8)・仁寿山黌跡へ行く(1)

2013-07-04 06:04:54 |  ・加古川市別府町新野辺

  仁寿山黌跡へ行く(1)

018きのう、仁寿山黌跡に出かけた。

630日(日)、河合家の墓地を訪ねた。

仁寿山黌跡にも行きたかったが、近所の人に尋ねたがわからなかった。

姫路市教育委員会でパンフ「仁寿山めぐり」をいただいた。

パンフによれば、仁寿山黌跡は麻生神社の隣にある。

麻生神社を目印に出かけると、すぐに見つかった。

神社の前の道を西に10㍍も行ったところに、仁寿山黌跡の説明板と「仁寿山黌址碑」がある。

そこを更に西に少し行くが、ただ林があるばかりである。

林にもぐり込むように進むと、仁寿山黌跡の土塀(写真上)があらわれた。

そのあたりは、竹やら木がしげっているが平らになっている。

ここは、まちがいなく仁寿山黌跡である。

激動の時代であった。理想に燃えた若者が猛烈に勉強した学問所の跡である。

土塀の近くにパンフにある井戸(写真下)がある。

しばらく、林の中をうろつくが土塀と井戸の外には、特に何もない。

     絶好の学問所

020この場所にしばらくいたが、姫路バイパスからの自動車の騒音で、ここが学問所であることを忘れてしまいそうである。

でも、仁寿山黌が現役であった時代、ここは姫路城から離れ、静かな絶好の学問所であったに違いない。

また、いまは木々が茂り視界を遮っているが、当時は学校の前(南)の大池から瀬戸内の辺りまでは、ほとんど視界をさえぎる物はなかった。

ただ、瀬戸内の絶景だけが広がっていた。

仁寿山黌は、西と東に北から浜の方へ山が伸び、学校を包み込む場所にあった。

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(7)・水楼の位置図

2013-07-03 08:14:19 |  ・加古川市別府町新野辺

きょうのブログは「水楼のあった場所(4)」と合わせご覧ください。

   水楼の位置図

Cf5e592今、『新野辺の歴史(第一巻)』を編集していますが、多くの方の協力で、711日(木)に完成の予定です。

しかし、第一巻には、仁寿山黌の水楼のことは登場しません。

うかつでした。『第二巻』は、水楼の話から始めてみたい。

『新野辺の歴史(第一巻)』の編集作業の最後の段階で、この水楼の話題を出された人がいた。「まさか」と思いつつ調べてみると、確かに仁寿山黌の水楼が新野辺にあるんです。

それも、写真が『加古川市誌(第二巻)』にあるし、ある書物には水楼の間取りまで記録されています。

見取り図は後日紹介するとして、きょうの図は新野辺時代の水楼の位置図です。

   仁寿山周辺を散策 

「大字の歴史」に興味を持っています。でも、守備範囲を稲美町・加古川市に押しこめていたようです。

新野辺の水楼のことで、初めて姫路市に足を伸ばします。

しかし、加古川市・稲美町から出ると、からっけし地理感や知識がありません。

姫路市の方から、叱責をかう事を書いてしまいそうです。

しばらく間違いも書きながら姫路市の、仁寿山あたりを歩いて水楼の話題を膨らませます。

さっそく、きょうにでも仁寿山黌のあった場所に出かけ、当時の塾生の目にうつった仁寿山黌を想像してみます。

雨が少し心配です。

雨でなければ、明日のブログは、「仁寿山黌跡訪問記」となる予定です。

*図:新野辺にあった水楼の位置図(『仁寿山校遺構顛末記』藤戸孝純著より)

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(6)

2013-07-02 07:54:19 |  ・加古川市別府町新野辺

  仁寿山黌の略図絵

Fae8874c 『姫路藩の藩老 河合寸翁伝(穂積勝次郎著)』(白雲堂書店)が本棚にあった。

たしか、20以上前に姫路の古書店で買った本である。

ところどころ赤線を引いているので、かつて読んでいるが、内容は全く覚えていない。

この度、仁寿山黌にあった水楼について調べるために、何年かぶりに開けた。

その本に、水楼の図や仁寿山黌の見取り図があるので、史料として掲載させていただいた。

きょうは、仁寿山黌の見取り図である。かなりの規模の本格的な学校である。

赤く塗りつぶした建物が水楼(仁寿山黌の迎賓館)であり、池に面した絶景の場所にある。

頼山陽もしばしばこの水楼を訪れ、宿泊している。

*写真:仁寿山黌略絵図

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館があった(5)

