2013/03/25 記
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橋本まで睡眠や読書ができるのが相模線。最近は、たちどころに眠ってしまう。橋本から乗り換えて、今まで一番遠方なのが「多摩プラザ」から徒歩10分。印象的なのが入谷から座間まで歩く途中のファミレスで教えた子もいた。ひと気のない農地を歩く例だった。しかし多少土地勘のきく小田急線沿いの子たちの訪問が、これからは橋本周辺重点になるのだろう。経営陣の方針から、引きこもりの若者への意識がどんどんなくなっていることを思えば、相模大野校の方は、教材屋と進路教育カウンセラーにとどめ、JR相模原の塾の出張相談業務屋にシフトしていく時期なのかもしれないと思い始めている。
昼に用件をすませて、塾長に臨時登板させたお詫びを伝えてからすぐ、私は松戸に向かおうとしていた。日本グラフィックデザイン協会主催の「やさしいハンカチ展2」の最終日にすべりこもうとしていたのだった。しかし松戸着15:53では無理。神奈川展は4/20~だが、それまで待つのかなと思う。この間には水戸・静岡展がある。
JAGDAの発想は、被災地の子どもが描いた絵をプロのデザイナーがハンカチにし、展覧会で販売収益を上げ小学校に還元。またハンカチ7,000枚を東北の子たちに贈るという活動だ。
ハンカチという着想が面白いと思いつつ、これは勿体無い、中途半端な活動だと直感した。彼らは被災地の子どもに着眼しながら、全国の子どもが見えていない。以前、気仙地方で、トヨタ系の出資の「夢の車」企画があった。被災した子に「夢」を持ってもらいたいという。大人が勝手に描いた子ども像に、被災に無縁な夢を描かせる企画と、ひどいセンスだと思った。被災地だろうが、被災地に無縁な地域・家族の子が描く車は、質がおそらく大差ないだろう。被災との関係が出れば、その夢の凹凸を大人が扱いきれなかっただろうに。
JAGDAの場合も、被災地の子どもが原画を描き、デザイナーが仕上げる…ここまでは、描く子どもがこの企画の流れを理解しているのかが疑問である。問題はせっかく作ったハンカチを被災地の子どもに戻して贈るというくだりだ。折角、素敵なコミュニケーション・ツールを見出してくれたのに、デザイナーの方が、全国の子どもや支援の気持ちのある大人たちの気持ちを理解していない。この時期、生活再建に動き出している被災地の方々へのつながり方・協力の仕方がわからず、気になるが何もできないと思う状況に、民間交流のカニの穴を開けてくれたのだ。
私は決して非被災地の子どもに絵を描かせて、ダイレクトに東北に送れというような無神経なことをいいたいのではない。大人の理解が浅いところで、子どもに絵を描かせれば、ステレタイプな「がんばれ」「絆」が噴出するだけだろう。
交流集団を大きくすればろくなことはない。相互理解のプログラムを走らせた上で、互いに共通の場で描き、交換すれば、キルトの活動のそれのように、記憶の断片の交換となる。その絵の指導の場面で、技術指導の形でデザイナーさんたちが協力してくれれば、このハンカチ展は、様々な連想企画のバリエーションの枝を広げるだろう。企画力と腕力(実現力)があれば、相互のメッセージが届けられる。
中間支援者とは「火付け屋」だ。時代の要請を読み、様々な参加の可能性のある提案、様々な変容の起こるやわらかさを持った提案を善しとする。
帰りに市社協とサポセンに立ち寄り、サポセンではハンカチの話を伝えてきた。
私が医療保健活動を調べていて偶然得た情報だが、現在は民間交流を進める必要がある時期に入っている。私の検討している医療・保健福祉活動とどこかでつながるかもしれない。サポセンには土台があるのだから、ハンカチに感じることがあれば、活動の網目をデザインしてみたらという意味だった。
私が担う余力はない。ただこれを発火させるには、ゆめたい展・ハスキーズギャラリー展ではなく、旧イオン展やイトーヨーカドー展などの大店舗会の参加促しや、文化会館展示室展の市民行事便乗型だろう。寄付金も企画にひねりが必要。またコンテスト形式をとれば、非被災地の作品も、ステレオタイプを封じることができるだろう。Tシャツよりも、受け入れ易いだろう。
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これからの精神医療・保健生活支援活動を進めていく上で、訪問看護介護の保健師さんと連携していく活動は、民間の社会活動の構想がしっかりしていないと、専門職に連携の必要を感じさせる懇談講演形式の災害カンファもどきは出来ない。今私が再開しているのは、東北の障がい者・高齢者・失業分断家庭の現状を今のうちに、できるだけしっかり把握しておく必要がある。
現地に行きたい。思いがつのる。
NHKドラマ「ラジオ」女川の若者の巣立ちが愛おしい。と同時に、わたしが浜見平と遠藤で流してきた「ミニFM」チャット。あれから20年になる。フレネが子どもが取材で学ぶ姿に着目したが、私が東京南部の塾で行った企画「まっすぐに行くんだ」や、二年半続いた「ミニFM」(これは有珠山噴火のとき虻田町の臨時FMと避難所FMに受け継がれた。)の思いもあって、記者役の若者の変革のツールになるのだと、ぶつぶつ言いながら録画を見た。
コミュニティFMでは大きすぎる。インターネットに音声を載せるのは対象の質が違う、そんな生々しい活動がありうることを語る相手がいない寂しさが、じわりと浮かんできた。引きこもり青年を放送に巻き込んだ活動は、平時には、活動が支えきれないだろうなと思いつつ。
夜間傾聴>ひとり
