”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「アイヌと沖縄」

2010年12月31日 | 「美ら島沖縄大使」便り

            

 確か私が高校を卒業した数年後だったと思いますが、アイヌが沖縄を訪れた時にはお互いの浅黒い顔付、毛深さ、短躯、刺青風習等の類似さに驚いたと言う。そして日本列島南北に分断された縄文人としての源日本人である自分達を自覚、反対に皇室初め現大和人は大陸・半島からの移住侵略弥生人ではないか。それを裏付けるかのように宮古犬とアイヌ犬の舌紋が同じということが発表されました。

 しかしその後、琉球人の耳垢が大和人同様の乾湿に対しアイヌの耳垢は白人系湿性であることや琉球、大和人にある蒙古斑点がアイヌには白人同様ほとんど見られないことも判明、双方同類論が難しくなりました。しかし、人類学視点と社会学的視点は別。

 外貌、礼拝様式、刺青等の共通性はあるものの、琉球と沖縄の大きな違いは文字文化や王国国家形成とも言われていますが、琉球も文字文化は「おもろ草紙」が記述された14世紀以降、それ以前は伝承文化で双方大して変わらない。

 対してアイヌの文字文化は明治初年の知里幸恵(沖縄の人はこの苗字をほとんどチサトと読むでしょうがこの呼称はチリ)によるアイヌ伝承歌謡の「ユーカラ」記述か。

 そもそも国家ナショナリズムの発生は定住農耕を基盤とする領土支配意識が源に対し、狩猟採集移動生活を中心とするアイヌやジプシーには領土意識、従って国家意識やナショナリズムは芽生えないという。現に日露で争われている北方4島はそもそもアイヌの居住地だったにも拘らずアイヌからは“我々に返せ!”という声は聞かない。それ唯ならず、かつて“我々をアイヌと同扱いするのか!”と沖縄県人が怒り、抗議した有名な「大阪博覧会」(1903年)の「人類館事件」では私の知る限るアイヌからは"差別反対“という抗議の声は聞かなかった。これは文明未開意識の反映と言うより、底流には狩猟採集移動民族特有の非ナショナリズム意識があったのでは?

 実は今ここに未来の世界人類共通の平和意識確立のヒントを得ようと言う動きもあります。

 先の文化座公演、「ユーカラ」から引用の「銀の滴」タイトルに触発された独断偏見の連想妄想でした。

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 佐々木愛・文化座「銀の滴」公演を観て

2010年12月29日 | 「美ら島沖縄大使」便り

          

 池袋「国立劇場」小ホールで行われた文化座の公演「銀の滴降る降るまわりに」を観劇しました。これは劇団会員でもある知人の勧誘を受けたもの。「銀の滴」題名は知里幸恵の「アイヌ神謡」から取ったのか。

 これは40名以上のアイヌが召集され、沖縄で戦死した事実を知り、衝撃を受けた座長の佐々木愛さんが杉浦久幸氏に脚本を依頼し、黒岩亮氏の演出によって劇化したという。

 日本に於ける先住民、共にマイノリティーとして差別を受けたアイヌと沖縄人が先の大戦、軍体験をどう過ごしたか。佐々木さんならず、脚本、演出家には興味あるテーマーながらどう描くが苦労したと思う。

 鹿児島45連隊で軍隊体験をした亡父が島袋姓の沖縄出身二等兵が“フクロ!フクロ!”とからかわれていたのを語っていたように軍隊ではアイヌ、沖縄人は虐められたのでは。そしてさらに沖縄人はアイヌを階層的に蔑視したのでは。

 演出は舞台を軍隊とし最蔑視されていた炊事兵にアイヌと沖縄人を配し、双方の啀み合いと衝突を提示、さらに佐々木愛演ずる沖縄方言台詞を巧に操るオキナワ・オバーを噛まし観客に課題を投げ掛ける。

 先の「結い座」の「対馬丸」以来の観劇経験でした。

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John Grisham ;「The Partner」

2010年12月27日 | 「Weekly 読書感想」
The Partner
クリエーター情報なし
Dell
  ニューヨークタイムス紙のベストセラーの本書、著名なライターだけに追えるかと読み始めて1年半の今年12月、ほとんど意味判らずも何とか読了?