2013-07-01 07:49:57 |  ・加古川市別府町新野辺

 Kawaike_basudei_017きょうのブログは、予定をしていなかった余話の付けたしで、前号の続きとしておきたい。

きのう(6月30日)は70才の誕生日。あまりうれしくもないが、「古希」というからいつもの誕生日と少しだけ気分になる。

 天気もいい、仁寿山に行きたくなった。地図で調べてみると仁寿山は市川の東であまり遠くない。

 悪い癖で、大体の見当で動いてしまう。30分もしないうちに、それらしき場所に到着。

    河合家墓所

 そこからが問題だった。

 駐車場が無いので、コンビニでお茶とシキシを買って店員さんに、「仁寿山黌」の場所を尋ねたのですが、分からない。近所で聞いても分からない。

たまたま、あるお年寄りに聞くと「そこですよ」と教えてくださった。

「コンビニから100メートルほど南へ行った所に小さな青い看板がありので、そこから細い道を500メートルほど行けばある・・」とのことである。

確かに、説明どおりの青い看板があり、細い道が続いている。

でも、看板は仁寿山黌ではなく「河合家の墓所」(写真上)となっている。

仁寿山黌跡も近所だろうと行くと、少し登ったところに「河合家の墓所」はあった。

少し荒れているが、さすがに姫路藩の家老の墓所で立派である。

Kawaike_basudei_013墓地の入り口の土塀に感激。   

先日、姫路市的形(まとがた)の尊光寺で見た「鷹の紋の軒瓦」(写真下)である。ここでは、瓦が土塀に現役で残っていた。

    仁寿山黌はどこ?

次ぎに、ちかくだと思う仁寿山黌跡を捜してみるが見当たらない。

『姫路藩の藩老 河合寸翁伝(穂積勝次郎)』(白雲堂書店)を持ってきていたので、墓地の石段で調べてみるが、墓地の説明・写真はあるが仁寿山黌跡の説明・写真はない。

仕方がないので、墓地から左の細い登山道を登ってみる。どんどん瀬戸内の景色は広がるが仁寿山黌跡はない。諦めた。

墓地を下ったところにある家の方に尋ねたが、ご存知なかった。

大体の場所は、分かったので後日出なおしてみたい。

ある、パンフによると「仁寿山黌跡は、特に何もなく学校跡らしい平らな土地があるだけ」とある。訪ねる人もあまりないらしい。

でも、仁寿山黌跡に行ってみたい。ご存知の方は、案内していただけませんでしょうか。

この日、仁寿山黌跡は行けなかったが、素晴らしい誕生日になった。

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(4)

2013-06-30 07:46:29 |  ・加古川市別府町新野辺

   「水楼」のあった場所

6b2395bb水楼のあった場所を確認したい。

『加古川市誌(第二巻)』に「旧仁寿山黌付属の水楼」の説明で、水楼の場所は別府町大字新野辺字蓮池通1353の1とある。

古い住宅地図で捜してみると、その場所は、旧浜国道に沿った赤く塗りつぶした場所である。

すぐ南隣に、元の多木幼稚園がある。

話は少しより道をしたい。多木学園・多木幼稚園の歴史である。

今の多木学園・多木幼稚園は、昭和623月に現在の場所に移転している。

多木幼稚園は、歴史が古く創立は明治43年に新野辺の薬師堂の東隣に産声をあげた。

大正元年(1911)に別府小学校の横へ移り、昭和14年に住宅地図にある場所に移転している。

ともかくも、多木幼稚園は県下でも有数の古い歴史を誇る幼稚園である。

水楼のあったあたりは、もともと多木家の土地であった。

近くに多木農工具株式会社もあった。

   水楼

『加古川市誌(第二巻)』に、水楼の構造についての細かい説明がある。資料のつもりで書いておきたい。

・・・最近になって内部構造の一部が改造されたが、建物の外観は、幸い今もなおよく旧態のままを伝えている。

この建物は木造・瓦葺・二階建で、正面六軒半、側面六軒、現在は北東に面してたっている。

内部の階下は、玄関の突きあたり六畳、その奥が十畳の座敷で、座敷には床(向かって左側)と聖廟(同右側)とが付属し、座敷に東接して八畳の部屋、八畳の部屋に隣接して六畳の部屋、またその南に四畳半の茶室があり、玄関には畳の間が見受けられ、その他に押入れ等があり、階上には十畳と八畳の二部屋が続き、それらのいずれもが京間である。

