2013/03/09 記
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不安はもろにあたってしまった。昨夜の煮付けを置いて帰った来客は、朝10時前に現れた。父の在宅介護のとき、無理難題を頼み留守番や、父の移動補助を頼んだ浜見平の友達だった。父の老健まで乗せていくから、覗きにいこうというのだった。老健にいく場合は、母だけに任せておくわけにはいかず、立川上映参加は見送らざるを得なかった。朝、母はダンピングを起こしていたので、母を乗せずに私が案内して老健に出かけた。
立川試写会に行けなかったので、「逃げ遅れる人々 東日本大震災と障害者」のビデオを買うことにした。個人鑑賞用\3,000-,
団体・ライブラリー価格(上映権つき)\10,000- さてどちらが得策かと考えている。
状況がわかっていないから仕方ないが、高価なお見舞い佃煮セットをいただいたが、嚥下障害がある父には、これでは無理。説明して、母が預かった。家に戻ると、すでに佃煮は消え失せていた。そのまま、別の知人のお礼に使っていた。こういう機転は男には無理だ。しかし早い。呆れている。
JR相模原のあてにならない授業の準備をしていると、メールが入った。全員欠席。この時期、当たり前といえば当たり前。徹底して横道にそれた授業をやるつもりでいた。とんでもない人との出会いは機会を逃すなという話だった。私が高校在学中、故・荒畑寒村氏と南湖院の近くで出会い、食事をした。とんでもない人とは後で知ったが、そのころから白髪頭の集まりに出ることが許されて、とんでも情報が入るようになっていった。まもなくその会は横浜へと移動し、私は私でべ平連という活動に参加しだしたのだが、それらの話に魅力を感じたのは、私が社会と接続する参加の回路を見出したことだった。自分なりに世界を理解していく端緒を得たように思えた。
こういう出会いは、事に踏み出すことによって到来するもので、大学は自分が探れば機会が多い場なのだが、大事なことは、自分が求めたから世界が広がるということだ。これを語りたかった。沈黙した瞬間から降り積もる塵に埋もれて、消えていくことを引き受けることになる。
卒業式の送辞ではあるまいし、空転するよ、やめときなというジャワ帰りの塾長のメールコメントがついていた。脱力。
結局、今日はペットレスキュー支援紙No.15を配布するだけの一日になっていた。今日は6部。3分の1かなあ。週明け,残部を撒ききる。3.11を前に、急に関連番組が増えてきた。現地に無性に行きたくなった。目のことから車の運転ができないから、中古自転車を送り、預かってもらえるところを探す。
私が陸前高田市の広田半島エリアの高齢者に、通院・買い物の付き添い外出ボランティアを提案し、現地滞在ボランティアに中古車を仲介したのも、この活動のテストをお願いしたからだったが、それも私が出かけないことで、動かなくなっていた。2月にタクシー協会の後押しもあって、オンデマンド交通が広田半島を走るようになって、私は愕然とした。提案して1年半。私との電話・メールともに、協力者は何も中途の経過を知らせてこなかった。私からの指摘で、最近オンデマンド交通ができたと応答してきた。全く連絡協力は有名無実、結局は出向かねばならないのだった。地元の受け皿、被災地の折衝ともに支える活動をせねば、連携活動は作れない。既知の活動があって、それをつなぐのではなく、新たに必要な運動を作り出していくこと、その道筋をどうたてていけばいいのか。
このとき、私は塾生になんと答えるだろう。まずは空転をするために現地に行くべきだ、なぜなら災害はなにも終わってはいないし、私は見逃すべきではないと考えるからだ。最低限の私の節操は守るべきだからだ。ひとのせいにしない。行くべきなのだ。走りながら考える、そのことなのだ。
空転の一日。要援護者支援の流れを作るために、「そのために、なにをしたの?」これを問い続けることだ。しかし、この感覚は、要援護者支援・ケアの連携活動を立ち上げたいと考える者の包容性のある言葉ではない。しかし双六は振り出しに戻ってしまった。地ならしは厳しいものだ。
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明日は午前中、茅ヶ崎市内の避難訓練だ。夜、「津波。そして桜」の再上映会がある。12月に上映し、1月にはETVで放送した作品だ。3.11を忘れないための前日上映と思い、参加する。
新年度、災害時要援護者救護セミナーの会員を募る文章を考えている。湘南のように被災時人口流動性の大きな地理条件の活動は、災害施策の多様化が望まれる。東日本大震災の東北3県の太平洋沿岸地域の街のあり方と違う。阪神淡路大震災との比較もやらねば。
夜間傾聴>ひとり