 450ページを越すペーパーバックの本書、マネーファンドを欺いて南米ブラジル逃亡者、捜査追及のFBI、ワシントンエリートの生き様、リーマンショックを予想させるフィクション。内容は法廷訴訟用語のオンパレード、ほとんど理解出来ないながら、過年訪ねたリオやコパカガーナー海岸の描写部分は何とか追え、必死で単語文字面だけの隔靴掻痒、不思議に何とかストリーの流れが読み取れました??登場人物の名前を覚えれば何とかストーリー追えるものの、肝心の英字名前が覚えられず難渋(´Δ`;)

 実は私の鞄には常に新書・文庫版の和書以外に”英語学習”とペパーブックが入っているものの、文庫、新書の和書に比べ、英書ペーパバックは分厚く、印字も小さく満員電車で吊革に捕まりつつ、片手で持って読むには難しく、シートに座れた時や出張車中や機内だけでページを開くもののページの半分の単語スペルが分からず読むのは精々1~2ページ。それにしても我ながらよくも1年半、辛抱強く続いたもの。最後のページ、ヤレヤレでした。

 それにしても本書と比較して、改めてSidney Sheldonの英文は何と読み易かったかと改めて思いました。まあ、私の英語力はそんなもの! 

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「仲本光正さん、おめでとう!」

2010年12月26日 | 「美ら島沖縄大使」便り

      

  師走慌しい先週末、九段の「グランドパレスホテル」で行われた琉球三味線教室“クイチャーパラダイス”の家元・仲本光正さんの沖縄観光功労者受賞、 宮古島観光大使就任の祝賀パーティに出席しました。参加者は本土出身主要お弟子さん中心に300人以上の盛況さ。

 三味線や琉舞に疎い私が発起人として祝辞挨拶役の一人を依頼されたのは仲本さんが関東沖縄経営者協会と琉球大学同窓関東支部メンバー同士という縁。沖縄の歌や踊りは娯楽余興でおよそ経営とは縁が無いように見えて、仲本さん、実は私が一目も二目も置く経営者センスの持主!

 というのも首都圏3000人を超すお弟子さん向けへの一竿10万を越す三味線の製造、販売の留まらず、ブラインドサウンド消音演奏装置の発明と特許取得と“琉球音楽と経済効果”を結ぶ、独特特有のモデル構築者。

 勿論、利益追求の経営は付随結果で、仲本さんは毎年、飛行機をチャターし数100人のお弟子さんを宮古島観光に案内、故郷の経済効果に多大な貢献をしています。

 たまたまこの日、会場と目と鼻の九段会館では沖縄県人会主催の芸能界が行われており、私を含み多くの県人関係者が両会場を往復、首都圏を制圧?する沖縄ソフトパワーの威力を実感、堪能しました。

 

 

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「奄美IT懇話会」

2010年12月24日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                                          

“重田さん、大島出身でしょ!沖縄ばかりでなく、少しは生まれ故郷の大島にも関わったら!”との苦言に触発され、この所多少故郷回帰マインド。

 「関東沖縄IT協議会」をもじった訳ではありませんが、1年程前、首都圏IT業界に関わっている奄美出身者の会を企画したところ、隔月例会毎に若手IT創業オーナー連に加え、㈱NTTドコモに東証1部IT企業の幹部、初代NTTデーター社内ベンチャー起業者、大手コンピュータメーカー幹部OB、調査研究機関員、サイバー大学准教授等々と多彩な新規メンバーの参入網羅、あっという間に20名近い活況。”故郷、遠くに思えばこそ”の求心集いか!

