ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

行くのはなかなか…岸谷ダム

2022-11-17 07:19:23 | 京都(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は京都府舞鶴市与保呂岸谷(よほろきしたに)にある与保呂川水系の岸谷ダムを訪れます。アクセスは国道27号と与保呂川が交差する「舞鶴市字浜」の交差点を与保呂川に沿って進み、府道51号から府道487号を進んでいくと与保呂浄水場があるのでそこを右折していくと目的地に到着します。

【与保呂の由来】
さて、与保呂という地名が珍しいので調べてみました。奈良時代の713年、元明天皇が各令制国の国庁に地方の歴史や文物を記した風土記編纂の詔勅を下します。こうして各国の風土記が完成するわけですが、京都北部の内容を記した『丹後国風土記』も同時期(おそらく8世紀中)に編纂されています。そこには有名な「浦島伝説」や「羽衣伝説」も所収されています。『丹後国風土記』の原本は散逸して現存していないのですが、15世紀末に京都の北白川家に伝わっていたものを丹後国一之宮籠神社の社僧である智海が筆写したのが『丹後国風土記残欠』と呼ばれるものです。ここに与保呂についての記述があります。それによれば、

「与保呂と号くる所以は、古老伝えて曰く、往昔、豊宇気大神之神勅によりて、此地に神人仕丁等を置かせらる。故に与保呂と云う。」

とあります。つまりこの場所に神社の雑役や警備を担当する神人(じにん)や古代の律令制において50戸ごとに二人の成年男子が三年交替で諸官庁で労役に服す仕丁(じちょう、つかえのよぼろ)が配備されたことからここを与保呂と呼ばれるようになったというらしい。

しかしながら『丹後国風土記残欠』の中で記されている「地名の由来」は938年に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の誤記を訂正することなく使用していることから、『丹後国風土記残欠』は散逸した『丹後国風土記』を補完するものではなく、どちらかといえば偽書とされているようです(参考)。

いずれにせよ、与保呂という地名が古代において公的な仕事に使役された人民の意である丁(よほろ)に由来するのは間違い無いのかもしれません。

だらだらとまあ書いてしまいました。で、当初の目的地である岸谷ダムに戻りましょう。これが左岸側から見た様子です。


左岸のダム横に来たんですが、なんと立入禁止!貯水池だから仕方がないのかもしれませんね。


扉には経済産業省が運営する平成19年度の近代化産業遺産に認定されたとあります。ただし、これは岸谷ダム(岸谷貯水池)だけが認定されたのではなく「舞鶴市の赤煉瓦製造関連遺産と建造物」の一部として認定されたようです。なんと紛らわしい。


それでもフェンスの間からダム上を見ると、こんな感じです。


しかしまあ、なんとも悔しい。というのはですね、ここへはすんなり到着したわけじゃないからです。まずは与保呂浄水場への入口にある案内板があります。これによれば岸谷ダム(貯水池)は明治38年(1905年)に完成し、旧海軍の水がめとして使用されたのち、現在は舞鶴市の生活用水として使用されているそうな。


その道を入ってくと与保呂浄水場の正面玄関となります。



でも、岸谷ダムは見えません。えー、どこにあんねん。地図で確認するとこの道の先にあるようです。仕方ないのでクルマを降りて向かうことに。

こんな景色を見ながら、

このカーブの先にあるのか?

いーや、ないんかい!

またカーブが…。

おっ、何か見えて来たゾ。


で、ようやく先ほどのダム横へ到着したわけなんです。通常ダム巡りをすると一日に10,000歩から14,000歩くらいは歩きます。なかなかの運動になっていいんですが、時々こういう「試練」に出くわすと途端に息が上がって自分がポンコツであることを思い知らされます。まあ、ポンコツなのは間違いないんですけどね。でも、負けんぞー。
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