(校正2回目済み)
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不安はもろにあたってしまった。昨夜の煮付けを置いて帰った来客は、朝10時前に現れた。父の在宅介護のとき、無理難題を頼み留守番や、父の移動補助を頼んだ浜見平の友達だった。父の老健まで乗せていくから、覗きにいこうというのだった。老健にいく場合は、母だけに任せておくわけにはいかず、立川上映参加は見送らざるを得なかった。朝、母はダンピングを起こしていたので、母を乗せずに私が案内して老健に出かけた。
立川試写会に行けなかったので、「逃げ遅れる人々 東日本大震災と障害者」のビデオを買うことにした。個人鑑賞用\3,000-,
団体・ライブラリー価格(上映権つき)\10,000- さてどちらが得策かと考えている。
状況がわかっていないから仕方ないが、高価なお見舞い佃煮セットをいただいたが、嚥下障害がある父には、これでは無理。説明して、母が預かった。家に戻ると、すでに佃煮は消え失せていた。そのまま、別の知人のお礼に使っていた。こういう機転は男には無理だ。しかし早い。呆れている。
JR相模原のあてにならない授業の準備をしていると、メールが入った。全員欠席。この時期、当たり前といえば当たり前。徹底して横道にそれた授業をやるつもりでいた。とんでもない人との出会いは機会を逃すなという話だった。私が高校在学中、故・荒畑寒村氏と南湖院の近くで出会い、食事をした。とんでもない人とは後で知ったが、そのころから白髪頭の集まりに出ることが許されて、とんでも情報が入るようになっていった。まもなくその会は横浜へと移動し、私は私でべ平連という活動に参加しだしたのだが、それらの話に魅力を感じたのは、私が社会と接続する参加の回路を見出したことだった。自分なりに世界を理解していく端緒を得たように思えた。
こういう出会いは、事に踏み出すことによって到来するもので、大学は自分が探れば機会が多い場なのだが、大事なことは、自分が求めたから世界が広がるということだ。これを語りたかった。沈黙した瞬間から降り積もる塵に埋もれて、消えていくことを引き受けることになる。
卒業式の送辞ではあるまいし、空転するよ、やめときなというジャワ帰りの塾長のメールコメントがついていた。脱力。
結局、今日はペットレスキュー支援紙No.15を配布するだけの一日になっていた。今日は6部。3分の1かなあ。週明け,残部を撒ききる。3.11を前に、急に関連番組が増えてきた。現地に無性に行きたくなった。目のことから車の運転ができないから、中古自転車を送り、預かってもらえるところを探す。
私が陸前高田市の広田半島エリアの高齢者に、通院・買い物の付き添い外出ボランティアを提案し、現地滞在ボランティアに中古車を仲介したのも、この活動のテストをお願いしたからだったが、それも私が出かけないことで、動かなくなっていた。2月にタクシー協会の後押しもあって、オンデマンド交通が広田半島を走るようになって、私は愕然とした。提案して1年半。私との電話・メールともに、協力者は何も中途の経過を知らせてこなかった。私からの指摘で、最近オンデマンド交通ができたと応答してきた。全く連絡協力は有名無実、結局は出向かねばならないのだった。地元の受け皿、被災地の折衝ともに支える活動をせねば、連携活動は作れない。既知の活動があって、それをつなぐのではなく、新たに必要な運動を作り出していくこと、その道筋をどうたてていけばいいのか。
このとき、私は塾生になんと答えるだろう。まずは空転をするために現地に行くべきだ、なぜなら災害はなにも終わってはいないし、私は見逃すべきではないと考えるからだ。最低限の私の節操は守るべきだからだ。ひとのせいにしない。行くべきなのだ。走りながら考える、そのことなのだ。
空転の一日。要援護者支援の流れを作るために、「そのために、なにをしたの?」これを問い続けることだ。しかし、この感覚は、要援護者支援・ケアの連携活動を立ち上げたいと考える者の包容性のある言葉ではない。しかし双六は振り出しに戻ってしまった。地ならしは厳しいものだ。
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明日は午前中、茅ヶ崎市内の避難訓練だ。夜、「津波。そして桜」の再上映会がある。12月に上映し、1月にはETVで放送した作品だ。3.11を忘れないための前日上映と思い、参加する。
新年度、災害時要援護者救護セミナーの会員を募る文章を考えている。湘南のように被災時人口流動性の大きな地理条件の活動は、災害施策の多様化が望まれる。東日本大震災の東北3県の太平洋沿岸地域の街のあり方と違う。阪神淡路大震災との比較もやらねば。
夜間傾聴>ひとり
(校正2回目済み)