 中でもユーザー企業からスピンオフ、”未だ少女の面影を残しつつも”みなとみらいクイーンズタワーに本社を構え、公的補助金一切受けず、自ら故郷奄美へNearshoreバックアップセンターを展開、地元の雇用促進にも貢献の女性経営者、またITベンチャーを共同創業、20年に亘り支え、発展の基礎を築くや潔く身を退く”宇宙人脈誇る”女性役員、さらには我国NO1のコールセンター、BPO企業の先兵として沖縄、中国とアジア諸国の”IT振興浪”を駆け巡る女性マネジャーと活躍目覚しい島出身女性連の元気さにこちらも煽られ、激励されます。

 この日は渋谷中心高層ビルに本社を構える同社でのビジネスプレゼンテーションに続き、叶帝京大教授に吉奄美市東京事務所長をゲストに招いた師走の懇親2次会、時を忘れ盛り上がりました。この後3次会もありましたが、翌日別会を控えた私は泣く泣く一人帰途に着きました。

                     

 

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「ラ、ラ、ラ、ラジオ沖縄」;ボーダーインク社

2010年12月20日 | 「Weekly 読書感想」

 

 全国的に苦戦するラジオ業界で方言ニュース等地域に密着して独自の路線で増収増益という快挙を成し遂げているROK(ラジオ沖縄)開局50周年記念誌。

本書は特定筆者の書下し文ではなく、現役社員、OB、リスナー等50余人の折々のエッセー集。寄贈頂いた当初は企業PR誌かと手に取っている内に多彩な内容とページを飾るスッタフ、アナウンサーの写真に惹かれ、ついつい読み通しました。

 特に私の興味を惹いたのは最終章の「ROK50年物語」。1958年スタートに先立つ懐かしい「親子ラジオ」から琉大家政学部創造者とも言える翁長君江教授のスピーチを熱心に聞いていた亡母の姿が思い浮び、米軍民政府相手の設立申請経緯、地元新聞「琉球新報社」や「沖縄テレビ」との関連等さながら沖縄の戦後史と私達の同時代史とも言えます。

 実は私も屋良悦子専属アナウンサーによる3日連続の朝のインタビュー番組出演経験と私が代表を務める㈱メディア21から10年以上に亘りROK東京支社へ人材派遣をしているお付合いもあります。

 惜しむらくはその東京支社の奮戦、思い出が一切語られていない点と巻末に社史と沖縄年表が併載されていたら、戦後沖縄史と放送史の関連がより鮮明に理解出来たかも知れません。

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「沖縄フアンクラブ」の忘年会

2010年12月18日 | 「美ら島沖縄大使」便り

         

 新橋の沖縄料理店「竹富島」で開催された「沖縄フアンクラブ」の忘年会に久々に出席しました。来賓の糸数琉球新報支社長以下20名の賑わい。

首都圏には沖縄関係の懇親グループは数多くありますが「沖縄フアンクラブ」はそれ以前には微妙な並立関係にあった東京沖縄県人会と関東沖縄経営者協会両組織の会長を史上初めて兼任した故竹田会長が発起、その遺志を受け継いだ故植木会長と現矢野会長が継承、強化した首都圏に於ける文字通りの“沖縄フアンクラブ”

 私は当初 “県出身自らの自分達のフアン組織を担うのはどうも”と躊躇気味でしたが、“県人組織とのパイプ役も必要だからと”とそれまで何かとお世話になった両会長の強いご意向辞退し難く、設立趣意書原案の作成や竹田、矢野両会長と共に準備資金としてそれぞれ10万円を寄付した記憶もありますが、その後の活動では余りお役に立たず、名ばかりの常任理事を拝命しています。

当初設立準備に動いた笠原女史の跡を自ら買って出た竹内事務局次長によって会報発行や様々な部会活動が生まれました。現在は矢野会長の意向を受け、体調不良でリタイヤした竹内局長の跡を継いだ岡田、屋良両氏が事務局業務を担い活動しています。

 本会の際立った特徴はメンバーに内閣府、郵政、日銀、裁判所等沖縄駐在赴任の官庁公務経験の方々が多いことです。沖縄滞在は1年から数年と様々ですが“沖縄を占拠したヤマトンチュ”として現地で揶揄、排される等の経験を浴びつつ沖縄に対する忘れ難い記憶と思い入れがあるようで、この宵も酔いが廻る毎に懐かしい往時と辛口沖縄批判と率直、腹蔵ない会話に滅多にない交流経験をしました

