ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

駅伝に見る過保護の実態

2008-01-02 23:41:52 | 脳みその日常
年初めの恒例行事となっている箱根駅伝。襷を繋ぐことでチームが結束しゴールを目指す姿はある意味で美しい。他人を信頼しなければ成立しない競技だからだ。仲間をも信用できなくなっている今の世の中にあって、競技とはいえ「人を信じる」ことは実はとても大切なのだ。この競技に思わず見入ってしまうのは、我々が日頃忘れている何かを思い出させてくれるからなのかもしれない。

そこまではよい。問題は競技の運営方法。走る選手の後方には必ず監督の乗る運営管理車がいる。監督は選手の状態に応じてさまざまなアドヴァイスをする。選手にしてみれば監督がそばにいてくれるのだから心強いのかもしれない。でもそれって過保護なんじゃないだろうか。

たとえばマラソン選手にだって監督はいる。しかしマラソンの場合はスタートからゴールまでは基本的に選手個人の一人旅。監督は時折アドヴァイスはするが、それはピンポイントでのこと。あくまで競技の責任は選手の判断に委ねられている。だからマラソンではいちいち選手ひとりにつき監督が同乗する管理車両なんてない。

比較の対象がおかしいって? そうかなあ。走る距離は確かに違うけれど、走行競技には変わりないでしょ? じゃあ、なぜ駅伝は過保護なのか。

競技者が大学生だから? いやいや、もしそういう理由だとしたらおかしいと思う。大学生は子供じゃないんだから指導者が手取り足取り教える必要はないはず。学生だってこの日のために苦しい練習を重ねてきただろう。自分のことは自分が良く知っている。だから本番にあたっては練習の成果をそのまま出せばよいのだ。何も競技中まで監督がゴチャゴチャ言う必要はない。

今回一番不快なのは監督の激励の声。昨年あたりまでは檄を飛ばすにしても車両から直接大声で叫んでいた。しかし今回目立つのは拡声器を通しての「励まし」。本人はきっと気づいていないだろうが、あれはどう聞いても右翼が街宣車で叫ぶ罵声だ。監督自身も興奮しているので、ついつい声高になる。で、拡声器を使っていることを忘れ絶叫。見苦しい(聞き苦しい)ったらない。な? それってまるでガミガミ世話を焼く親みたいなモンだろ?

こうした過保護現象は何も駅伝だけのことじゃない。むしろ現在の教育の姿が、まさに鏡のように現われていると見るべきなんじゃないのか。

身近な大学生を見ていても思う。学生の多くは教師から与えられるテーマに沿って動くのみ。つまり彼らは雛鳥のように口を開けているだけで、自らエサを探しにいくわけじゃない。

そうなると、教師をはじめとする大人は雛鳥が可哀想に思うのか、彼らにエサを与えることになる。これがそもそも過保護の始まり。彼らはもう雛鳥じゃない。立派な大人なのだ。そんな成人にエサを与える必要はどこにもない。

知り合いの大学講師はある時にこう言っていた。

「いま教育しなければならないのは学生でなく、親のほう」

そうなのだ、親が保護するのはせいぜい高校生までであり、大学生になってまで大人が世話することはないのである。大学は高校の延長機関なのではない。自らが問題意識をもち、自らテーマというエサを探す場なのだ。少なくとも口を開けてる場所ではない。

それなのに大人は余計な世話をしたがる。親が学費を払ってやるのは、まあ許そう。しかしその他のことは本人にやらせればよい。各種免許を取得したければそのための費用は自分で稼がせる。クルマが欲しければ自分で買わせる。こんなのは当たり前のこと。親がカネを出すという話をよく聞くが、こんな親こそ頭がどーかしていると思うね。

大人たちよ、早くそれに気づきなさいよ! あなたがたのしていることは子供をダメにしているんだということを。
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