背面と茶室の外側とに縁があり縁から見上げる襜榱(たんすい)の構造には風雅な趣向が表されている。・・・

『加古川市誌(第二巻)』が発行されたのは昭和46102日であるから、その時点では、水楼は健在であった。

解体された時期を確認していないが、最近のことであり調べて後日報告したい。

それにしても、解体した時の瓦は、どこかに残っていないでしょうか・・・

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(3)

2013-06-29 06:46:45 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺にあった仁寿山黌の水楼(迎賓館)の顛末を説明したい。

水楼は、仁寿山黌に来校した儒者達を歓待するための、また宿泊のための施設である

水楼は、山黌の大池のほとりにあり、そこから瀬戸内海の眺めは、まさに絶景であった。

頼山陽等もしばしば、ここを訪れて風光を愛でたという。

この由緒を持った水楼は、明治維新まで、そのまま残っていた。

   水楼、別府村に移築

B94bc604維新後、河合家では、もと山黌の講師を勤め、後に別府村住吉神社の神職を勤めた利根川半睡(彦兵衛)に寄贈した。

半睡は、住吉神社横に移築し住宅とした。

しかし、半睡の子の誠が、明治32年に別府を去ることとなり、同年、多木久米次郎に譲渡した。

久米次郎は、水楼の由緒をかんがみて、これを保存するために、新野辺蓮池通り1353番地に移築した。

水楼は、度重なる移築にもかかわらず、仁寿山黌時代のたたずまいをよく残していた。

その後、水楼は老朽化し、取り壊された。

(取り壊した年は確認していません。分かればお知らせします)

  どこかに水楼の瓦は、残っていませんか?

このシリーズの瓦の件であるが、水楼の軒瓦等に鷹をデザインした瓦が使われていた。

『加古川市誌(第二巻)』では「この瓦は、河合家の紋(章)である」と書いているが、河合家の紋は別にあり、研究者は、「水楼・仁寿山黌の紋は河合家の紋の鷹からヒントを得て図案化したものであろう」としている。

新野辺の水楼が壊された時、鷹紋様のたくさんの瓦があったことを話し下さった方がおられた。「たぶん、処分したと思いますよ。そんな貴重なものとは知りませんでしたから・・・」とのことでした。

新野辺に、仁寿山黌の水楼(迎賓館)があった証明になります。どこかに、瓦が残っていないでしょうか・・・・

*写真:新野辺にあった仁寿山黌の水楼(『加古川市誌(第二巻)』より)

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(2)

2013-06-28 06:35:42 |  ・加古川市別府町新野辺

河合寸翁(かわいすんのう)

Kawai_sunnnou河合道臣の紹介であるが寸翁として話を進めたい。

河合道臣(みちおみ)は、姫路藩の家老で、後に河合寸翁(すんのう)といった。

 藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5(1808)、姫路藩には73万石の借財があった。

 寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布を姫路藩の専売にし、藩の財政改革に取り組み、みごと借金ゼロを成し遂げた。

 寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法をとったが、さまざまな妨害もあった。

しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6年(1823)やっと江戸への木綿専売が幕府に認められた。

 これは、「藩主・酒井忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれている。

 ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができた。

 藩主は、この功績に対して寸翁の希望をかなえた。寸翁の願いは、有能な次代の人材を育てる学校を創設することであった。

(寸翁は、綿の専売の外にも多くの産業の振興を手掛けている)

    

   仁寿山黌(じんじゅざんこう)

姫路藩には好古堂という藩校ができた。好古堂では藩士の子弟に学問や武芸を教えた。

激動の時代である。河合寸翁は、好古堂学問所に協力するかたわら、有意な次代の人材を育成するため、仁寿山の麓に学校を設立した。
 文政6(1823)正月、教場、図書倉、教師館、食堂から塾舎、医学寮までが整然と整い、朱子学を基にした伸びやかな学校であった。

上記の「教師館」に注目してほしい。この教師館は、「水楼」と名付けられ、外部からの儒者(教師)などの迎賓館(宿泊所)である。頼山陽も、しばしば招かれている。

寸翁の仁寿山黌の開校によって、藩校・好古堂と寸翁の仁寿山黌が競合することになった。

自主性を重んずる仁寿山校に学んだ多くの青年たちは、寸翁が意図するところとは別のところで、勤王運動へ突き進んだ。

仁寿山黌は、藩としては好ましい存在ではなくなった。 
 仁寿山黌は、開校20年後の天保13(1842)、財政難を理由として藩校・好古堂に吸収された仁寿山校は潰された。
 天保12(1841)6月24日、寸翁が75歳で永眠した。その1年後のことであった。