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「旧友再会!談論風発」

2010年12月17日 | 「千客万来」

               

 神楽坂新ビルへの引越、移転多忙な中、30数年ぶりにかっての職場仲間と逢合、旧交を温めました。

 創業独立前、共に勤めたビジネスコンサルタント"ビーコン”仲間。4人ともITビジネス黎明期のマーケット部門所属でSE相手に奮闘した仲間。その後、共にそれぞれIT同業、中小企業診断、研修コンサルタントと独立稼業。齢、共に70前、“往時茫々” 談論風発の一夜でした。

 気がつけば4人共にかつて職を同じくした会社へは皆な中途入社に転職2度、3度。今、それぞれ有機自作農作にSOHO、コンサルと悠々自適?!

“この道一筋”のキャリア選択希求の今次の若い人たちには揃って聞かせて上げたい紆余曲折ながら悔い少なき?人生顔ぶれの4人、時を惜しむ痛飲の一宵でした!

 

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「関東沖縄経営協・IT協合同忘年会」

2010年12月13日 | 「美ら島沖縄大使」便り

          

           (玉城デーニー議員からご祝辞)

 11月30日、銀座5丁目交差点を見下ろす三越向かいのサッポロ銀座ビル9階「銀座スターホール」で関東沖縄経営者協会と関東沖縄IT協議会共催の忘年会に参加しました。

 出席者は玉城デーニー衆議員に上運天県東京事務所長、糸数琉球新報支社長、田口沖縄タイムス支社長来賓をお迎えして100名前後。

 有志による沖縄サンシン演奏、ベルカウント・オペラ詠唱にフラメンコ舞踊と多彩な余興に不況何処吹く風と場内沸き、参加者一同、来る年へのエネルギーと元気を頂きました。

 共催とはいえ、最近の動員力では常にIT協の若いメンバーのエネルギーが歴史ある経営協を凌駕し、IT勃興の時代背景を否定出来ません。

 とは言え、一般ユーザー需要あってこそのITビジネス、競争激しい首都圏での経営持続、VISION確立、マーケティング、組織構築、人材育成等々先達企業の経験から学ぶべきことは多く、今後とも双方の連携、交流の深化と意義を改めて感じました。

          

            (フラメンコ?カチャシー?)

 

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「オキナワと少年」

2010年12月12日 | 「Weekly 読書感想」
オキナワと少年
伊佐 千尋
講談社

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 沖縄での陪審員経験を綴ったデビュー作「逆転」で第9回大宅壮一賞を受賞の高校(二中)大先輩の言わば自叙伝。1929年東京生まれの著者が16歳の青春時1945年の終戦後、父母の故郷である沖縄へ帰省、終戦後の思い出語っている。
 私が最も興味を覚えたのは占領下の米軍統治の沖縄での伝説のCID勤務体験。CIDとはCriminal Investigation Command
アメリカ陸軍犯罪捜査司令部)の略称。

 小学6年時の昭和52年沖縄に渡った私達の世代から見ると当時のCIDは日本復帰運動を反米活動と看做し、その活動を高額給料の見返り同胞詮索する言わばスパイ活動組織。一体どのような沖縄人が同胞を売るために米軍に雇われ活動しているのかという思いでしたが、著者のCID体験は裁判を公平に実施するための立ち会い通訳する言わば綺麗事。本当にそれだけだったろうか?
 米軍占領下、瀬長亀次郎委員長の率いる沖縄人民党が在沖占領米軍とその手先の同胞CID活動メンバーにどれほど酷い目にあったことか!
 当時の本土在住の県出身者が一様に押さえ難い望郷の念に駆られていたのは逆に、著者は本土への引揚を一貫して求めていたことや従軍医として最後を遂げた父が実は母と再婚した実父では無かったこと、さらに当時の沖縄在住男性から見て夢のような米軍族白人女性との初体験等を淡々と語っている部分は強く印象に残っています。それやあれや、占領下沖縄の裏面史の一部とも言える著書です。
 本書とは著者と懇意の関東城岳同窓会の山路会長の好意と縁で出会うことが出来、感謝です。

