ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

「終わり方」から学ぶ

2009-07-04 04:39:54 | 脳みその日常
地上に生きるあらゆる生物。これらは最後には土に還ります。ワシもアナタも例外じゃありません。「生・老・病・死」は釈尊の教えとしてよく知られていますが、これは紛れもない真理ですね。

いや、別にここで仏教のお話をするつもりじゃありません。生物は必ずそういうサイクルを経るということが言いたかっただけのこと。

ただ、まあ、最初の三つ(生・老・病)はともかく、そこから死へと至るプロセスにはさまざまなパターンがあります。親族もしくは関係者に看取られながら亡くなる場合はいいんです。親族の悲しみは別にして、あの世への旅立ちがスムーズに行なわれますからね。

ところが不遇な最期を迎えた場合はちょっと事情が違ってきます。本人があの世へ旅立つことに変わりはないんですが、亡骸の処理の問題が生じてくるのです。

肉体は生命活動が終わりを告げるとともに腐敗が始まります。これは当然ですね。ある肉体の生命活動が終わった時、そばに関係者がいればいいんですが、孤独死や自殺の場合はそうはいきません。腐敗は容赦なく進み、それこそ筆舌に尽くしがたい状態になるんですから。

でも、そんな凄惨な状態も誰かが処理しなければなりません。そうでないと悪臭は永久に消えないからです。

実はこうしたお仕事をされている人のブログがありましてね。ただただ驚きながら読んでいました。内容はかなり生々しいんですが、いろいろと考えさせられることが多いんですよね。

仕事とはいえ、これはとても真似できることじゃありません。そのブログでは「理性で割り切ろうとしても身体がいうことをきかない」といった表現がたびたび出てきますが、たぶんそうなんだろうなあと思います。

自分がどのような形で最期を迎えるのかは神のみぞ知るところですが、できることなら「立つ鳥跡を濁さず」のことわざのようにしたいなあと思うこのごろでして…。
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