好古堂は、明治3年まで続くが、その間水楼も考古堂の施設として使われている。

その後、なぜか水楼は別府(加古川市)へ移築された。

次回、その顛末をみたい。
 

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余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(1)

2013-06-27 06:02:12 |  ・加古川市別府町新野辺

別府町新野辺に河合寸翁の

学問所・水楼(迎賓館)があった

Kawai_272別府町新野辺町内会で、『新野辺の歴史(第一巻)』を製作している。

ほぼ、でき上がって、現在印刷所にまわっている。

来月の中旬には、町内会に配布できる。

きょうは、その話ではなく、製作作業の中で、「かつて、別府町新野辺に河合寸翁の学問所・仁寿山黌(じんじゅざんこう)の水楼(迎賓館)があった」という話がでた。

「ウッソー」と半信半疑で調べると、なんと『加古川市誌(第二巻)』その記事をみつけた。

     

   水楼の軒瓦

その顛末を書きたいが、先にもう少し余話をしておきたい。

新野辺のUさんは「仁寿山黌の水楼の軒瓦には鷹の模様の瓦(写真)が使われており、たしかに家に、新野辺にあった水楼の軒瓦が一枚あったはず・・・」といわれた。

この瓦について、捜してもらったが、みあたらなかった。が、話は続いた。

この紋様について河合寸翁の研究家の藤戸孝純氏は、「仁寿山の瓦の文様は河合家の家紋である鷹、それもクマタカを図案化したものである」とされている。

「でも、私(Uさん)の旦那寺にも同じものがあります・・・」とのことで、26日午前中、姫路市的形の尊光寺に出かけた。

お訪ねすると、瓦が本堂に並べられており、確かに仁寿山黌の鷹の紋様の軒瓦である。

     

   なぜ尊光寺に?

尊光寺の方の話では、仁寿山黌がつぶされた時、その瓦の一部が尊光寺に運ばれ、山門の瓦に使われたが、その理由は分からないそうである。

「その後、山門は傷み、新しくした。その時多くの瓦を処分した」とのことで、現在、鷹の紋様のある瓦は、保存のため姫路市が持ちかえられた23枚と、現在尊光寺に残された瓦だけで、貴重な文化財となっている。

 <お知らせ> 

新野辺の水楼・河合寸翁の話は、この号も含めて4回シリーズでその顛末を説明したい。

従って「官兵衛、こぼれ話」は、その間お休みとします。

 *写真:仁寿山黌に使われた鷹紋様の軒瓦

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新野辺を歩く(82):「新野辺を歩く」ひと休憩②・新野辺の古文書

2012-09-23 08:40:24 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺の歴史探訪は面白い地域です。