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「第26回ナハマラソン!10キロでリタイヤ!」

2010年12月07日 | 「マラソン挑戦」

            

            (フリーアナウンサー吉澤さん撮影)

金曜日の激励会を受けて125日,生涯1度目のナハマラソンに挑戦?昨年の35千人から25千人に制限した今年の大会。それでも最後尾の私がスタート地点に達したのは先頭がとっくに安里三叉路を通過している920分過ぎ。スタート点の大会本部座席や最寄の歩道橋上には知人、友人鈴なり!スタート間もない泉崎歩道橋に差し掛かると”シゲタさーん”の声!見上げると何と私を含んだ4人の名前を書いたガンバレの垂れ幕!手を挙げ応える。

5キロ過ぎ沿道応援の級友にバッタリ、いつもながらこれこそ他に無いナハマラソンの醍醐味。それでも出場の私に比例し、激励支援の顔ぶれも年々高齢化!失礼、こんなこと書くと来年から声援者0になるか(^-^*)

左脚から右足に移転した膝疼痛を我慢しつつ目標の10キロ地点に到達したのはスタート1時間半後の11時前。エントリー仲間はすでに中間地点通過ですが私は支援友人達の忠告通り?ここでリタイヤー待ちのタクシーを拾いゴールの奥武山グランドに逆戻り。すでに3時間台のランナーが続々ゴール中。預けた荷物を探し本部席周辺をウロウロしていると大会主催の「沖縄タイムス」首脳メンバーから“重田さん!完走したの?“と声を掛けられ、”ハイ!ゴールしました“と言う訳にも行かず“いえ!10キロでリタイヤ、タクシーで着いたばかりです”と照れつつ記念ショット。

 そのままホテルに戻り、シャワーを浴び、空港へ。機内座席で顔顰めつつ痛む脚を伸ばしたり、曲げたりしながら爆睡!自宅到着は11時半。

 大会後3回目の今日に至り、予想通り脚を引き摺っています。とくに下り階段が響きます。ともあれ今回も同期の皆さんはじめ多くの友人の声援を頂き有り難う御座いました。膝後遺症などには代えられない貴重な感興!主催者及び地元応援ボランティアーの皆さんに改めて感謝です。

               

                    (10キロ地点。同期の大山さん!応援感謝!)

 

                                    

                (主催者・沖縄タイムス・RBC首脳の皆さん)

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「第26回那覇マラソン決起会」

2010年12月06日 | 「マラソン挑戦」

         

 先週末金曜、翌々日のナハマラソン出場を控え、エントリー有志が那覇市久茂地の居酒屋「抱瓶」に集い、決起激励交流会。参加者は過去3回いずれも4時間台で完走している当社社長に後輩社長ご夫妻。さらに同窓先輩のご紹介で今回初めてお会いした遠路・長野から来沖の71、69歳の先輩ご夫妻。なんとご高齢のこのお二人、過去お揃いでフルマラソンを完走なさっているとのこと。私はこれまでフルマラソンはナハ12回、オキナワ1回、荒川が2回と合計15回挑戦していますが制限時間内完走はナハ9回に荒川回の11回。ベストタイムは53歳、第9回ナハの5時間29分。以後すべて5時間30分オーバーで自慢できるものではありません。ここ数年は膝障害もあり、いずれも1020キロでリタイヤ、今回も膝の心配をしつつ10キロが目標。膝悪化、苛めつつの自己満足のマラソン、山の神は呆れていますが、この日同席の先輩ご夫妻の挑戦姿を見ていると“何もしない五体満足より、障害加速のチャレンジもいいか!”とこれまた阿呆の自己陶酔!

