2013/03/29 記
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3/23の朝に放送されていた「さいかい 東日本大震災 その時、ペットは」を録画しておいた。作業しながら、それを見ていた。被災した飼い主さんが、ペットをどのように考えているかが一目瞭然にわかるシーンがいくつも出てくる。
この手の話をすると、「動物より人間が大事」とか、「女・子どもの甘っちょろい感傷」という批判が出てきて、次に「一部のペットマニアの酔狂というレッテル」が出てくるので、その程度の人なのだなと、一種試金石のように相手を見ている。それは「ペットをどう見るか」ということではなく、「被災者○×さんにとって、ペットΔくんはどういう存在なのか」ということに、彼は目がいかないからだ。
番組では、いわゆる「ペットマニア」は登場しない。私たちの父母や、隣のおっさん・おばちゃんたち、娘さんたちが、避難生活の中の丸裸にされた生活と見えない今後という窮地の中で、家族同様、必要な存在であることだ。気づかないうちに支援者の眼差しは、飼い主を消し去った「『被災者』・『ペット』一般」の束ねた論理に陥り、実際に目の前にたち現れる個別・具体的な出来事・意味合いを捨象して、本質を得たと思い込んでいる。具体と抽象は丸抱えしてこそ、的を射ることができる。カルチュラル・スタディーズなどで議論された視点である。「家畜を殺して食べる人間が、犬猫ばかり命の価値を主張するなんておかしい」という論理もある。命の価値を活動の原点に論じるのも、**さんの形見の缶のプルタブが命懸けの価値を持つように感じるのも人間だ。それをプルタブの属性から立証しようとする愚かさというべきか。
私はあえてペットの価値を論じない。同じ集落の++さんや##さんと再会する喜びの価値を支援者が論じることは意味がない。そこに無事であったことの喜びがあれば、よかったですねえと、ともに喜べばいいのだ。同じ構造がペットの場合に成り立っている。
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気分替えに安物のブレザーを買った。我が家はエンゲル係数が高い。気分の切り替えようにも、「超熟」か「藤沢・神戸屋の食パン」か選ぶ程度のものである。
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黒田裕子さんの著書を読むとわかるが、その著作は看護学生のためにサブテキストとして書かれてる。実に細かい指示が出ている。しかしこの指示を現場で実行するのは難しいだろうと思う。経験の落差というか、当てはめようとする意志が、場の対話構造の情報(相手からの情報)の流入をつかみそこねてしまうからだ。
このケアの世界を直接NPOが支援するのは、避難所健康管理とか訪問看護・介護という場面を、片方では被災者臨時雇用の相談員さんというファクタを考慮しながら、観察していくとき、被災地の現場支援の中で考えるなら常駐ではないことから、直接補佐ではなく、内容を外野まで引き下がった別の関わり支援を考えることになる。
非被災地から活動をたてるときは、大きなキーワードは「私的民間交流の創造」というところが基礎になる。「民泊」や電話・メールによる対話が、孤立感や実際の家庭の窮地のクッションになるだろう。特に仮設単身入居者との交流ができたら意味は大きい。ざっくり「擬似親戚作り」ということになるが、非被災地の支援者の質も問われる。
ここには初動仲介者・触媒としての裏方が先方被災地で「暗躍」していることが実現の鍵だ。
ああ、時間切れ。続きは翌日分にて。
p.s.
cf. ●「事例を通して学ぶ避難所・仮設住宅の看護ケア」
夜間傾聴>橋本3君(母親>炸裂した模様)
(校正3回目済み)
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3/23の朝に放送されていた「さいかい 東日本大震災 その時、ペットは」を録画しておいた。作業しながら、それを見ていた。被災した飼い主さんが、ペットをどのように考えているかが一目瞭然にわかるシーンがいくつも出てくる。
この手の話をすると、「動物より人間が大事」とか、「女・子どもの甘っちょろい感傷」という批判が出てきて、次に「一部のペットマニアの酔狂というレッテル」が出てくるので、その程度の人なのだなと、一種試金石のように相手を見ている。それは「ペットをどう見るか」ということではなく、「被災者○×さんにとって、ペットΔくんはどういう存在なのか」ということに、彼は目がいかないからだ。
番組では、いわゆる「ペットマニア」は登場しない。私たちの父母や、隣のおっさん・おばちゃんたち、娘さんたちが、避難生活の中の丸裸にされた生活と見えない今後という窮地の中で、家族同様、必要な存在であることだ。気づかないうちに支援者の眼差しは、飼い主を消し去った「『被災者』・『ペット』一般」の束ねた論理に陥り、実際に目の前にたち現れる個別・具体的な出来事・意味合いを捨象して、本質を得たと思い込んでいる。具体と抽象は丸抱えしてこそ、的を射ることができる。カルチュラル・スタディーズなどで議論された視点である。「家畜を殺して食べる人間が、犬猫ばかり命の価値を主張するなんておかしい」という論理もある。命の価値を活動の原点に論じるのも、**さんの形見の缶のプルタブが命懸けの価値を持つように感じるのも人間だ。それをプルタブの属性から立証しようとする愚かさというべきか。
私はあえてペットの価値を論じない。同じ集落の++さんや##さんと再会する喜びの価値を支援者が論じることは意味がない。そこに無事であったことの喜びがあれば、よかったですねえと、ともに喜べばいいのだ。同じ構造がペットの場合に成り立っている。
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気分替えに安物のブレザーを買った。我が家はエンゲル係数が高い。気分の切り替えようにも、「超熟」か「藤沢・神戸屋の食パン」か選ぶ程度のものである。
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黒田裕子さんの著書を読むとわかるが、その著作は看護学生のためにサブテキストとして書かれてる。実に細かい指示が出ている。しかしこの指示を現場で実行するのは難しいだろうと思う。経験の落差というか、当てはめようとする意志が、場の対話構造の情報(相手からの情報)の流入をつかみそこねてしまうからだ。
このケアの世界を直接NPOが支援するのは、避難所健康管理とか訪問看護・介護という場面を、片方では被災者臨時雇用の相談員さんというファクタを考慮しながら、観察していくとき、被災地の現場支援の中で考えるなら常駐ではないことから、直接補佐ではなく、内容を外野まで引き下がった別の関わり支援を考えることになる。
非被災地から活動をたてるときは、大きなキーワードは「私的民間交流の創造」というところが基礎になる。「民泊」や電話・メールによる対話が、孤立感や実際の家庭の窮地のクッションになるだろう。特に仮設単身入居者との交流ができたら意味は大きい。ざっくり「擬似親戚作り」ということになるが、非被災地の支援者の質も問われる。
ここには初動仲介者・触媒としての裏方が先方被災地で「暗躍」していることが実現の鍵だ。
ああ、時間切れ。続きは翌日分にて。
p.s.
cf. ●「事例を通して学ぶ避難所・仮設住宅の看護ケア」
夜間傾聴>橋本3君(母親>炸裂した模様)
(校正3回目済み)