大庫源次郎(おおくら・げんじろう)
「播州経済人国記(丸投三代吉著)」(毎日新聞姫路支局・昭和50)から「オオクラ輸送機」の創設者、大庫源次郎(おおくら・げんじろう)の紹介です。
源次郎は、明治45年2月、高等小学校を卒業すると、加古郡荒井村(現:高砂市)から京都の鉄工所へ奉職しました。
真っ黒になって働きました。
19才で大阪砲兵工廠へ、そして夜学にも通いました。
やがて、大正デモクラシーの波に乗って、全国的に労働運動が激化しました。
源次郎は、神戸川崎造船の争議にも巻き込まれました。
郷里に帰って就職した日本毛織加古川工場でも、組合設立運動に参加し、組合幹部として42日間のストを指導しました。
争議終了とともに解雇。
源次郎はくじけませんでした。
昭和2年5月、別府町新野辺に大庫鉄工所を創立しました。
ちっぽけな町工場でした。
しかし、まじめな仕事ぶりで、多木肥料や野田醤油関西工場(キッコウマン醤油高砂工場)などから仕事が舞い込むようになりました。
昭和13年現在の加古川市野口町に工場を移転しました。
終戦時、源次郎は生きるために、ナベ、カマ、パン焼き器等を製造しました。
「鉄材不足していた時代で、品物は飛ぶように売れた」と言います。
戦後、大量生産、大量販売の時代になりました。
昭和31年(1956)コンベア・「コロコンキャリアー」の生産を始め、工場は更に大きく発展しました。
大庫工業株式会社の沿革
*大倉工業株式会社HP参照
昭和 2年(1927) 大庫源次郎 新野辺で大庫鉄工所を創業
昭和12年(1937) 大庫機械製作所に組織、社名を変更
昭和13年(1938) 合資会社「大庫機械製作所」を設立
工場を新野辺から野口に移転
昭和35年(1960) 大庫輸送機㈱に組織、社名を変更
昭和39年(1964) 機械加工、製缶加工部門を大庫工業㈱として独立
昭和48年(1973) オークラ工業株式会社に社名を変更
昭和60年(1985) 制御盤の設計、製作を開始
平成14年(2002) オークラ輸送機構内に野口作業所を開設
*写真:大庫源次郎(別府小学校初代PTA会長時代・50才)
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