         

            (大会当日朝・出場5人~平均年齢65歳)

                撮影:フリーアナウンサーの吉澤さん

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「奄美ICT視察ツアー・加計呂麻へ!」

2010年12月02日 | 「奄美災害体験報告」

    (チャター船で古仁屋港を後に加計呂麻へ)

     

「奄美ICTツアー」の二日目、先般豪雨災害で断念した故郷・加計呂麻への渡航実現。奄美市手配のバスにて名瀬から古仁屋へ1時間余で到着。

祝日休日にも拘らず、瀬戸内役場には企画課長とWEB担当者お二人の出迎えを受け、直ちに港へ直行、町が仕立てた船で対岸の加計呂麻島・生間(イケンマ)港に向かい、そこから役所保有の車2台で俵(ヒョウ)武名(タケナ)薩川(サツカワ)と懐かしい村々の山間、沿岸を縦断、途中「呑之浦湾」の「死の棘」でも有名な島尾敏男記念碑と特攻艇「震洋」豪に立ち寄る幸運に廻り合いました。

この日、たまたま公用車で私を案内してくれた瀬戸内役場のWEB担当の若手職員と語り合っている内に、何と彼のご母堂が重田姓で同郷の遠縁幼友と分かり、ことの序に須子茂まで案内して貰い、本家筋の従兄宅を訪ね祖先位牌お参りが出来ました。改めて島の人の繋がりの濃密さを思い知りました。

今回の加計呂麻廻りで最もショックだったのは表、薩川、木慈、須子茂等の小学校が全て2~3年内に廃校見込みで、島では伊子茂小学校1校だけになるという。

実は、休日にも拘らず二人の職員がわざわざ出勤、私達をエスコートしてくれたのは、この廃校舎の活用提案が一つの大きな目的でした。緑に覆われ山と海に囲まれた校舎を見ていると常設開発センターというより一時滞在の研修センターに向いているように感じました。

至る所”松食い虫”に食い荒らされ赤茶けているとは言え、この緑豊かな森林は島一番の資産、一時訪問者の目を楽しませるだけでなく常時島に住む人達への有効活用もぜひ検討されたらと思いました。

       

          (廃校される俵中学正門前で)

      

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「奄美ICT視察ツアー再行」

2010年12月01日 | 「奄美災害体験報告」

           

 “いい夫婦”の11月22日、先の豪雨で注視した㈱メッツ研企画の国交省委託の2泊3日の「奄美ICT視察旅行」の再開。同行は在京IT関係従事者10名。

1時半奄美空港着、先の災害復旧著しいとは言え、影響未だ至る所に残っていました。

 空港からIT企業誘致インキュベーター候補の笠利の「紬の館」直行後、地元進出のIT企業3社を訪問。市役所では参加者と地元企業、市担当者とマッチングセッション。私は沖縄へのNear shore進出経験から彼我の比較、検討から率直な感想を述べました。

 沖縄は若年者人口増と高い失業率からくる安価・大量の労働力供給、国による手厚い補助支援。その背景には高い在日基地負担があります。沖縄の持つこの要素メリットとは逆の基地招聘拒否に人口減を背負う奄美は何をアッピールするべきか。

 島嶼アイランドのもつ海と山の自然環境を全面に出し、量や規模を追うのではなくSO(スモールオフィス)やHO(ホームオフィス)等によるコンテンツ・ニッチビジネスか。いわば"IT一村"や"IT寅さん"モデルの創出追及。

 それは勢い株主利益と収益追求ひたすらな大企業対象ではなく、創造、生甲斐、自己実現追及価値観のベンチャーオーナー企業家の感性や島出身の故郷回帰、愛郷マインドに訴えた方がいいのでは。振り返り、私が20年以上前に公的補助金受領一切無く、自力で沖縄事業所設立に動いたのは中学、高校を過ごした沖縄への回帰心が大きく作用したのではと今にして気付きます。

 夕方、古仁屋育ちの私にとっては伝説の名瀬市の飲食街「屋仁川(ヤンゴウ)」で行われた交流・懇親会には市長以下担当の職員方も見え、盛り上がり、島振興に掛ける関係者の意欲を感じました。

           

                  (未だ残る豪雨災害跡)

 

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朝吼夕嘆

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