 最後に、「新野辺を歩く(62)」の一部をもう一度読んでおきます。

    多くの古文書の残る地域

「面白いという理由」は、新野辺にはたくさんの古文書が非常にいい状態で保存されているからです。

『加古川市史(第二巻)』では、加古川市の他の地域よりも新野辺村についての紹介が多くされています。それは新野辺村に古文書が残っているためです。

村に残る江戸時代の古文書は、地方文書(じかたもんじょ)とか村方文書(むらかたもんじょ)と呼ばれていますが、新野辺に残る文書はそれだけではありません。

その外に、大庄屋・大歳家に1000点を超える文書(写真)が完全な形で保存されています。

大歳家の古文書は「大歳家文書」として歴史学会では広く知られていますが、十分に研究がなされていません。

大歳家文書については、現在、関西学院大学の羽田真也先生により本格的な研究が取り組まれています。

新野辺に残るこれら村方文書、そして「大歳家文書」の研究がさらに進めば、江戸時代の新野辺村のようすを浮きぼりにすることができます。

このことは、加古川市別府町新野辺だけでなく、日本の江戸時代の集落の一事例として貴重な財産になるはずです。

   古文書に取り組む

Img_5646新野辺には上記のように、たくさんの史料が残っています。

この古文書(特に村方文書)を読んでみたくなりました。

でも、残念ながら「読めない・・・」。簡単な英語が読めても古文書は読めません。

無謀にも、68才(昨年)の秋、古文書の勉強を始めました。

不思議なもので、毎日続けているとこの年齢でも少しずつ明かりが見え始めました。わかるところがふえはじめました。

英語の場合は「読み・書き・話す」という総合力を求められますが、古文書の場合は「書き・話す」ということは不必要で、もっぱら「読み」だけです。

それに、第一に日本語です。準備段階はなんとかクリアーできそうです。

近いうちに、新野辺町内会の許可を得て本番(新野辺村方文書を読む)に取り組もうと思います。

最近、めっきり記憶力・理解力に自信がなくなりました。「ボケ防止」にもなるかも知れません。

でも、個人ではすぐに限界がでてきます。次の段階は、仲間で「新野辺村方文書を読む会」をつくることです。

忙しくなりそう・・・

*「新野辺を歩く」は、ひと休憩しますが、随時新しい話題を付け加えることにします。

次回から野口町野口を探訪したいと考えています。

*昨日、高校の同窓会がプラザ・ホテルでありました。卒業後、50年目の同窓会でした。約100名が集まりました。

 たくさんの仲間が「ひろかずのブログ」を読んでいただいていました。新野辺の方もおられました。

 *写真:大歳家文書

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新野辺を歩く(81):「新野辺を歩く」ひと休憩①

2012-09-22 09:26:28 |  ・加古川市別府町新野辺

   

   「新野辺を歩く」が80号に

いま(921日)、午後1125分です。こんな時間に翌日のブログ「ひろかずのブログ」を書くことがほとんどです。

でも、退職の身分のため、明日のしごとを気にする必要はありません。

しなければならないのは、朝の9時ごろに孫を保育園に連れていくことぐらいです。

拙文を書く時間を楽しんでいます。

前号で「ひろかずのブログ」も1838号になりました。

別府町新野辺の歴史「新野辺を歩く」も80号となりました。

 

  町内会単位の歴史を

23e69adc最近、「ひろかずのブログ」は少し変わってきました。

というのは、加古川市の歴史は市史に紹介されているし、もう少し範囲の狭い町(ちょう)単位の歴史はそれぞれの公民館エリアである程度行われています。

でも、町内会の歴史となると野口町の「水足史誌」・平岡町「いっしき」そして「大野史」等の立派な著作があります。

私も、以前に「今福の歴史」書いたことがありますが、まだまだ少ないようです。

最近、この小さい地域(町内会)の歴史が面白くなりました。

この思いが強くなったのは、稲美町国岡の歴史を書いた時です。

その時は、国岡の多くの方々の協力してくださいました。

そして、小冊子をつくり国岡1400戸の全戸配布となりました。

感想も聞かせていただきました。本当にうれしかったです。

初めは、「こんな狭い地域の歴史は他の地域では興味をもっていただけないのでは」と思っていたのですが、他の地域の話題も含めて「ひろかずのブログ」の1日のアクセスがコンスタントに200300のアクセスがありました。

その後、史料が少なく十分な掘り起こしはできなかったのですが平岡町二股の歴史も書いてみました。

この時は、二股の大西晃さんが後にCDにしてくださいました。

そして、多くの方に配布していただいたとお聞きしました。

その後、大西さんとの連絡が少し絶えていました。

6月に、急に体調を崩されお亡くなりになりました。

ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。

   「新野辺を歩く」ひと休憩 

「新野辺を歩く」は、80号になりましたのでこのあたりで内容を整理・訂正し、なんらかの形で新野辺の方に活用していただけるように纏めたいと考えています。

「新野辺を歩く(一部)」をしばらく休憩して、他の地区をカメラをぶらさげて歩いてみます。

もちろん、今後も「新野辺を歩く」は調べながら、その都度補強していきます。

*写真:新野辺にあった松の大木(大正78年ごろ撮影)、「新野辺を歩く(74)」をご覧ください。

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新野辺を歩く(80):加古川市誌 (第二巻)

2012-09-21 09:58:39 |  ・加古川市別府町新野辺

加古川市誌(第二巻)

Photo 私の机上に一冊の本(写真)があります。

『加古川市誌(第二巻)』です。(『加古川市史・第二巻』ではない)

1083ページの膨大な市誌です。

内容は「別府町の歴史」であり、加古川市全体の市史ではありません。

(加古川市全体の歴史の『加古川市誌(第一巻)』は554ページ)