(校正3回目済み)
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橋本まで睡眠や読書ができるのが相模線。最近は、たちどころに眠ってしまう。橋本から乗り換えて、今まで一番遠方なのが「多摩プラザ」から徒歩10分。印象的なのが入谷から座間まで歩く途中のファミレスで教えた子もいた。ひと気のない農地を歩く例だった。しかし多少土地勘のきく小田急線沿いの子たちの訪問が、これからは橋本周辺重点になるのだろう。経営陣の方針から、引きこもりの若者への意識がどんどんなくなっていることを思えば、相模大野校の方は、教材屋と進路教育カウンセラーにとどめ、JR相模原の塾の出張相談業務屋にシフトしていく時期なのかもしれないと思い始めている。
昼に用件をすませて、塾長に臨時登板させたお詫びを伝えてからすぐ、私は松戸に向かおうとしていた。日本グラフィックデザイン協会主催の「やさしいハンカチ展2」の最終日にすべりこもうとしていたのだった。しかし松戸着15:53では無理。神奈川展は4/20~だが、それまで待つのかなと思う。この間には水戸・静岡展がある。
JAGDAの発想は、被災地の子どもが描いた絵をプロのデザイナーがハンカチにし、展覧会で販売収益を上げ小学校に還元。またハンカチ7,000枚を東北の子たちに贈るという活動だ。
ハンカチという着想が面白いと思いつつ、これは勿体無い、中途半端な活動だと直感した。彼らは被災地の子どもに着眼しながら、全国の子どもが見えていない。以前、気仙地方で、トヨタ系の出資の「夢の車」企画があった。被災した子に「夢」を持ってもらいたいという。大人が勝手に描いた子ども像に、被災に無縁な夢を描かせる企画と、ひどいセンスだと思った。被災地だろうが、被災地に無縁な地域・家族の子が描く車は、質がおそらく大差ないだろう。被災との関係が出れば、その夢の凹凸を大人が扱いきれなかっただろうに。
JAGDAの場合も、被災地の子どもが原画を描き、デザイナーが仕上げる…ここまでは、描く子どもがこの企画の流れを理解しているのかが疑問である。問題はせっかく作ったハンカチを被災地の子どもに戻して贈るというくだりだ。折角、素敵なコミュニケーション・ツールを見出してくれたのに、デザイナーの方が、全国の子どもや支援の気持ちのある大人たちの気持ちを理解していない。この時期、生活再建に動き出している被災地の方々へのつながり方・協力の仕方がわからず、気になるが何もできないと思う状況に、民間交流のカニの穴を開けてくれたのだ。
私は決して非被災地の子どもに絵を描かせて、ダイレクトに東北に送れというような無神経なことをいいたいのではない。大人の理解が浅いところで、子どもに絵を描かせれば、ステレタイプな「がんばれ」「絆」が噴出するだけだろう。
交流集団を大きくすればろくなことはない。相互理解のプログラムを走らせた上で、互いに共通の場で描き、交換すれば、キルトの活動のそれのように、記憶の断片の交換となる。その絵の指導の場面で、技術指導の形でデザイナーさんたちが協力してくれれば、このハンカチ展は、様々な連想企画のバリエーションの枝を広げるだろう。企画力と腕力(実現力)があれば、相互のメッセージが届けられる。
中間支援者とは「火付け屋」だ。時代の要請を読み、様々な参加の可能性のある提案、様々な変容の起こるやわらかさを持った提案を善しとする。
帰りに市社協とサポセンに立ち寄り、サポセンではハンカチの話を伝えてきた。
私が医療保健活動を調べていて偶然得た情報だが、現在は民間交流を進める必要がある時期に入っている。私の検討している医療・保健福祉活動とどこかでつながるかもしれない。サポセンには土台があるのだから、ハンカチに感じることがあれば、活動の網目をデザインしてみたらという意味だった。
私が担う余力はない。ただこれを発火させるには、ゆめたい展・ハスキーズギャラリー展ではなく、旧イオン展やイトーヨーカドー展などの大店舗会の参加促しや、文化会館展示室展の市民行事便乗型だろう。寄付金も企画にひねりが必要。またコンテスト形式をとれば、非被災地の作品も、ステレオタイプを封じることができるだろう。Tシャツよりも、受け入れ易いだろう。
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これからの精神医療・保健生活支援活動を進めていく上で、訪問看護介護の保健師さんと連携していく活動は、民間の社会活動の構想がしっかりしていないと、専門職に連携の必要を感じさせる懇談講演形式の災害カンファもどきは出来ない。今私が再開しているのは、東北の障がい者・高齢者・失業分断家庭の現状を今のうちに、できるだけしっかり把握しておく必要がある。
現地に行きたい。思いがつのる。
NHKドラマ「ラジオ」女川の若者の巣立ちが愛おしい。と同時に、わたしが浜見平と遠藤で流してきた「ミニFM」チャット。あれから20年になる。フレネが子どもが取材で学ぶ姿に着目したが、私が東京南部の塾で行った企画「まっすぐに行くんだ」や、二年半続いた「ミニFM」(これは有珠山噴火のとき虻田町の臨時FMと避難所FMに受け継がれた。)の思いもあって、記者役の若者の変革のツールになるのだと、ぶつぶつ言いながら録画を見た。
コミュニティFMでは大きすぎる。インターネットに音声を載せるのは対象の質が違う、そんな生々しい活動がありうることを語る相手がいない寂しさが、じわりと浮かんできた。引きこもり青年を放送に巻き込んだ活動は、平時には、活動が支えきれないだろうなと思いつつ。
夜間傾聴>ひとり
(校正3回目済み)