ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(68):大倉源次郎

2012-09-08 08:47:18 |  ・加古川市別府町新野辺

大庫源次郎(おおくら・げんじろう)

Fb208a06 「播州経済人国記(丸投三代吉著)」(毎日新聞姫路支局・昭和50)から「オオクラ輸送機」の創設者、大庫源次郎(おおくら・げんじろう)の紹介です。

  源次郎は、明治452月、高等小学校を卒業すると、加古郡荒井村(現:高砂市)から京都の鉄工所へ奉職しました。

真っ黒になって働きました。

 19才で大阪砲兵工廠へ、そして夜学にも通いました。

 やがて、大正デモクラシーの波に乗って、全国的に労働運動が激化しました。

源次郎は、神戸川崎造船の争議にも巻き込まれました。

 郷里に帰って就職した日本毛織加古川工場でも、組合設立運動に参加し、組合幹部として42日間のストを指導しました。

争議終了とともに解雇。

 源次郎はくじけませんでした。

昭和25月、別府町新野辺に大庫鉄工所を創立しました。

ちっぽけな町工場でした。

しかし、まじめな仕事ぶりで、多木肥料や野田醤油関西工場(キッコウマン醤油高砂工場)などから仕事が舞い込むようになりました。

昭和13年現在の加古川市野口町に工場を移転しました。

終戦時、源次郎は生きるために、ナベ、カマ、パン焼き器等を製造しました。

「鉄材不足していた時代で、品物は飛ぶように売れた」と言います。

 戦後、大量生産、大量販売の時代になりました。

昭和31(1956)コンベア・「コロコンキャリアー」の生産を始め、工場は更に大きく発展しました。

  大庫工業株式会社の沿革

         *大倉工業株式会社HP参照

昭和 2(1927)  大庫源次郎 新野辺で大庫鉄工所を創業
昭和12(1937)  大庫機械製作所に組織、社名を変更

 昭和13(1938)  合資会社「大庫機械製作所」を設立

           工場を新野辺から野口に移転 

昭和35(1960)  大庫輸送機㈱に組織、社名を変更
昭和39(1964)  機械加工、製缶加工部門を大庫工業㈱として独立
昭和48(1973)  オークラ工業株式会社に社名を変更
昭和60(1985)  制御盤の設計、製作を開始

平成14(2002)  オークラ輸送機構内に野口作業所を開設

*写真:大庫源次郎(別府小学校初代PTA会長時代・50)

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