いきさつはこうです。

昭和26101日、別府町は難産の末に加古川市と合併しました。

別府町と加古川市の合併の経過については、「新野辺を歩く(5053)・加古川市との合併」をご覧ください。

ともかく、別府町は加古川市との合併となりました。

その時、加古川市との「合併条件」の一つに「現在、編集中の『別府町誌』を完成すること」という一項がありました。

加古川市との合併後、この事業は継続されました。

昭和26年9月に始めた別府町史の編集作業でしたが、その後さまざまな理由で編集が遅れました。

20年を経て「別府町史」は、『加古川市誌(第二巻)』として、昭和46年に発行されました。

 別府町別府・西脇そして新野辺の歴史です。

 『加古川市誌(第二巻)』は膨大な割に、読みやすく編集されています。

 「新野辺を歩く」も、この市誌から多くを参考にしています。

そのため、加古川市の他の地区(町)より、その歴史(町史)を手軽に知ることができます。

  *写真:『加古川市誌(第二巻)』

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新野辺を歩く(79):新野辺の昔話・浜の宮松林

2012-09-20 08:08:33 |  ・加古川市別府町新野辺

Matu現在、浜ノ宮松林の松はずいぶん少なくなりました。

少し前までは、春は松露(しょうろ)、夏は緑陰、秋ははったけ等のきのこ狩り、冬は松葉かきと付近の人は松林とともに生活してきました。

ところが夜になると、この松林の風景は一変しました。人が迷い込み、なかなか出でることができなくなることもしばしばありました。

「キツネにだまされた」といった話も多く残されています。

『郷土のお話と歌』(加古川市教育委員会)で、梶川酉紀夫さんは次のような話を採取されています。

その一部を転載させていただきました。(一部、文書の文字を変えています)

浜ノ宮松林の迷い込み

明治の中ごろのことでした。別府村のある人が、加古川まで収入印紙を買いに出かけました。

その当時は、まだ多木道がなかったので、新野辺から斜めに浜ノ宮神杜の参道を通って宮の前へ出て、それから鶴林寺の方へ出るのが普通の近道でした。

加古川で所用をすませ、その人は、子どものみやげにと思って、「伊賀まんじゅう」を買って帰っていました。

季節は秋ごろでした。

日暮れも早く、あたりが暗くなったので、ちょうちんに灯をつけて浜ノ宮まで帰ってきたところ、空模様も悪くて、ポツリ・ポツリと雨が、ろうそくの灯にかかったのか、ちょうちんの灯が消えてしまいました。

あたりは暗くなっていましたが、お宮の前にある神主さんの家のそばにあった桑の木や井戸もわかるし、つるべがあるのまでハッキリわかるので、どうもおかしいと思いました。

拝殿にはいり鈴を鳴らしてみたら、ガラガラいいます。

しこを踏んでみると、ドンドンいいます。

それで、なんでもないと思いながらお宮を出て帰途についたのですが、どう歩いても松林から出られませんでした。

そうこうするうちに、いっぺんにパッと明るく朝になりました。

そして、新野辺の山所のおばさんから、「あんた、別府の人やが、朝早うからどこへ行ってでしてん?」といわれて、初めて気がついたそうです

この人は夜どおし浜ノ宮の松林の中を歩いていたのです。

*写真:現在の浜ノ宮松林(加古川市HPより)

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新野辺を歩く(78):新野辺西部地区土地区画整理事業③・終了後の風景

2012-09-19 07:11:10 |  ・加古川市別府町新野辺

 土地区画整理事業後の新野辺西部地区

4fb30021前号の写真は、土地区画整理事業以前の新野辺西部地区の写真(平成712月撮影)でした。

今日の写真は、土地区画整理事業後の写真(平成199月撮影)です。

比べてください。まず、道幅が広くなったことが目につきます。

当時・浜ノ宮中学校1年の福山宏輝君は、「完工記念誌・緑育む街」に、次の感想を寄せています。

   未来の新野辺

ぼくのおばあちゃんもお母さんもこの新野辺で育った。

お母さんが小学校の頃は、おばあちゃんの家に牛や鶏がいたり、田んぼもたくさんあったようだ。

おばあちゃんは、今の神鋼のところが海で、お友達と泳いでいたようだ。

今の新野辺は昔とかなり風景が違っているが、新野辺の人たちは昔も今も人情深い。

いつも地域ぐるみで行事や出来事を助けてくれる。

いつもぼくたちの事を見守ってくれている。

区画整理により、新野辺の町も整えられ、きれになった。

公会堂のまわりにもいつもきれいに花が咲き、芝生のみどりはとてもきれいだ。

毎日お世話をしてくれる人がいるからだろう。

ぼくたちが大きくなったら、今度はぼくたちが新野辺を住みやすい町にしたい。

今までお世話になった人たちが安心して、幸せにくらせ新野辺になってほしい。

*『完工記念誌・緑はぐくむ街』(加古川市新野辺西部土地区画整理組合)参照

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